第1話 殺すか、黙るか
呪印が痛む朝は決まって天気がいい。
左腕の内側、手首から肘にかけて這う黒い紋様が、焼けた鉄を押し当てたように脈打っている。布越しに触れると、指先にじわりと熱が移った。
今日も晴天。窓から差す朝の光が、侍女棟の共同寝室を白く染めている。隣のベッドではエルゼがまだ寝息を立てていて、その寝顔を横目に、私は長袖の下着を引き上げた。
痣は、また少し伸びた気がする。
……気がする、ではなくて、伸びている。昨日までは肘の手前で止まっていたのに。
「二十歳まで生きられない」と宮廷医に告げられたのは、十五の冬だった。先天性の呪病、治療法なし。それ以来、私は毎朝この痣の端を確認するのが日課になっている。時計の針が進むように、少しずつ、確実に。
時計職人だった父なら、こう言うだろう。「ゼンマイの残りを数えても、時計は止まらないぞ」。
まあ、そうなのだけど。
◇◇◇
王妃付きの侍女の仕事は、朝の支度から始まる。
髪を整え、エプロンの紐を結び、侍女棟の廊下を歩く。すれ違う同僚に「おはよう」と声をかけ、厨房から朝食の盆を受け取り、王妃の間へ運ぶ。繰り返しの日々。私には、それがちょうどよかった。
余命を数えながら暮らすのに、変化は毒だ。同じ日々が続くほうが、時間の減りが遅いような気がする。気のせいだけど。
王妃アーデルハイト様は穏やかな方で、侍女に理不尽を強いることがない。朝の着替えを手伝い、昼は書簡の整理を任され、夕方には庭園の花を王妃の部屋に届ける。銀木犀の香りが好きなのだと、三年前に教えていただいた。以来、銀木犀の季節には必ず一枝を添える。
侍女長のマルガレーテ様は厳格だが、仕事ぶりには公正に評価をくださる。私の記憶力を買ってくださっているのか、書簡整理の担当を外されたことはない。ありがたいことだと思う。たぶん。
ありがたい、のだろう。
こんな体でも居場所をもらえていることは。
その日の変化は、中庭を横切ったときに目に入った。
近衛騎士の列に、見知らぬ顔があった。銀灰色の制服に身を包んだ長身の男。日に焼けた肌に、明るい灰色の髪。新任か。他の騎士たちと並んで立っているのに、どこか浮いて見える。
「辺境の男爵家の四男だって」
エルゼが耳打ちしてきた。いつの間に追いついてきたのか。
「へえ」
「名前はルードヴィヒ。剣の腕が立つらしいわよ。あと、顔がいい」
「……それは侍女の業務に関係ある情報?」
「ないけど、大事でしょう」
大事ではない。私には関係がない。近衛騎士が何人増えようが減ろうが、私の日々は変わらない。変わるのは、左腕の痣の面積だけ。
そのはずだった。
◇◇◇
旧塔に行くようになったのは、半年前からだ。
王城の敷地内、百年前の大火で焼けた旧王宮の一角。立入禁止の札が掛かっているが、構造は頑丈で中は使える。蔦が外壁を覆い、崩れた天窓から月光が差し込む。
誰も来ない。静かで、暗くて、余命のことを考えなくていい場所。夜間見回り担当を志願したのは、この時間が欲しかったからだ。
その夜も、旧塔の螺旋階段を上がり、崩れた窓辺に腰を下ろした。蔦に絡まった冬薔薇が一輪、月明かりの中で白く浮かんでいる。手入れもされないのに毎年咲く。図太い花。
なんというか、少し親近感がある。
石壁に背を預けて膝を抱えた。いつもの姿勢。いつもの夜。
古毛布を敷いて、錆びた燭台に火を灯す。持ち込んだ本を広げようとして、今日は本を忘れてきたことに気づいた。侍女棟のベッドの下に置いたまま。
……また忘れ物。鍵束、ハンカチ、昨日は替えのエプロン。宮廷の情報は一度聞けば忘れないのに、自分の持ち物となると壊滅的だ。時計の部品は絶対になくさなかった父の血は、どこに行ったのか。
仕方なく、膝を抱えて月を眺めていた。
金属音が聞こえたのは、そのときだった。
旧塔の裏手、崩れた中庭に面した空間。月光の下で、新任の近衛騎士が剣を振っていた。
私は息を止めた。
見回りのルートにここは入っていない。この男は何をしている。私の場所に勝手に入り込んで。
苛立ちは、一瞬で別のものに変わった。
剣の軌道。
この国の騎士は、斬り下ろしの起点を右肩に置く。足の踏み込みは左足前。それが王国流の基本型。
あの男の構えは、起点が左肩だった。踏み込みは右足前。鏡写しの剣。
私は本を読む。禁書庫の存在を知っているくらいには読む。二年前に読んだ『両国剣術比較論』の挿絵が、頭の中に浮かんだ。
グラナート流。
敵国の、剣。
舌の付け根が苦くなる。呼吸が浅くなった。螺旋階段を下りる足音を立てないように、一段ずつ。中庭に出る。月明かり。冬薔薇の匂い。
「その構えは、この国のものではありませんね」
声が震えていたかもしれない。震えていなかったかもしれない。自分ではわからなかった。
男が振り返った。灰色の目が月光を反射している。表情は読めない。
沈黙が落ちた。長い沈黙。冬の空気が頬を刺す。
剣が、私の喉元に向けられた。
「殺すか、黙るか。選べ」
低い声。感情が削ぎ落とされた声。この男は本気だ。刃が月光を薄く弾いているのが見える。鋼の上を光が走って、私の視界の端で消えた。
奥歯を噛み締めた。身体の芯が冷えている。指先が痺れる。
でも。
どうせ死ぬのだ。二十歳までの命だ。この男に殺されても、呪印に殺されても、大して変わらない。
……いや。違う。そうじゃなくて。
死ぬのが怖くないんじゃなくて。この状況が、なんというか。
面白い。
敵国の間者が、宮廷の近衛騎士に紛れ込んでいる。それを知っているのは、侍女の私だけ。この情報には、途方もない価値がある。
「三つ目の選択肢を提案してもいいですか」
剣の切っ先が揺れた。ほんのわずかに。
「協力する。ただし、条件がある」
長い沈黙。月が雲に隠れて、旧塔の中庭が暗くなった。冬薔薇の白だけが、闇の中でぼんやりと浮かんでいる。
「……条件?」
「私の左腕にある呪印。これを解呪する方法を、あなたの国の禁術書から探してほしい」
また沈黙。
剣が、ゆっくりと下ろされた。
「変な女だ」
それは褒め言葉なのか、侮辱なのか。たぶん、どちらでもない。
「条件は明日話す。場所はここ。時間は同じ」
私はそう言って、旧塔の螺旋階段を上った。背中に刃物を向けた男に背を向けて。膝が、少しだけ震えていた。
寝室に戻ったとき、エルゼの寝息がまだ聞こえていた。天井の木目を見上げる。二百三十七本。いつもと同じ数。
でも今夜は、数える気にならなかった。
左腕の呪印が、まだ脈打っている。痛みは引かない。でも不思議と、その痛みが邪魔ではなかった。
生きている証拠みたいで。
……なんだ、それは。自分で言っておいて、よくわからない。
目を閉じる。冬薔薇の残り香が、まだ鼻の奥に留まっていた。




