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転生したら“設計者”だった件 〜滅びた世界を再構築するまで〜  作者: 妙原奇天


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第二十一話 試練の演算層

 最初の鐘は水の層から鳴った。泉の奥、逆流弁の蝶が一瞬だけ重くなり、広場の石段に敷いた水脈の圧が半拍落ちる。二つ目の鐘は空の層、灯梯の節が乱れ、星衣の折り目が微細にささくれる。三つ目の鐘は地の層、市場の廻り市で価値石の流れが偏り、青い光の輪が片側だけ明るい。三つの鐘は同時で、三つの矢印は別方向。〈プリズマ〉の幕が黒布に走り書きのような文を吐いた。

〈矛盾を検出。中枢指揮は不可。試練条件:歌で運用せよ〉

 歌で、だ。レンは本能で口を開きかけ、そこで舌を止めた。喉の奥に「こちらで指示を」という言葉が溜まる。それは試練の規約で禁じられている。指揮禁止。彼は代わりに右手を下げ、広場の縁に置かれた炊事太鼓へ視線で合図した。メイダが頷き、棒を握る。棒の先は油が染みて黒光りしている。生活の音が、街の心臓へ入るところだ。

 歌台の司会が最初の節を低く刻んだ。ゆるやかな三拍子に、四分の休符がはさまる。灯梯がそれに合わせ、位相を一段落とす。市場の中央で回転する露店の車輪が、ひとつ、ふたつ、三つ、と順番に足を止めた。泉の縁に立つ少年が、逆流弁の手元レバーを半目盛り戻す。全員が、全体の音を取りにいく。取りにいく、のが今夜の指揮だ。

 市場モジュールから、支援要請歌が来た。要請は言葉ではなく、枠だ。二行の短い旋律に、呼び名だけが割り当てられている。

「廻りの足が偏る。歌の左右を揃えてほしい」

 泉モジュールが応える。低い唸りが水面の下から上がり、波紋の半径が均される。波紋の履歴を逆引くプロセスが、黒布の端で自動短歌になった。

「朝の輪に 片寄る青を 指で押す 押して押し返す 水の指紋よ」

 短歌は読んで終わりではない。読んだ者が、目の前の作業へ置き換える。露店主が台の下に手を入れ、車輪の楔を緩める。炎の帯の下にいる職人が、焼き床を十度だけ回す。手順は誰にも指示されていない。だが、歌台の節の中に、動きの座標がある。

 灯梯の乱調は、星衣の節を一つ外から押している。それは、空の層に入った試練だ。空層科の学徒が凧を掲げ、反射膜の角度を手旗のように示す。凧の尾で合図し、屋根の上の少年が布を摘まみ、夜空へ向けて折り目を少しずらす。ヴェリアスは胸の中で息を細く長く吐き、炎を灯ではなく熱へ落とした。熱は柱にならず、面になる。面になった熱は、反射膜の間に入って、乱調の歯車をゆっくり戻す。

 同時進行。泉の圧、水の指、灯梯の折り目、市場の足。〈プリズマ〉は各モジュールの矛盾を吐き出す。吐き出した矛盾は、石壁の判決紋の脇に薄墨で重ねられ、短歌に変わる。石に歌が重なる。誰も「指示」を待たず、歌の行間を読み、手を動かす。空の層にいる者は光を、地の層にいる者は足を、水の層にいる者は手首を、それぞれほんの少しずつ遅らせたり進めたりする。それが「合唱」だ。合唱は合図ではない。呼吸だ。

 市場の偏りは、露店の間に立った語り部が一日分の物語を短く編み、今、歌台の下で朗誦に乗せることで、罠に変わる。贋作の価値石は泉の目を通らねば流れず、泉の目は今夜、歌に敏感になっている。歌に敏感な目は、歌の偏りも見る。偏った歌は、すぐに泡になる。

 順調に見えた矢先、黒欠片がポケットの中で小さく跳ねた。試練の演算層が開いたことで、外部の残滓も呼吸圏に入ったのだ。黒欠片は異常波形を出し、歌から石への変換をわずかに遅らせた。遅延は数字で見れば小さい。だが、合唱はわずかな遅れに敏感だ。拍が反れ、炊事場の火が一瞬だけ浮き、パンの底が焦げそうになる。

