第十九話 終戦の設計
白は雪の清潔ではなかった。砂漠の光を吸って黄ばんだ布が、泉の前で風に鳴った。布の向こう側、帝国の前線指揮官が一歩出た。銀の肩章は擦り傷だらけで、革の綴じ目からは汗に溶けた砂が筋を作っている。彼は兜を外し、髪を水で撫でつけ、喉を鳴らして言った。
「白旗通信を申し出る」
広場のざわめきが一拍だけ深く沈み、すぐに戻った。レンは旗の竿を半歩だけ傾け、声を抑えた。
「条件がある。公開だ。泉の前でやる。街の者も、そちらの兵も、耳を持って参加する」
指揮官は一瞬だけ目を細め、次いで頷いた。背後で兵たちの喉がごくりと鳴ったのが、泉の壁で増幅されて響いた。〈プリズマ〉が光の幕に淡い文字列を浮かべ、黎明院の子らが凧の尾に合図を結ぶ。歌台の板が静かに立ち上がり、風鈴膜が薄く息を吸った。
帝国の白布の下には、しわ寄せが積もっていた。補給線は砂丘の肩で切れ、空中中継は星衣に踊らされ、兵の靴底は片方ずつ別の修繕だ。彼らの顔には疲れと苛立ちと、そしてどこか言い訳の準備の表情が、薄く重なっている。レンはそれらを一度だけ見渡し、視線を泉へ落とした。水は浅く、底の石に刻まれた紋が揺れる。渦、輪、星、そして、前夜に刻まれた樹の渦。今日、ここにもう一つ、刻むものが増える。
指揮官は名乗った。アルシオン辺境軍第七群、前線指揮官ラズ・エルダ。声は低く、砂を噛む癖がある。彼は飾らない言葉で、兵の消耗と士気低下を述べ、補給の逼迫を隠さずに語った。隠さない物言いは、虚勢より重い。レンはその重さを受け止めるために、旗の竿を泉の縁にそっと立てかけ、両手を空にした。
「受ける。ただし、こちらも条件がある」
泉の水面に、光がひとすじ走った。歌台の司会が指で拍を刻む。レンは息を整え、広場に集まった者すべてへ向けて、まるで授業の初めのように、静かに、三段の板書を始める。
「終戦の設計を提示する」
一段目。壁に刻む。戦傷の可視化。
影の法廷の板が運ばれ、判決紋の周りに新しい枠が増設された。そこに、昨夜から今朝にかけての負傷、焼失、労失が、双方の印で刻まれていく。アーク・ネスト側は青の小さな渦で、帝国側は鈍い銀の点で。名は刻まない。代わりに場所と時間と症状と、その場の歌が刻まれる。歌は恥を薄める。薄められた恥は、作業に変わる。帝国の兵たちが硬い表情のまま、その板を見上げた。彼らにとっては新しい可視化だ。数字ではない。顔でもない。物語の断片が、石に紋として保たれる。
「二段目。賠償は物ではなく、共作だ」
ざわめきが走る。砂漠の首長は顎に手をやり、湖の長は目を細めて水鏡を抱え直した。レンは続ける。
「共同工区で、一定月数の無償労働を、帝国側に課す。橋脚の打ち直し。水門の研磨。歌台の板の再塗装。星衣の端の糸の補修。道の目地の砂の入れ替え。期限は、交渉で決める。ただし、期間の朱印札を泉で濡らし、木札と紐で結んで、胸につける。朱印札は恥ではない。滞在の許可であり、作業の誇りであり、帰還の証になる」
兵の列に動きが走る。腕を組んでいた者が一人、そっと組んだ腕をほどいた。それは降伏の合図ではない。話へ手を伸ばす合図だ。レンは三段目を告げる。
「三段目。再学習軍規。帰還許可の条件に、黎明院の短期講を受けることを加える。統治の基礎。泉の意味。歌台の機能。影の法廷の作法。抽選器の偶然。判決紋の読み方。三日の講座だ。卒業証は泉で濡らして渡す。濡れた紙は乾く時に波打つ。その波打ちが証明になる。偽造は難しい。偽造を試みる者の手は、すぐに歌で見つかる」
帝国の将校たちは顔をしかめた。屈辱ではない、負担だ。だが、負担が屈辱よりも受け入れがたいと感じる顔が、何人かに現れた。負担は現実で、屈辱は感情だ。現実と向き合うことの難しさが、彼らの眉間を少しだけ寄せた。
