5話 出番
ホイッスルが響いた瞬間、スタジアムの空気が一変した。
秋晴れの空の下、俺たちはピッチ上で必死に食らいついていた。
相手はプロンタール川崎。
前半だけでボール支配率は7対3。
俺たちはまるで波に飲まれる木の葉のように、押し込まれ続けた。
開始早々、左サイドを韓国人FWが抜け、クロスを垣谷がボレー。
それをGKジジマールがギリギリで弾き出す。
観客が一斉に息を呑んだ。
それからも、ポスト直撃、バー直撃、決定機の連続。
まるで時間の流れが遅くなるような45分だった。
それでも、俺たちは折れなかった。
失点は前半30分、元日本代表のシュートをDFがブロックしたこぼれ球を、垣谷陽一に押し込まれた1点のみ。
あれほどの猛攻で、0-1で済んだのは奇跡に近かった。
ハーフタイム、ロッカールームでは誰も喋らなかった。
ジジマールが黙って氷嚢を膝に乗せている。
キャプテン宮元さんがゆっくりと立ち上がった。
「このゲームはまだ死んでねぇ。1点差だ。守って勝てる相手じゃない。取り返すぞ。」
その言葉に全員が頷いた。
ほとんど攻撃に関われず、守備に奔走していた仲川さんも、ようやく顔を上げた。
あの人が言うと、どんな理屈よりも説得力がある。
後半が始まると、風向きが少しだけ変わった。
相手の中盤が前掛かりになり、隙ができ始める。
ウチのチームが得意とするカウンターの形が、ようやく見え始めていた。
そして後半15分、奇跡は突然起きた。
右サイドから仲川さんがクロスを入れる。
ロニーニョがファーに走り込む。
相手DFが慌ててクリアしようとした瞬間——
スライディングした足に当たったボールが、ゴールキーパーの逆を突いた。
「オウンゴォォォォォルッ!」
実況の声が弾ける。
スタジアムが爆発するように揺れた。
俺はベンチから思わず立ち上がって拳を握った。
スコアは1-1。
クラブ史上初の決勝進出が現実のものになりかけていた。
それでもプロンタールは強かった。
オウンゴールの直後、ギアを一段上げて攻撃を仕掛けてくる。
後半から出場した伊藤が中盤でボールを受けると、ディフェンスラインの間を切り裂くようなスルーパス。
垣谷が走り込み、左足で合わせる。
だがジジマールがまたも神セーブ。
元キーパーとして鳥肌モノのセーブ。
この男、何本止める気だ。
時間は過ぎていく。
後半30分を過ぎた頃、マガポ監督が立ち上がった。
ベンチ全体に緊張が走る。
「サコ、アップ。」
一瞬、呼吸が止まった。
ついに来た。
タッチライン脇でビブスを脱ぎ、ピッチを見つめる。
秋の風が熱を冷ますどころか、逆に血を沸かせた。
相手の方を見ると、垣谷がこちらを見て睨んでくる。
ここで結果を出せば、全部ひっくり返る。
「サコ、左サイドバック。お前はやれる。怖がるな。」
監督の指示が聞こえる。
ミーティングで言っていた、俺の出場に合わせてチームのフォーメーション変更。
ブラジル人ロニーニョと仲川さんがラインの裏を狙う布陣。
交代ボードに“35”の数字が掲げられた。
残り時間、約10分。
歓声が一気に高まる。
俺の名前を呼ぶ声が、波のようにスタンドから押し寄せた。
サイドライン際で交代のベテランの選手に
「頼む。」
それだけ言われ肩を叩かれた。
ピッチに入ると、空気の重さが変わる。
芝の感触が足の裏から伝わってくる。
指先まで血が巡るのがわかる。
その瞬間、全ての雑音が消えた。
ただ心臓の音だけが響く。
ゲーム再開。
ボールが俺の前に転がってくる。
スタンドが「行けぇぇぇ!」と叫ぶ。
ピッチの外で見ていた時とは、まるで違う世界。
伊藤が目の前に立っている。
更に垣谷が中央から猛然とプレスに来る。
中盤の底の選手にパスを出して角度を変える。
伊藤が忍者のように俺にピッタリついてくる。
この10分で結果を出す。
ただボールを蹴るだけじゃない。
今日という日に、俺の存在を刻みつける。
伊藤のマークを剥がした瞬間、ボールが再びタッチライン際の俺の足元へ。
その瞬間、風の音さえ聞こえなくなった。
俺はいつものように左足を踏み込む。




