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私の主人は敵国の間者です。それを知っているのは、侍女の私だけ  作者: 秋月 もみじ


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第10話 共犯者の夜明け


呪印が消えた朝も、天気は良かった。


目を覚ました時、最初に感じたのは左腕の軽さだった。痛みがない。三年間、毎朝私を起こしていた脈打つ熱さがない。


袖をまくった。


黒い紋様が消えていた。手首から肩まで這っていた蔦のような痣が、跡形もなく。白い肌が残っている。傷痕すらない。


昨日の記憶が断片的に蘇る。魔術師棟の魔力炉。カミルが持参した術式。複雑な呪文の詠唱が何刻も続いた。魔力炉の光が青白く輝き、左腕が焼けるように痛み、それからルードヴィヒが手を握ってくれていた。右手を。呪印のない方の手を。


意識が途切れて、次に目を開けたのが今朝。


腕を曲げた。伸ばした。握って、開く。痛みがない。当たり前の動作が、泣きたくなるほど当たり前にできる。


窓から光が差している。朝の匂いがする。パンと、煤と、春の気配。


二十歳の先が、ある。


◇◇◇


カミルという男は、ルードヴィヒとは真逆の人間だった。


よく笑い、よく喋り、よく食べる。グラナート公国から王都ヴェステンまでの道中の話を、身振り手振りを交えて語る。学者というより大道芸人に近い。


「いやあ、密書で聞いてはいたけれど、実際に見ると感慨深いな。呪紋がこれほど綺麗に消えるとは思わなかった。術式の理論は正しかったが、実証は初めてだったからね」


「つまり、賭けだったと」


「学問とはそういうものだよ、ナターシャさん。仮説を立てて、検証する。失敗したらもう一回。まあ今回は一回で成功したから結果オーライ」


「失敗していたら」


「考えないことにしている」


ルードヴィヒが横で腕を組んでいた。眉間に皺が寄っている。


「お前、もう少し真面目に話せ」


「真面目だよ。真面目だからこそ、結果を喜んでいるんだ」


カミルがルードヴィヒの肩を叩いた。ルードヴィヒが半歩下がった。身体接触が苦手らしい。


「それより、和平交渉の話だ。ヘルムートが排除された今、両国の正式な和平会議を開く段取りが必要になる。俺は学者だが、外交の手順にも多少は詳しい。手伝えることがあれば言ってくれ」


「ありがとう、カミル」


「礼はルードヴィヒに言ってくれ。こいつが必死で鳩を飛ばしてきたから、俺も腰を上げたんだ」


ルードヴィヒの耳の付け根が赤くなった。


「必死ではない」


「嘘つけ。三日おきに鳩が来たぞ。一通目は任務報告、二通目から五通目は全部ナターシャさんの呪印についてだった」


「カミル」


「六通目に至っては『呪印の進行が早まっている、急いでくれ』の一行だけ。お前が一行しか書かない時は本当に焦ってる時だから、俺も本気で調べた」


私はルードヴィヒを見た。彼は窓の外を見ていた。横顔が石のように硬い。でも耳だけが赤い。


「……ありがとう」


「何がだ」


「三日おきの鳩」


「任務に必要な情報収集だ」


嘘つき。不器用な嘘つき。


◇◇◇


和平交渉が正式に始まったのは、それから五日後だった。


グラナート公国から外交団が到着し、王城の大広間で両国の代表が向き合った。二十年続いた停戦状態を、正式な和平条約に変えるための会議。ヘルムートが三十年間妨害し続けてきたものが、ようやく動き出す。


