第3話 猫を探しに
マルガレーテ様の靴音は、他の誰のものとも違う。
硬い踵が石の廊下を叩く音。一歩ごとに正確で、乱れがない。二十年この宮廷に仕えた女の足音。私が侍女棟に入った日から、この音だけは聞き間違えたことがない。
その足音が、夜の廊下に響いた。
「レーゲン」
心臓の代わりに、舌の付け根が苦くなった。私は振り返り、丁寧に頭を下げた。
「マルガレーテ様。お疲れ様です」
「こんな時間にどちらへ?」
侍女長の目は暗がりの中でも鋭い。紺色のドレスの襟元がきっちりと留められ、深夜だというのに身だしなみに隙がない。この人は寝ている姿を想像できない。
「猫を探していまして」
嘘は三秒で組み立てた。
「猫?」
「はい。灰色の猫で、右耳に切れ込みが入っています。三日前から中庭をうろついていて、今朝、王妃様の庭園に入り込んだのを見かけたんです。銀木犀の根元を掘り返していたので、花が傷む前に捕まえようかと」
マルガレーテ様の眉が微かに動いた。
「名前は?」
「グリ、と呼んでいます。勝手に」
嘘は具体的であるほど信じてもらえる。父の言葉ではなく、本で読んだ知識だ。『交渉と欺瞞の技法』。禁書庫の片隅で見つけた、あまり役に立たないと思っていた一冊。
「……そう。見つかったら報告なさい」
「はい」
靴音が遠ざかっていく。一歩。二歩。角を曲がる。消える。
肩の力が抜けた。膝が少し笑った。
でも、安心はできない。マルガレーテ様は信じていない。あの目は「信じた」ではなく「泳がせる」の目だ。侍女長を二十年務めた人間を、架空の猫で騙せるほど世の中は甘くない。
旧塔には行けなかった。
◇◇◇
翌朝、中庭ですれ違いざまにルードヴィヒに紙片を渡した。暗号で「昨夜は行けなかった。尾行があった」。
昼過ぎ、厨房の前で返事を受け取った。「了解。今後の密会場所を分散させる」。
エルゼが隣で「あの近衛騎士、また無愛想な顔してるわね」と言った。「無愛想な顔しかしないでしょう」と私は答えた。嘘ではない。
その週は、旧塔を避けた。
代わりに、密会の方法を変えた。中庭の井戸端、王妃の庭園の花壇の前、図書室の奥の棚。すれ違い様に紙片を渡し、二歩離れてから別の方向に歩く。慣れると、三秒で済む。
それにしても、紙片を渡す瞬間の緊張は独特だ。すれ違う間際に指先が触れる。一瞬だけ。それだけで、暗号の記された小さな紙が私の手から彼の手に、あるいはその逆に移動する。
周囲に人がいる時ほど、不思議と気づかれない。人は他人の手元を見ていないのだ。侍女の手が何かを運び、騎士の手が何かを受け取る。日常に溶け込む動作。
ただ、指先が触れる感覚だけが、日常ではなかった。
紙片のやり取りで分かったこと。
ルードヴィヒは一週間で宮廷の地理を完全に把握していた。どの廊下に何時に誰が通るか、衛兵の交代時刻、死角になる場所。諜報訓練を受けた人間の観察力。
私は宮廷の人間関係を情報として渡した。和平派と主戦派の勢力図、ヘルムート様と親しい貴族の一覧、侍女たちの間で流れている噂の出所。
情報を交換するたび、互いの能力の輪郭が見えてくる。この男は有能だ。そして、私も。少なくとも、この分野では。
ふと気づいた。私はこの二週間、「二十歳まで」という天井を忘れていた。
いや、忘れたわけではない。痣の痛みが毎晩それを思い出させる。でも、痣のことを考える前に、紙片の内容を考えている。ヘルムート様の動きを考えている。ルードヴィヒが昨日の情報をどう使うかを考えている。
死を待つのではなく、何かに向かっている。そのことが、胸の奥で鈍く光っている。光というより熱。燠火みたいな、小さくて消えない何か。
侍女として宮廷に生きてきた十六年。私はずっと誰かの周囲にいた。王妃の傍に、侍女長の傍に。でも今は、ルードヴィヒと並んで、同じ方向を見ている。それが何なのかは分からない。ただ、この感覚には名前がある気がする。目的、という言葉に近い何か。
◇◇◇
一週間後、夜の旧塔で再会した。マルガレーテ様の見回りパターンを確認し、安全な時間帯を割り出してから。
「遅くなった」
「構わない」
ルードヴィヒは窓枠に腰かけていた。月明かりの中で、灰色の髪が銀に見える。
「紙片だけでは限界がある。直接話したいことが溜まっている」
「同感」
私は古毛布に座り、この一週間で集めた情報を口頭で報告した。ヘルムート様の弟子の魔術師が、和平派のアルトハイム侯爵の屋敷を訪問した記録。その翌日にアルトハイム侯爵の使者が不審な理由で拘束された事件。繋がっている。
「ヘルムート殿が和平交渉を妨害している可能性が高い」
「可能性じゃなくて、確信よ。侯爵の使者を拘束する権限は、宮廷魔術師長にはないの。でも実際に拘束された。つまり、ヘルムート様は魔術師長の権限を超えた力を持っている」
ルードヴィヒが黙って頷いた。灰色の目に、先週までとは違う色がある。
敬意。
たぶん。
「一つ聞いていいか」
「何」
「グラナートでは何を食べるの?」
「……は?」
「共犯者の好物くらい知っておきたいから。何か差し入れるにしても、好みがわからないと困るでしょう」
ルードヴィヒが一瞬固まった。それから、顎の筋肉が緩んだ。笑ったのかもしれない。暗くてよく見えなかった。
「黒い穀物で作るパンがある。ルッゲンブロートという」
「美味しい?」
「不味い。だが腹は膨れる」
「それ、好物なの?」
「……母が焼いてくれた」
ああ。そういうことか。好物というのは、味ではなく記憶なのだ。
それは、少しだけ分かる。父が直した時計の秒針の音。あの規則正しい音が、私にとっての好物みたいなもの。
不味いけど腹は膨れるパン。お母さんが焼いてくれたパン。
この人にも母親がいて、故郷があって、好きな味がある。当たり前のことなのに、今まで考えたことがなかった。共犯者は情報の交換相手であって、人間ではなかった。
いや。違う。人間だった。最初から。私が見ようとしなかっただけで。
帰り道、侍女棟の廊下で立ち止まった。
マルガレーテ様の部屋の前を通り過ぎる時、扉の向こうから微かな声が聞こえた。
「猫? そんな猫は城にはいませんけれど」
足を速めた。背筋が冷たくなるのを感じながら、私は自分の寝室に滑り込んだ。
灰色の猫のグリ。右耳に切れ込み。銀木犀の根元を掘る。
存在しない猫に、もう少し説得力のある設定を足さなければ。




