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私の主人は敵国の間者です。それを知っているのは、侍女の私だけ  作者: 秋月 もみじ


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第2話 条件交渉


夜の旧塔は、昼間よりもよほど住み心地がいい。


人がいないから。壁が厚いから。それから、月明かりがひび割れた石の床を銀色に染めるのが、なんというか、綺麗だから。


そんなことを考えながら螺旋階段を上ると、もう先客がいた。


ルードヴィヒは崩れた窓枠に背を預けて立っていた。銀灰色の制服は脱いでいて、黒い外套を羽織っている。近衛騎士の格好では、ここに来るまでに誰かに見つかる可能性がある。少なくとも、その程度の注意力はあるらしい。


「早いのね」


「お前が遅い」


時刻は同じはずだ。この男は時間の感覚が違うのか、それとも落ち着かなくて早く来たのか。後者だとしたら、少し面白い。


私は古毛布の上に腰を下ろした。石の冷たさが布越しに伝わる。彼は立ったまま。見下ろされるのは得意ではないけれど、今日は交渉だ。座ったままのほうが相手を見上げる形になって、こちらが弱い立場に見える。交渉において、弱く見せることは必ずしも不利ではない。


「条件を話す前に、確認させて」


「何を」


「あなたの目的。この国に潜り込んで、何をするつもり?」


沈黙。灰色の目が私を見据えた。値踏みしている目。信用できるか測っている目。


「……和平交渉の妨害者を突き止める。それが任務だ」


「間者ではなく、密使ということ?」


「どう呼んでも構わない。バレれば殺されることに変わりはない」


それはそうだ。敵国から送り込まれた人間が宮廷にいるという事実は、理由がどうあれ反逆罪に問われる。


私は呼吸を整えた。吸って、吐いて。侍女の癖で、エプロンの端を掴みそうになって、今夜はエプロンをつけていないことに気づく。代わりに膝の上で指を組んだ。


「私の条件。左腕の呪印の解呪法を、グラナート公国の禁術書から探してほしい。宮廷医は先天性の呪病で治療法なしと言っているけれど、呪術は元々グラナートの技術でしょう。そちらに手がかりがあるはず」


「……呪印か」


「二十歳まで生きられない。あと一年半。だから急ぎたい」


ルードヴィヒの顎の筋肉が動いた。何か言いかけて、飲み込んだように見えた。


「対価は何だ」


「宮廷内の情報。私は王妃付きの侍女で、書簡の整理を任されている。誰がどんな手紙を出しているか、どの貴族がどの派閥に属しているか。侍女のネットワークは宮廷で最も早い情報網よ」


「使えるのか」


「試してみる?」


私は昨日の王妃の間での出来事を語った。ヘルムート様の弟子の魔術師が訪問したこと。その前日にアルトハイム侯爵から王妃宛ての書簡が届いたが、なぜか王妃の手に渡る前にヘルムート様の確認印が押されていたこと。和平派として知られるアルトハイム侯爵の書簡を、魔術師長が検閲している。


話し終えた時、ルードヴィヒの表情が変わっていた。


変わった、というか。目の色が違う。さっきまでの値踏みの目ではない。


「……お前、全部覚えているのか。書簡の差出人も、日付も、封蝋の紋も」


「一度見たものは忘れない性質なの」


「持ち物はしょっちゅう忘れるくせにか」


え。


「昨日、ここに手袋を忘れていた」


ルードヴィヒが黒い外套のポケットから、私の灰色の手袋を取り出した。見覚えがある。というか、三日前から探していた。


「……ああ。それ、ありがとう」


「情報の記憶力と持ち物の管理能力の差が理解できない」


「私にも理解できない」


変な沈黙が流れた。


交渉の空気がどこかに行ってしまった。手袋一つで台無しだ。


咳払いをして、仕切り直す。


「それで。条件は飲めそう?」


「……ああ。禁術書の件はカミルに当たる。グラナートの学者で、呪術の歴史を専門にしている」


「信頼できる人?」


「幼馴染だ。それで?」


「こちらからは宮廷内の情報を。特に和平妨害に関わる動きを」


「了解した」


少し間があった。ルードヴィヒが外套の内側から小さな紙片を取り出し、私に差し出した。


「これは?」


「暗号の基本表だ。情報を渡す時に使う。平文で紙片を渡すのは危険すぎる」


紙片には文字と数字の対応表が書かれていた。単純な換字式ではなく、曜日によって鍵が変わる多表式暗号。一枚の紙に収まっているのに、解読には鍵の知識が必要という設計。


「よくできてる」


「当然だ」


「自分で作ったの?」


沈黙。それは肯定。


私は紙片を目で追った。三十秒、いや四十秒。文字の配列を頭に焼き付ける。記憶力が良いということは、こういう時に役立つ。


紙片をルードヴィヒに返した。


「もう覚えた。燃やして」


灰色の目がわずかに見開かれた。驚いている。この人にもそんな顔ができるのか。


「……本当に覚えたのか」


「火曜日の鍵はGの三行目、木曜日はLの五行目、日曜日は——」


「もういい」


ルードヴィヒが紙片を燭台の火にかざした。紙が黒く縮み、灰になって崩れる。


「密会の頻度は週二回。場所はここだが、互いに来られない場合は中庭の井戸端ですれ違い様に紙片を渡す」


「了解。あと一つ」


「何だ」


「ここに来る時は、近衛の制服を着ないで。目立つから」


「……言われなくても分かっている」


ルードヴィヒが窓枠から身体を離し、崩れた石壁に手をついた。月が雲から出て、旧塔の内部が白く照らされる。


「一つ聞いておく」


「何を」


「なぜ『協力する』と言った。殺される可能性があったのに」


私は答えに詰まった。


昨夜は「どうせ死ぬから」と思った。それは本当だ。でも、それだけではない気がする。何か別の理由がある気がするのだけど、うまく言葉にならない。


「……面白かったから、かな」


「面白い」


「敵国の間者が近衛騎士に紛れ込んでいるのを、侍女の私だけが知っている。こんな状況、本の中にしかないと思っていた。面白くないわけがない」


ルードヴィヒが黙った。


それからぽつりと「変な女だ」と言って、螺旋階段を下りていった。二日続けて同じ感想。語彙が少ない人だ。


残された旧塔で、私は手袋をはめた。石の冷たさが遮断される。


共犯者か。


口の中で転がしてみた。共犯者。悪くない響き。


明日から、夜の旧塔は一人の場所ではなくなる。それが嬉しいのか嫌なのか、自分でもよくわからない。たぶん、両方。


窓の外で、冬薔薇が風に揺れている。月明かりの中で花弁が白く光って、まるで誰かに合図を送っているみたいだった。


合図。白い花。


そのとき、ふと思いついた。密会の合図に使えるかもしれない、と。

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