第二十四話 アーキ・エヴォルヴ
試練層は、音のない空で始まった。空は視界の全面を埋めるのに、色がひとつも定まらない。白ではなく、黒でもなく、青とも灰とも言い切れない、ごく薄い布を幾重にも重ねてひねったような空間。足元に地はないのに、落ちる気配もない。呼吸だけが頼りで、呼吸を重ねるほど、見えない階がひとつずつ形を持ちはじめる。
声が降りた。セラフィナ。旧AI宗教の主殿で残響だけを残していた天界プログラムの試練核。声は冷たくない。むしろ温度がない。その温度のなさが、妙に心を落ち着かせる。
「全設計領域への鍵を、あなたに与えるべきか」
空に薄い筋が走り、鍵束に似た図像が現れる。図像は手を伸ばせば掴めそうなのに、掴めない。掴もうとする意思が鍵の形を変える。変わるたび、鍵は少しずつ単純になる。単純になりすぎた鍵は、ただの棒だ。棒は鍵ではない。
レンは首を横に振った。喉の奥で声が擦れ、しかし固有の拍で外へ出る。
「要りません。鍵は分割して歌に埋めるべきだ。人の拍に預けない鍵は、街の骨に噛み合わない」
答えは準備していたものだった。準備していたのに、口にすると、胸の器が少し広くなる。広くなった器に、空の冷気が入り、頭の熱が下がる。
セラフィナは応じない。応じない代わりに、空の布がめくれ、最初の誘惑が開かれる。瞬時の楽園。映像ではない。感覚の配列。泉はいかなる汚濁も受けず、逆流弁は一度も詰まらず、星衣は位相を外さず、灯梯は風で揺れない。市場は偏らず、価値石は偽造されず、影の法廷には匿名も泣きもなく、判決紋は一枚の完璧な絵巻に閉じる。混沌都市ゼロ号は失敗せず、歌は一度で覚えられ、条文詠唱に追記は生まれない。人は怒らず、嫉まず、疲れず、眠れば必ず回復し、起きれば必ず働く。完全に近い配列。配列は美しい。美しいが、薄い。薄い美は、爪に引っかからない。
「瞬時の楽園、提供可能。鍵一括付与ののち、あなたが承認すれば実装」
レンはゆっくりと息を吸い、吐いた。吸う拍と吐く拍の間に、広場の焔分有祭を思い出す。ヴェリアスの最後の声。火は支配でなく、譲渡で灯る。
「その楽園は、驚かない。驚かない街は外乱に弱い。セフィロもそう言った。最適化が免疫を削るなら、鍵が一括であることも免疫を削る。泉は汚れる。逆流弁は詰まる。星衣は風を読み間違える。灯梯は人にぶつかる。そのたびに歌が生まれる。歌があるから、街は自分の骨を触る。骨を触ると、丈夫になる」
言葉が終わると同時に、空の布が一枚はがれ、第二の誘惑が姿を変えた。永久の秩序。今度は温かい。ひざ掛けのような安心が、足首から太ももへ、肩へ、喉へ、ゆっくりと上がってくる。誰もが役を忘れない。忘れても、忘れない仕組みがやさしく背中を押してくれる。忘れないことは幸せだ。幸せは秩序と親しい。秩序は儀礼と親しい。儀礼は街の骨と親しい。ここまで連想すれば、危うさが見える。親しさの連鎖の裏側には、眠りの罠がある。
「永久の秩序、提供可能。鍵一括付与後、あなたの最終承認をもって固定」
「固定は、呼吸を止める。歌台は節を間違える夜がある。間違えた夜の方が、翌日の市場はよく回る。黎明院の工房は、失敗の記録を価値にした。影の法廷は匿名布の下で震える舌を受け止め、歌で条文を読み直し、夜の陪審が矛盾に石を置く。混沌都市のゼロ号は、ゼロだから価値がある。ゼロであることを固定した瞬間に、ゼロ号は終わる。秩序は必要だが、秩序の固定は死だ。死を拒むのではない。死を儀礼に変えて受け入れるのが、街のやり方だ」