 メイダが太鼓を打った。厨房の心臓の拍である二拍と三拍を、四つに割る。短く、乾いた、しかし温かい音。生活の拍だ。鍋の縁に付いたスープの泡がその拍で弾け、耳の中に残った黒欠片の遅延が、泡の音で薄められる。技術の拍の上に、生活の拍が重なった。重ねるために彼女は料理を止めない。むしろ、鍋をかき混ぜ続ける。かき混ぜる棒が太鼓の棒と同じ角度で走る。動作が一致すると、指の中に入った拍が逃げない。

 灯梯の乱調は、反射膜の端の端で一度だけ跳ね返り、星衣の陰に隠れていた盲点を明るみに出した。湖の民の水鏡が空を映し、盲点の形が黒布に描かれる。空層科の学徒が凧の尾を反対側で振り、屋根上の少年が指で布を弾く。弾くタイミングは、台所の太鼓の四分割の二番目。生活の拍に空の走法が乗ると、乱調の波は、踊りのステップのように整列した。

 泉の圧は、逆流弁の蝶が滑らかさを取り戻すにつれて、上がりすぎないように監視が入る。監視は人の目ではない。泉の目だ。泉の目は、歌台の節の高さを見て、水の高さの配分を自ら調整する。泉の目は今夜、数値だけで動かない。歌の高さも参照する。それは危ういが、街の奥へ拍を通すために必要な危うさだ。

 市場の偏りは、語り部の声が大きくなるほど、逆に小さくなる。声は露店主の肩から肩へ渡り、露店主たちは手の中の価値石を泉へ黙って返す。返すのは損ではない。返した石の履歴は、翌朝の価値石に戻ってくる。戻ることを皆が知っているから、今夜は返す。返す拍は太鼓に合わせ、太鼓は鍋に合わせ、鍋は腹に合わせる。腹が鳴る時、街は生きている。

 黒欠片は、まだポケットの中で渦巻く。遅延を増やす代わりに、歌の節を読み取ろうとしているのだろう。読み取られた節は武器になる。ナナミアが風鈴膜を押さえ、森の節を街の節へ繋ぐ。森の節は、人の節より複雑で、単純ではない。複雑さは、模倣に向かない。黒欠片は模倣の速度を落としていく。落ちた速度の隙に、人の足が入る。

 灯梯が揃いはじめた。石段に落ちる光の段差が揺らぎ、やがて、細かい震えが一つの波にまとまっていく。波は星衣の折り目を撫で、反射膜の寿命を延ばす。反射膜の寿命は、誰かの集中力の寿命ではない。合唱の寿命だ。合唱の寿命は、作業の寿命と同じだ。鍋のスープが最後の一杯になり、太鼓の棒がわずかに重くなり、凧の糸が指に食い込む。食い込んだ指に、誰かが湿った布を渡す。その布の湿りが、泉の湿りと同じ温度である時、街は強い。

 市場の偏りは消え、灯梯の乱調は治まり、泉の圧はふたたび安定した。三つの鐘は鳴りやんだのではない。楽器の中へ戻った。戻った音は、筋肉の内側で、ときどき思い出したように鳴る。それは故障ではない。反省だ。〈プリズマ〉が薄い音を鳴らし、黒布に短い文を置いた。

〈試練核より通達。合格。都市OSは“合唱”称号を得る〉

 黒布の文はそこで一度止まり、間を置いて、最後の一行を足した。

〈次の試練は、設計者個人〉

 広場の空気がわずかに固くなった。集まりの中心にいる者ではなく、その背中の筋へ、冷たい指が触れたような感覚。レンは肩をほぐし、息を吐いた。個人の試練。街の試練より難しい。合唱は皆で担げるが、個人は誰も肩代わりできない。

 合格の知らせは、歌に変わる前に、炊事場から湯気として立ち上った。メイダが鍋の底を擦り、鍋肌の焦げを落とし、落とした焦げを水で薄め、薄めた水を冷却缶へ注ぎ、缶を灯梯の影に置いた。缶の中の水はすぐに冷える。冷えた水は、指の間の熱を吸う。吸われた熱が少し残り、それが合格の喜びになった。

