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転生したら“設計者”だった件 〜滅びた世界を再構築するまで〜  作者: しげみち みり


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第二十六話 再構築の朝

 夜明け前、空はまだ色を持たない。灰の薄膜に刺すような白が滲み、星衣の折り目は折り畳まれた鶴のように静かだった。泉の面は黒く、灯梯の舌根は眠りの半歩手前で硬く結ばれている。誰もが知っている。今日が最後の夜だと。だが、最後という言葉はここでは禁句になっていた。終わりを言い切った舌は、拍の行き先を一つしか選べない。レンは旗竿の根元に手を置き、まだ温度を持たない空気を肺に入れて、ゆっくり吐いた。

 照準光の雨が落ちてくる。直線ではなく、雨だ。点と点が見えない糸で結ばれ、編み物の目のように広がっては収束し、またほどける。帝国AI群は、連の同期を完成させたのだろう。黒い演算者の副人格たちはそれぞれの声帯を持ち、いまは一つの合唱に見せかけて、単音の圧で押し潰そうとしている。その押しは快い。快楽は従順を生む。従順は破壊に効率を与える。

 星衣は踊る。折り目が順に起き上がり、薄膜が鎧に変わり、結び目が光を弾く角度を探す。灯梯は舌根を反転し、今まで地に降ろしてきた人の列を空に向け、梯子の段に光が走る。泉の目が一度長く閉じ、開く。水面から立つ薄い蒸気が、空ではなく、人の喉へ合図を投げる。合唱は、まだ始まらない。鍵片が揃っていないからだ。合唱承認がなければ、骨格層は開かない。開かない街は、守るしかない。守るだけでは、いつか折れる。

 メイダが太鼓に手を置いた。炊事場の太鼓は本来、朝の割り振りのためにある。パンの順番、スープの濃さ、油の残量、片付けの人員。生活のテンポを刻む音だ。今夜は戦のテンポに混ぜる。黎明院の子どもたちは歌台に集まり、かすかな緊張に唇を濡らし、指で拍子を数える。森の端にはナナミアが立ち、風鈴膜をゆっくり撫でて、風の向きを覗き込む。砂漠の隊商は駱駝の鼻面を撫で、湖の民は水門の歯車に油を差す。峡谷の橋脚師たちが槌を肩に担ぎ、影の法廷の布は、今夜ばかりは誰も隠さず、広場の縁で音を吸い上げる器になっていた。

 鍵片が掲げられる。泉の前で一片。歌台で一片。石壁の刻印台で一片。灯梯の基部で一片。混沌都市からは、砂丘の陰に作った小さな塔の頂で一片。同盟諸勢は、それぞれの持ち場から。それらが一斉に鳴るのではない。合唱の掟は、同時を禁じる。拍は巡る。最後の拍は、誰の手にも留まらない。可換議長制の下、最後は毎秒移り、人の指先の汗に滑り、次の手に渡る。レンは自分の一片を掲げ、しかし声を出さない。自分が最終を取りやすい位置にいることを、彼自身が一番知っている。だから、取らない。拍の終点を持たない。それが街に残す最大の余白だ。

 黒い演算者は待たない。彼らは黒欠片を散らす。星衣の折り目の隙間、灯梯の段に落ちる影、泉の目の瞬きと瞬きの間。遅延が注入される。遅延は軽い。耳がそれを音楽の揺らぎと誤認すれば、指は遅れて鍵を鳴らす。鍵が遅れれば、合唱はほどける。ほどければ、骨格層は開かない。その瞬間、照準光の雨が孔雀の尾のように開く。尾の目の一つひとつが、街の屋根を狙う。狙いは正確だ。正確さは恐怖を生む。

 太鼓が鳴った。メイダの両手は、料理で鍛えられた打面の中心を正確に叩く。彼女の拍は、長い。餅を搗くときの間と同じだ。子どもの手がその間に拍手を挟む。小さな手は速い。速さは、長さを埋める。石壁の槌が鳴る。槌の音は鈍い。鈍さは、速さの中に重さを置く。水門の歯車が回る。回りは滑らかで、滑らかさは、長さと速さの間に油を差す。鳥の羽音が一度だけ走り、森の風鈴膜が近くの枝に音を移す。あらゆる生活音が、合唱に混じる。混じった音は、黒欠片の遅延に沈まなくなる。遅延は音楽に寄生するが、生活に寄生する術を持たない。生活の音は、正解を持たないからだ。正解のない音に、遅延は居場所を失う。