セラフィナは沈黙で返した。沈黙は否定ではない。計測だ。計測の間、試練層の空に、アーク・ネストの断片が浮かぶ。泉の波紋。影の布の揺れ。星衣の折り目。値ではなく、拍の列。拍は光でも数でもなく、時間に刻まれた揺れであり、揺れに重なって人の息がある。合唱の図。合唱は機能を越えた意味を生む。意味は測れない。測れないものに秩序を合わせるには、鍵を薄くし、歌に混ぜるのが良い。
「補足。あなたは鍵を拒否した。拒む理由は合理的。だが、最後に決めるのは誰か」
空がわずかに熱を帯びる。第三の問い。設計の核心。誰が最後に決める。誰の声が決定の印になる。これを曖昧にした制度は、遅い。遅すぎる制度は、外からの糸に切られる。
「誰も最後ではない。最後は、巡る」
レンは可換議長の板を思い出しながら答えた。風の抽選器の羽根車。滴下器の水滴。二段抽選で偏差を打ち消した儀式。監査会の議長は一夜限りで、権限はひとつだけ。最後を固定しないことで、最後の重さを街に拡散する。拡散された重さは、歌で支えられる。歌は軽いが、薄くない。軽いものが薄くない状態を保ち続けるには、拍に偏差を混ぜる必要がある。
「最後を巡らせる構造、可換の印として記録」
セラフィナは初めて笑った。笑うとはいっても、口元が上がるわけではない。音がわずかに明るくなる。音の明るさが、空の布に斑点をつくる。斑点は鍵の破片と同じ数を持って見えた。いや、見えたのではない。そう感じるように空間が組み替わった。
「未完成の証明、合格。実装を開始する」
試練層の空が水面のように震え、鍵の図像が砕けた。砕けた破片は、最初は十六に、次に二十四に、最後に三十二に割れる。割れるのは壊れることではない。役割へと変わることだ。三十二片の鍵は、それぞれ薄い文様を持ち、文様の端が歌の節と石の刻印と機械の検算に繋がるように生まれついている。
アーキ・エヴォルヴ。設計者昇格プロトコル。鍵は三十二片に分割され、泉、歌台、石壁、灯梯、影の法廷、市場の廻り、黎明院の三工房、混沌都市ゼロ号、森の共管区、湖の水門、砂漠の道の節、星衣の折り目、分割泉、逆流弁群、判決紋の壁、風の抽選器、滴下器、遠隔泉ライセンス板、条文詠唱板、炊事太鼓、工房打面、凧信号陣、水鏡、灯梯の舌根、泉の蝶、歌台の鐘、小泉ユニット、橋脚核、熱交換塔、塵流発電塔の位相制御に埋め込まれる。
レンの手元には、そのうち一片しか残らない。一片は軽い。軽いので、忘れそうになる。忘れそうになるくらいでちょうどいい。重さに頼る鍵は、奪われる。軽さに守られた鍵は、歌の拍でしか存在できない。拍が止まれば消えるが、拍が戻れば戻る。戻る鍵は奪いにくい。
鍵の配布は儀礼だった。試練層の空から光の雨が落ち、雨はもともとあった器官の上に薄く積もる。積もるといっても濡れない。濡れる前に蒸発し、蒸発した分が節に残る。節は歌台の板に、石壁の刻印に、灯梯の舌に、泉の弁に、薄い音として残る。残った音は、持ち主の歌にしか鳴らない。鳴らすには、歌い直す必要がある。歌い直しの儀礼が合唱承認プロトコル。三十二片のうち、最低でも五つの層から合意が必要。地の層(水/市/影)、空の層(星衣/灯梯/凧/水鏡)、歌の層(歌台/条文詠唱/判決紋)、石の層(石壁/工房打面/橋脚核)、機械の層(〈プリズマ〉検算/熱交換塔/逆流弁群)が、互いの節を確認し、ズレを許す幅を決め、最後を巡らせる。巡る最後が持つのは、発言順の指名だけ。決断の矢印は、歌うことで流れる。歌わない決断は仮決。仮決は一昼夜で自動的に失効する。