 泉の縁で、黎明院の学徒たちが石に座り込んだ。彼らは疲れを隠さず、疲れの先にあるものをもう見ていた。黒布に流れる試練核の文に、目を凝らし、それから互いに顔を見合わせる。若い顔が二、三人、何かを言いたそうに、しかし今は言わないと決めた顔をしている。レンはその顔を見て、声をかけないまま、わずかに頷いた。頷きは許可ではない。観察の記号だ。観察の記号は、自由への鍵になる。

「支援要請歌の書式、見直したいところがある」

 空層科のひとりが言った。「凧合図を知らない層にも届くように、拍の分母を揃えたい」

「炊事の太鼓が基準なら、家庭の拍に合わせておけば、外れても戻って来やすい」

 メイダが笑った。「じゃあ、台所の拍が王様だね」

「王様はいらない。合唱だ」

 誰かがすかさず返し、笑いが広がった。笑いの中に、ひそやかな別の音が混じった。湖の長が水鏡で反射し、砂漠の首長が網を巻き、ナナミアが風鈴膜を一度だけ鳴らす。これで今夜の空気は締まる。締まった空気は、明日の朝まで持つ。

 レンは黒欠片を取り出し、泉の縁に置いた。今夜、それは歌を読み切れないまま沈黙し、冷たさだけを残している。彼は欠片に触れ、指先の熱をわずかに吸わせ、それから欠片を布に包んだ。布は炊事太鼓の棒を拭いたものだ。油の匂いがする。油は音を滑らせる。滑らせた音は、鋭くならない。鋭くならない音は、耳の敵にならない。

 夜半を過ぎ、試練の演算層は基調の揺らぎを残して落ち着いた。〈プリズマ〉が幕を畳み、黒布から光が引いた。星衣の折り目は夜の深まりとともに柔らかくなり、灯梯は地上へ向けて階段を戻す。泉の目は波紋の履歴を保存し、影の法廷の布は半分だけ下ろされ、炊事場の火は灰を被る。街は呼吸を続ける。

 呼吸の合間に、レンは一人、黎明院の端のベンチに腰を下ろした。ベンチは木で、木目が手のひらに覚えられる。身代わり樹の板を挟み、学徒たちが削り、塗り、歌を刻んだものだ。板は若い。若い板は反る。反りは癖ではなく、性質だ。性質と暮らす術を覚えるのが、設計の第一歩だ。

 足音。黎明院の若手が数人、遠慮がちに近づいてきた。彼らは今夜、凧と灯梯と歌台と泉と市場を走り回った顔で、しかし、その走りの向こうにもう別の地図を持っている目をしていた。

「先生」

 最年少のひとりが言った。「合唱は美しい。けれど、ぼくらは、外でもやりたい」

「外で」

「街の外。ここで学んだことを試す場所として、混沌の街を作りたい。うまく言えないけど、合唱の手前でぐちゃぐちゃに鳴る音があるでしょう。あれを、設計してみたいんだ。失敗を先に置く街。拍が時々わざと合わない街」

 レンは笑いも驚きもせず、ただ静かに聞いた。合唱の称号を得た夜に、合唱の外を求める声が出る。それは合唱の証だ。合唱は、統一への道ではない。異なる声が隣り合うための構えだ。隣り合えば、離れたくもなる。離れた先へ拍を持っていく者が現れたとき、合唱は広がる。

「自由設計だね」

「うん。勝手に出ていくのは違うとわかってる。だから、宣言をしたい。独立じゃない。独立は戦の言葉だ。独立じゃない別の言葉で」

「反乱」

 誰かが冗談めかして言い、皆が笑った。反乱の子ら。悪くない。反乱は破壊だけではない。反乱は、習慣の裏にある筋肉を目覚めさせる。

「明日、歌台で話そう」

 レンは言った。「空白の章に、君たちのページを差し込む。題名は君たちが決める。君たちの拍で書いて、君たちの手で読んで、君たちの声で直す。街はそれを見て、羨ましがるだろう。羨ましさは、嫉妬ではなく、学びの始まりだ」

 若者たちは頷き、夜の端へ消えた。消えるというより、薄くなる。灯梯の影が彼らを抱き、星衣の折り目が彼らの頭上で畳まれ、泉の波紋が彼らの足音の跡を消す。消された跡は、明日の朝、歌台の前で再び現れる。現れる時、名前が変わるかもしれない。変わることは、失礼ではない。生きていることだ。