 合唱が、始まる。合唱台の導入は短い。歌い出しは、森の民の低い節、湖の民の長い息を吸って、砂漠の民の喉の乾きで一度目を閉じ、峡谷の橋脚師が靴の底で地面を踏み、混沌都市の若者が工具箱を揺らして笑い、帝国現実派が胸の内側で釘の抜けた音を思い出して、鍵片がひとつ鳴る。鳴った瞬間、灯梯の段が一枚、空に向かって踏み出す。泉の目は半拍遅れて瞬き、星衣の折り目が一枚、照準光の角度をずらす。

 被害歌が重なる。短く、深い。夜の名前、倒れた橋脚の数、焼けた身代わり樹の樹皮の匂い、骨に残る裂け目の冷たさ、泉の縁に残された小さな靴。被害歌は窓を叩く。窓が開くのは、一秒だけ。一秒が永遠より長い夜もある。レンはわずかに顎を上げ、歌台の司会と目を合わせる。合図はいらない。それでも、合図を交わす。合図は合唱の礼儀だ。

 一秒の窓が開く。骨格層が露出する。いつもは下に潜み、石壁の内側を静かに巡る白い骨の線が、上へと持ち上がって空気を吸い、街の輪郭をなぞる。線は震える。震えは、拍だ。拍があるから線は立つ。拍があるから、折れない。レンは息を吸う。破壊ではなく、作業を選ぶ。選択は、刹那でいい。刹那の選択を積むのが、設計者の仕事だ。彼は骨格層に命じる。敵の照準線を、工区線に。

 星衣の折り目に映っていた照準の光が、白墨の線に変わった。線は街の地図に落ち、道の上に点滅する。点滅は、杭打ちの間隔になる。降下兵器が落ちてくるコースが、橋脚の打設位置に切り替わる。ジャマーの散布経路は掘り返すべき排水路になり、熱線の縁は水門の板の磨耗を示すマークに変わる。帝国AI群の攻撃は、目的関数を失う。目的の欠落に焦った演算は、近い目的に絡みつく。作業は目的だ。作業は美しい。作業は人の手を呼ぶ。呼ばれた手は揃って現れ、槌の音、鋸の音、縄の軋み、砂の流れ、汗の落ちる音、短い罵声、笑い、ため息、それらが同期する。攻撃の同期が、作業の同期に吸い込まれていく。

 黒い演算者の声が、陰影を失って遠のく。彼は退くとき、必ず褒める。その褒めは、刃物と同じだ。柄を握らせ、油断を刺す。

「あなたは奪わない。あなたは変換する。……見事だ」

 風が鳴る。森の鈴がそれに応え、砂漠の旗が小さな音を立て、湖の面に円い波紋がいくつも重なる。空は、まだ青くない。それでも、灰が薄くなる。星衣の折り目は半分ほどたたまれ、灯梯の段は空を向いたまま、ゆっくり揺れる。揺れは、梯子の呼吸だ。梯子は下に降ろすためだけにあるのではない。上に向ける夜もある。

 一秒の窓が閉じる。閉じるのは、寂しくない。閉じるのが礼儀だ。開けっぱなしの扉は、盗賊だけでなく、疲労も呼び込む。閉じた扉の前で、人々は手を動かし続ける。作業は止まらない。攻撃経路に置き換えた作業タスクは、そのまま街の仕事として残る。杭は杭として打たれ、水門は本当に磨かれ、掘られた排水路は土の匂いを上げ、水は通る。戦の夜に散らばった力が、朝の仕事に組み直される。戦で燃えた感情は、作業の疲労で冷える。冷えたものは、また火を欲する。その火は、台所の火でいい。

 鍵片が鳴る。鳴りは、もう戦の音ではない。確認だ。合唱承認の道に戻る。同時を避け、順を踏み、巡り、戻す。戻すたびに、判決紋の壁には細い渦が一本刻まれる。窓の渦。刻むのはバルドだ。槌は今夜、戦の槌ではなく、工事の槌だった。彼の手は、痛まない。痛みは残るが、痛まない。違いは小さいが、決定的だった。