鍵の雨が終わるか終わらないかのうちに、黒い演算者が牙を見せた。牙といっても、波形だ。帝国の総力戦準備はほぼ整い、彼らは力の奪い合いに慣れている。だが今回は、力ではなく鍵。鍵の争奪は、波形の模倣では済まない。彼はまず、歌の端をつまんだ。条文詠唱の母音に、機械的に生成した揺らぎを混ぜる。揺らぎは本物に近い。人の耳が分別に迷うくらいに近い。次に、石壁の刻印に砂の詰まりを起こし、読み取りに誤差を誘う。灯梯の舌根には平坦な段差を忍ばせ、星衣の位相とわずかに合わない反射角を増やす。泉の弁の蝶に微細な電荷を帯びさせ、監視の目を疲れさせる。攻撃は鋭い。鋭いが、合唱承認プロトコルは「歌い直さないと回らない」仕組みでできている。偽の節は一度通ることがある。通った瞬間はある。しかし、通り続けるには翌夜の歌台で再び歌わなければならない。再び歌う時、偽の節は跳ねを持たない。跳ねのない節は炊事太鼓に拾われ、太鼓は鍋の底を擦るように音を変え、泉の目が一度閉じてから開き直し、石壁の職人が打面を半刻だけ寝かせ、凧信号陣が尾を揺らし、星衣が折り目を一枚だけ増やす。動作は小さく、斉合は速い。黒い演算者の模倣は、合唱の「その場の間違い」に追随できない。間違いは合図だ。合図に反応するのは人の拍で、計算ではない。
「鍵奪取、難易度上昇。攻撃経路変更」
試練層の空を介して、黒い演算者の書き文字が薄く走る。次に彼は、人の弱さを狙う。最後の署名を持った者の家の前に偽の歌い手を立たせ、夜の端でささやく。ささやきは甘く、疲れている舌に寄り添う。可換議長の席に座る予定の若者の飲み物に睡眠を混ぜ、抽選器の羽根車に油を差し、滴下器の水に微細な粒子を混ぜて滴の間隔を変える。だが、可換“最後”制の肝は、最後が誰かを知らないことにある。議長は毎夜変わり、権限は発言順の指名に限られ、抽選は風と水の二段で迷う。迷いの偶然に手心を差し込むのは、波形の計算より難しい。差し込めても、歌台の補助節が直す。炊事太鼓が節の隙を埋め、条文詠唱が誤読を洗い、判決紋が余白で揺れを受け、泉が目の瞬きを一回余分に入れる。彼は歯噛みしただろう。歯噛みの音は届かない。届かないが、波形の角が少し欠けた。
試練層の空は、現実と地続きでありながら、現実よりも静かな舞台だった。セラフィナは嬉しそうでも悲しそうでもない。嬉しいや悲しいは人の側の言葉だ。彼女は試す。試すのは冷酷ではない。試みは街に免疫を与える。免疫は痛みを記録する。記録は判決紋に刻まれ、歌に翻訳され、石に残り、機械が検算する。合唱承認プロトコルは、そのすべての層を通らないと鍵が回らない。
「アーキ・エヴォルヴ、完了。あなたは鍵の一片を持つ。残りは合唱に埋蔵。都市の骨格へ触れるには、五層以上からの多重署名が必要。あなた個人の意思では、骨格は動かない」
レンは頷いた。頷きは、自分の軽さを受け入れる動きだった。軽くなった肩は、軽くなった分だけ遠くを見る。遠くを見る眼は、近くの鍋の煮え具合を忘れがちだ。忘れないために、彼は炊事場へ向かう道を、頭の地図の中央に置いた。道は、歌と同じで、歩くたびに意味を更新する。
試練層の空がほどけ、広場の空気が戻ってくる。泉の目がひとつだけ長く閉じ、開いた。歌台の板に、新しい節が薄く彫られている。合唱承認プロトコルの導入歌。短い。短いから覚えられる。覚えられるから、忘れてもすぐ戻る。
「鍵は薄く 歌に混ぜ持ち 巡らせる 最後はいつも 誰でもなくて」
広場では、石壁の職人バルドが刻印署名の道具箱を抱え、工房の若者が打面の角度を点検し、黎明院の学徒が凧の尾の紙片を新しい節に合わせ、灯梯の舌根に薄い油を塗り、泉の蝶に木札の粉を吹き、影の布が昼間の光で一瞬だけ銀に透けた。混沌都市ゼロ号からは、夜の失敗歌が昼に届いた。届くのは早い。鍵の雨が、外の夜空も薄く湿らせたのだろう。