ルードヴィヒは和平の密使としての功績を認められ、王から騎士位を授与された。グラナート公国の伯爵家の三男が、この国の騎士になる。帰化手続きは特例として即日処理。


侍女たちの間で噂が飛び交った。「あの無愛想な近衛騎士が実は敵国の貴族だった」「しかもナターシャと共犯だった」「二人はどういう関係なの」。


エルゼが私の横で腕を組んだ。


「ナターシャ。あなたの秘密、実は途中から気づいてた」


「え?」


「だって夜中に出かける時、必ず呪印の腕をかばうように歩いてたから。恋人に見せたくないのかなって」


「……その推理、半分正解で半分大外れ」


「半分は合ってるんだ」


合っている。呪印を見せたくなかった。でも相手はただの恋人ではなく、共犯者だった。


「恋人じゃないの?」


「共犯者」


「もう秘密は終わったんだから、共犯者じゃなくない?」


それは。そうかもしれない。


◇◇◇


旧塔を訪れたのは、和平条約の調印式の翌日だった。


螺旋階段を上がるのが、前より楽だった。呪印がなくなって、体が軽い。息切れしない。左腕が痛まない。


ルードヴィヒが先にいた。崩れた窓枠に座っている。いつもの場所。でも今夜は近衛の制服ではなく、新しい騎士服を着ている。この国の騎士として。


「ここに来るのも、これで最後かもしれないわね」


「なぜだ」


「だって、もう秘密はないでしょう。秘密がなければ密会する理由がない」


ルードヴィヒが黙った。


古毛布はまだ敷いてあった。錆びた燭台。蔦に覆われた窓枠。冬薔薇が、今年も一輪咲いている。手入れもされないのに。


「ここが私たちの始まりだった」


壁に背を預けた。石の冷たさが背中に伝わる。でも今は、寒くない。


ルードヴィヒが窓枠から下りて、古毛布の上に座った。私の隣。近い。いつもより近い。


「叙爵の件で、王からもう一つ話があった」


「何?」


「婚姻の許可だ。敵国出身者との婚姻は原則禁止だが、和平条約の特例として認められる、と」


胸の中の歯車が、カチリと噛み合った。


「それは、誰との婚姻?」


「……分かっているだろう」


「分かっているけど、聞きたい」


ルードヴィヒの声が半音低くなった。好意が滲む時の声。もうずっと前から、この声の意味を知っている。


「お前と」


「声が小さい」


「お前と、だ」


まだ小さいけれど、許す。


「もう共犯者じゃないね」


「……ああ」


「これからは、何?」


長い沈黙。ルードヴィヒが息を吐いた。長く、深く。肩が下がった。


「夫婦だ」


旧塔の空気が変わった気がした。月光が天窓から差し込んで、古毛布の上を銀色に染めている。冬薔薇の匂い。錆びた燭台の炎が揺れる。


「ルードヴィヒ」


「何だ」


「あなたの国のパン、ルッゲンブロートだっけ。不味いけどお腹が膨れるやつ」


「……ああ」


「今度、一緒に焼いてみない?」


灰色の目が、わずかに細くなった。笑ったのだ。この人の笑い方は分かりにくいけれど、もう見分けられる。


「不味いぞ」


「知ってる。それでもいい」


旧塔を出る時、私は古毛布を置いていった。


「忘れ物?」


「ううん。置いていくの。ここに」


この場所は、私たちが共犯者だった証。秘密を共有し、弱さを見せ合い、手を取り合った場所。古毛布は、その記憶の形見みたいなもの。


「もうここに来なくても、ここが私たちの始まりだったことは変わらないから」


ルードヴィヒが古毛布を見下ろした。それから、黙って頷いた。


螺旋階段を下りる。二人で。隣を歩く。肩が触れる距離。


旧塔の出口から見上げた空に、月が出ていた。明るい月。呪印が痛まない月。


「ルードヴィヒ」


「何だ」


「グラナートの冬って、どんな匂い?」


「松脂と、雪と、煤が混じった匂いだ」


「いつか嗅いでみたい」


「……ああ。連れていく」


右手を差し出した。ルードヴィヒの手が重なった。冷たくない。温かい。


共犯者ではなく、夫婦として。同じ方向に歩き出す。


冬薔薇の季節が終わり、春告げ草が芽を出す頃。


私たちの日々は、ここから始まる。

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