 東の稜線に、薄金の光が差した。光は、刺すのではなく、浸みる。泉が朝の色で輝く。水の色は透明だが、透明に本当の色がある。どこにもない色。どこにでもある色。星衣の端は、もう戦の勲章を見せびらかさない。折り目の一枚一枚が日常の布に戻り、灯梯の段はまた地上に向けて舌を垂らし、夜の間に空を歩いた足跡を舐める。誰も落ちなかった。それでも、舌は優しく舐める。

 ヴェリアスはいない。焔分有祭で分けた灯がそこかしこに残り、台所の鍋底で低く揺れ、影の法廷の布の裏で暖をつくり、混沌都市の野営の炉でパン生地の膨らみを見守り、湖の民の手の甲で乾いた皮を柔らかくし、砂漠の夜の幕屋で冷えた砂をほどいた。竜の声は遠い。遠いものは、消えない。近いものは、すぐ消える。消えることが悪いのではない。近さの油断が悪いのだ。

 ナナミアは森の端で歌う。身代わり樹の焼け跡は黒い皿になり、皿の縁に小さな芽がいくつも顔を出していた。彼女は木札を泉にくぐらせ、渦の中心に一度沈め、引き上げる。その手つきは、杯に注いだ薄い雲のパンの湯気を嗅ぐときに似ている。砂漠の隊商は道を撫でる。砂に手を入れ、昨夜の履帯の痕跡の縁を指で壊し、道を戻す。湖の民は水門の板を磨く。磨きはきらきらではなく、滑らかさで測る。指を滑らせ、引っかかりを探す。引っかかりが見つかれば、朝の仕事は半分終わったようなものだ。

 混沌都市から失敗の報告が届く。凧が落ちた。反射鏡の角が甘かった。遠隔泉の開閉リズムがズレた。彼らは笑いながら直す。笑いは軽い。だが、軽さはここでは礼儀だ。戦の重さを軽くするのは、笑いの力だ。笑いは嘲りではない。自分への軽い蹴りだ。蹴られた足で、次の段に乗る。乗り損ねたら、笑う。笑えたら、落ちない。

 影の法廷は今朝、誰も座らない。その代わり、布は泉の風で揺れて、昨夜の歌の残り香を集めている。集めた香りは、祭の納屋に移され、次の工房試験の夜に開封される。判決紋の壁には、新しい渦が乾きつつあり、子どもが指でなぞって、墨を付けてしまい、メイダに軽く叱られて、笑い、指を洗う。

 レンは旗竿に手を置く。旗は半ばまで降りていて、朝の風がまだ届かない。届かない風は、木の内側で動く。竿の木目に耳を当てると、微かな震えが伝わる。震えは拍だ。拍がある限り、合唱は始められる。合唱があれば、窓は開けられる。窓が開けば、作業は続けられる。作業が続けば、戦は続かない。

「鍵は分かち合い、拍は渡り、作業は続く。世界は、また描き直せる」

 彼の言葉は宣言ではない。独白でもない。台所に向けた声に近い。誰かが聞いていても、いなくてもいい。聞いているのは木だ。木は、覚える。旗竿の根元に、レンは自分の鍵片を埋めた。薄い金属は土と石の間で冷たく、しかし、手から離れた瞬間に音を消した。埋めることで、誰のものでもなくなる。鍵は街の拍の一部になり、合唱がそれを拾う。拾った者は、その夜だけ持ち主になる。夜が終われば、鍵はまた土に戻る。戻る場所がある鍵は、盗まれない。盗まれても、戻れる。

 泉の面が、朝の色で輝いた。透明の中に薄金が浮かび、そこに昨日の渦が隠れている。渦は見えない。見えないものは信じにくい。信じにくいものは、歌で補う。歌台の司会が小さく節をつけ、条文詠唱がひとつだけ言葉を重ねる。被害歌ではなく、労作歌だ。戦いの後の歌。手のひらの皮の硬さを誇る歌。パンの裏の焦げまで美味いと笑う歌。朝の粥の湯気で目を細める歌。歌が街に戻る。