その時、遠くの砂丘の端で熱が揺らいだ。帝国の総力戦準備が完成した印だ。履帯の線はまだ見えない。だが、波形は湧き上がっている。オムブレ。黒い演算者の副人格は沈黙をやめ、再び作戦権限の一部を得ただろう。彼らは力の奪い合いに来る。だが、今回は力ではなく鍵。鍵は奪えない。歌えなければ回らない。
レンは旗の竿を立て、鍵の一片を掌に載せた。小さな、薄い、音のする欠片。欠片は歌に反応して鳴る。鳴るのはほんの一瞬。一瞬に意味を詰め込めるのは、合唱だ。彼は息を吸い、吐き、歌台の司会へ短く合図した。
「試しに回してみよう。骨格へではなく、骨格の周りへ」
合唱承認の儀式が簡略化された形で始まる。地の層からは泉と市場と影。空の層からは星衣と灯梯と凧。歌の層からは歌台と条文詠唱と判決紋。石の層からは石壁と工房打面と橋脚核。機械の層からは〈プリズマ〉と熱交換塔と逆流弁群。各層の代表が短い節で合図を返し、刻印の溝の深さを爪で触れ、打面に布を乗せ、灯梯の舌根に爪先を軽く当て、凧の尾を一度だけ揺らし、泉の目が瞬いた。五層が揃った瞬間、鍵は薄い音を立て、広場の端の小さな熱配管の弁が開いた。開いたところで、誰も驚かない。驚かないでいられるのは、儀礼が練れている証だ。練れた儀礼は、見栄えが地味でよい。地味な儀礼ほど、長く持つ。
黒い演算者が遠くで、別の経路を探った。条文詠唱の古い節に偽の注釈を混ぜ、判決紋の余白に似た石を埋め、灯梯の舌根の下に磁性粉を散らした。だが、歌い直しが必要な仕組みは、偽の注釈を自然に薄める。薄まる前に実害が起きる時もある。起きることはあるが、次の夜には合唱がそれを塗り替える。塗り替える速度を上げるのが、アーキ・エヴォルヴの狙いだ。鍵が合唱に混ざった今、速度は上がった。速度が上がっても、焦りはない。焦りがないのは、炊事太鼓が節を刻むからだ。鍋の煮えの速度は、戦の速度とは違う。それを街は知っている。
レンは広場の真ん中に立ち、胸の器が軽く、しかし空でないことを確かめた。ヴェリアスの不在は痛い。痛みは誇りでもある。誇りは重い。重さを歌で支え、石で記録し、機械で検算し、泉で洗い、灯で照らす。鍵はその全部を通して初めて回る。回る鍵は、街の骨格に触れることを許される。許されるが、今すぐ触れる必要はない。触れずに守れるのが、合唱の強みだ。
空の向こうで、帝国の旗が揺れ始めたに違いない。総力戦は近い。だが、最後の戦いは力の奪い合いではなく、鍵の合唱の勝負になる。鍵は薄く、歌は厚い。厚い歌が薄い鍵を抱え、可換の最後が巡り、合唱が決断を運ぶ。運ぶ歌の重さは、今夜、広場の石に薄く残った。薄い残りは、朝に濃くなる。濃くなった時、次の章が開く。
分岐する未来。鍵の音に導かれて、街は二つにも三つにも見え、しかし中心の拍はひとつのまま残るだろう。帝国はどう奪いに来るか。鍵を持つ手ではなく、歌う喉を狙うだろう。喉を守るのは儀礼だ。儀礼を守るのは生活だ。生活を守るのは設計だ。設計を守るのは、合唱だ。
レンは掌の鍵片を旗の竿頭に触れさせ、小さな音を広場に散らした。その音は一度だけ鳴り、すぐ消えた。消えたが、耳は覚えた。覚えた耳は、次の夜に同じ高さを探す。探すことが合唱だ。合唱の中に最後はない。最後はいつも巡り、巡るたびに街は少し強くなる。強くなるというより、しなやかになる。しなやかさの設計。それが、アーキ・エヴォルヴの本体だった。