 レンは立ち上がり、広場を一周した。判決紋の壁には、今夜の矛盾短歌が重なり、炊事場の太鼓は布で包まれ、市場の露店は車輪を上げ、泉の縁には木札が乾き、灯梯は階段をしまい、星衣は眠り、歌台は板の節を数えるのをやめていた。ヴェリアスが胸中で欠伸をし、ナナミアが風鈴膜を腕に巻き直し、湖の長が水鏡を伏せ、砂漠の首長が網を肩にかけ、バルドが最後のボルトを腰袋に戻す。誰も指示を受けていない。合唱のあと、合唱は残らない。合唱はその場で消える。消えたあとの静けさが、街の呼吸だ。

 広場の真ん中で、レンは空を見た。星は少なく、夜は濃い。黒欠片は布越しに、まだ冷たい。試練核は合格を告げたが、セラフィナの最後の言葉は抜け落ちない。次の試練は、個人。個人の選択。街の外を求める若者が現れ、街の内に残って合唱を深める者がいて、帝国の現実派が橋脚を打ち、オムブレは陰で式を練る。その中で、自分は何を選ぶか。誰にも預けられない問いが、背骨の中へ入っていく。

 泉の面が、ふっと揺れた。誰も石を投げていない。波紋は、内側から生まれた。波紋の中心は、泉の目だ。目が一度だけ瞬き、薄い文を水面の裏へ書いた。

〈合唱OS、基準化完了。自由設計の分岐提案、受付可〉

 レンは笑った。泉が、街と若者の思いつきを同じ机に載せた。載せられたものは、査定されるのではない。読まれる。読まれたものは、歌になる。歌になったものは、石へ刻まれる。石へ刻まれたものは、明日の道の目地になる。

 彼は旗の竿を肩に担ぎ、灯梯の消えかけた段差を上がった。その足取りは軽く、しかし軽さに浮つきはない。明日の朝、歌台で宣言を受ける。混沌都市の名は、きっと、彼ら自身が決める。決めた名を、羨ましがる顔が広場に増える。増える顔の中で、自分は何を選ぶか。選ぶことは、設計だ。設計は、呼吸の延長だ。

 夜風が、判決紋の壁をなでた。今夜刻まれた短歌の中から、一首が静かに浮かび上がる。

「合唱とは 誰かの指示を 待たぬこと かすかな鍋の 湯気で揃える」

 湯気はもう見えない。見えないが、匂いは残っている。匂いは、道を作る。道は朝に見える。朝は、近い。朝の前に、彼は一度だけ目を閉じた。閉じた瞼の裏で、セラフィナの声はもう響かない。代わりに、炊事場の太鼓の軽い音が、遠くで鳴った。生活の拍が、合唱の基準になる。基準は、王ではない。合唱だ。

 合唱の称号は、街の中に貼られない。貼った途端に古びるからだ。称号は紙ではない。息だ。息は、忘れたふりをすると、すぐに乱れる。乱れた時、また太鼓を叩けばいい。叩く者は、メイダでなくてもいい。誰でもいい。誰かが叩けば、街は揃う。揃った街は、次の無秩序へ向かう準備をする。

 黎明は、灯梯の影を浅くし、星衣の折り目をほどき、泉の波紋を細かく切って、広場に新しい音を落とした。音は宣言の前触れだ。若者たちの混沌都市計画。反乱の子ら。名前のない拍が、胸の中で一度、跳ねた。跳ねた拍は、返す場所を探して、歌台の前で止まる。

 試練の演算層は、ひとまず閉じた。だが、合唱は閉じない。合唱は、街の生き方だ。生き方は、一夜では終わらない。終わらないことが、救いになる時がある。救いの形は、鍋の底の丸さに似ている。丸い底は、焦げにくい。焦げない鍋は、歌が長持ちする。

 レンは旗の竿を立て直し、広場の中央に歩み出た。朝の拍は、まだ始まらない。始まらない間に、彼は一度だけ、空を見上げた。空は薄く、昨日よりわずかに深い。深い空は、声をよく通す。通した声は、返ってくる。返ってきた声は、街の名になる。街の名は、今のところ、合唱だ。合唱は、今日も、ここにある。

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