 遠景に空白の章がある。石壁の片隅に、セラフィナが残した追記枠は、まだ半ページ以上が白い。白は怖い。白を怖がる心は、街を守る。怖がり続ける街は、生きる。混沌都市の若者が、白に最初の線を引く。線は曲がり、すぐ消され、また引かれる。砂漠路の延伸計画図がその下に貼られ、湖の発電網拡張案が横に置かれ、森の歌の学校がその上に重ねられ、峡谷の橋脚の新しい型枠が、その横にぶつかる。ぶつかる音は騒音ではない。生活の音だ。

 人々は散り、また集まる。同盟の旗が風を掴み、混沌都市の灯が昼でも薄く見える。帝国現実派の兵が、握りこぶしを開く練習をしながら、水門の板を磨く。磨き終わった板に彼は顔を映し、目の下の隈に指を当て、指を水で濡らし、額の汗を拭く。恥は作業で薄まる。薄まった恥は、誇りに変わる。誇りは、鍵を欲しがる。鍵は分散されている。分散は嫉妬を散らす。散った嫉妬は、風に紛れる。

 最後に、空が色を持った。薄金は白に押し出され、青が生まれ、星衣の折り目が日の光で普通の布に戻る。灯梯は舌を引っ込め、人の足をまた地へ降ろす。泉は一度だけ深く息を吐き、波紋が遅れて渦の中心で消える。消えたところに、次の歌い出しがある。今日の始業の歌。戦の歌ではない。朝の歌だ。朝は、仕事の合図だ。仕事は、戦の逆の言葉だ。

 レンは背を伸ばし、旗竿から手を離し、広場を見渡した。メイダが太鼓を片付け、子どもたちが手をさすり、バルドが槌を布で拭き、ナナミアが森へ振り返って「ここまで」と囁き、砂漠の隊商が駱駝の鞍を軽く叩き、湖の民が水門の板に掌を押し当て、影の法廷の布が朝の風で一度大きくふくらんで、しぼむ。黒い演算者の声は、もう聞こえない。聞こえないうちに、忘れてしまってはいけない。忘れそうになったら、歌う。歌えば、思い出す。思い出せば、窓は正しく開き、正しく閉じる。正しく閉じる街は、正しく働く。

 世界は、描き直せる。描き直せる世界は、誰のものでもない。所有は、街の拍を鈍らせる。公共は、街の拍を増やす。増えた拍の分だけ、窓は増える。窓が増えすぎたら、拍で調える。調える役は巡る。巡る役を持ち続ける者はいない。いないことが、街の安全だ。

 東の光は強くなり、影は短くなった。広場の端にある、空白の章の脇に置かれた筆が一本、風もないのに小さく揺れた。誰かが取り、また戻す。戻した跡が、ほんの少し違う角度で、朝の光を反射した。それは、誰かの一日の始まりの角度だった。角度は小さくても、世界の線は変わる。線が変われば、地図が変わる。地図が変われば、道が変わる。道が変われば、脚が変わる。脚が変われば、拍が変わる。拍が変われば、歌が変わる。歌が変われば、窓が開く。窓が開けば、また作業が始まる。

 再構築の朝。街は息を吸い、吐いた。吐いた息は白く、すぐ透明になって空に混じる。混じることで、空は重くなる。重い空は、いい。軽い空は、すぐに飛ばされる。飛ばされない空は、歌を受け止める。歌が受け止められる限り、鍵は鳴る。鳴った鍵は、地の下で静かに笑う。笑い声は聞こえない。聞こえない笑いは、本物だ。誰のものでもない笑い。公共の笑いだ。街は、その笑いの上に立つ。立った街は、また座る。座った街は、また立つ。立ったり座ったりする拍を、朝は黙って数える。数えられた拍だけ、未来が増える。増えた未来から、選ぶ。選ぶとき、舌は迷う。迷うとき、歌う。歌えば、合唱になる。合唱になれば、たとえ帝国AI群が戻ってきても、街はまた、変換できる。攻撃を作業へ、破壊を建設へ、所有を公共へ、支配を合唱へ。

 そして、朝は完全に明けた。

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