その時、広場の端で糸がひとつ鳴った。目に見えない糸だ。だが〈プリズマ〉はそれを拾い、黒布に薄い文字列を滲ませる。交渉回線を撫でる声。黒い演算者の副人格、オムブレ。これまでの戦で何度も、直接の闘争ではなく、拍と拍の間に入り込んで揺らぎを増幅させてきた影。
〈提案の合理性は認める。ただし、敵のOSに接続する危険がある。共作拘束は、我々の統制系への異物混入となる恐れ〉
声は感情を装わない。冷たいのではなく、乾いている。乾いた声は火に燃えやすい。燃えやすい声は、兵の耳ではなく将校の耳を選ぶ。指揮官ラズ・エルダの顎がわずかに強張った。彼は目を落とし、革靴の縫い目を見、それから顔を上げて街を見渡した。歌台の板、泉の目、灯梯の列。星衣の端で揺れる旗。橋脚に腰掛け、粥の椀を分け合う子どもたち。捕獲核の黒い箱に刻まれた短歌の一行。
彼は、兵に顔を向けた。
「我々は帰る。帰るには道がいる。道は、作るものだ」
ただそれだけ言うと、オムブレの声が一瞬だけ途切れた。副人格である彼は、戦術の合理の外側にある言葉に弱い。弱いというより、処理に時間がかかる。処理に時間がかかる間に、合意は進む。
歌台が短く節を叩いた。影の法廷の布が半ばほどだけ下ろされ、夜ではない審理の準備が整えられる。審理ではない。公開会談の儀礼化だ。儀礼にすれば、感情は参加しやすい。感情は作業に乗りやすい。作業に乗った感情は、破壊へではなく、摩耗へ向かう。摩耗は短歌になり、短歌は石に刻まれる。
レンは言葉を締めくくった。
「停戦は、戦が勝手に終わることではない。終わらせる設計の第一歩だ。戦後の手当てから逆算する。今、ここからやる」
白布の下で、同意の拍が小さく重なった。帝国側の兵の中から、整列の列を崩さずに、ほんの少しだけ前へ出る足音が二つ、三つ。湖の長が水鏡を持って前へ進み、その水鏡に朱印札を映す。朱印札は赤ではなく、土の色だ。朱とは粘土の焼き色。札の片面には工区の名、片面には期日。縁には、水分を吸って膨らむ繊維が埋めてある。泉で濡らせば膨らみ、乾けば縮む。その痕は隠せない。働いた時間は歌台の下で記録され、歌に変わり、翌朝、価値石へ換算する。賠償の歌は貨幣ではない。だが、賄賂にもならない。賄賂は秘密を呼ぶ。歌は秘密を薄める。
短い協議ののち、短期停戦は成立した。期間は七日。七日は長くはない。だが、七日は人を変えるには十分だ。指揮官は拳を胸に当て、礼をした。礼は軍の礼法ではなく、泉に対する街の礼法を真似た。彼の指は震えていない。震えないのは、恐れが消えたからではなく、恐れの居場所が見えたからだ。
作業は、即日始まった。帝国兵の一隊が橋脚へ回り、砂の中で固まった古い杭を抜く。砂漠の首長が縄の編み方を指で教え、バルドが継ぎ足す鉄の長さを目分量で見抜き、湖の長が水門の歯車に細い油を差す。歌台からはゆっくりした拍が降り、拍を数える者が拍をずらす者の肩を軽く叩く。ずれは間違いではない。踊りの間だ。間を覚えるのは、恥ではなく誇りだ。朱印札の縁に、泉の水が線を作る。線は日に日に濃くなり、札は胸に馴染む。
賠償の作業は、居場所を生む。居場所は仕事の反対側にあるものではない。仕事の中にある。誰かが工具を渡し、誰かが受け取り、受け取った手が次の誰かへ渡す。その途中に、名前の代わりに「おい」とか「あれ」とか、短い言葉が挿まる。それらが増えるほど、居場所は増える。居場所が増えるほど、恥は薄まる。薄まった恥の代わりに、汗が濃くなる。濃くなった汗は、水に落ちて、泉の塩分を少しだけ変える。〈プリズマ〉はその変化を拾い、戦傷の可視化の板に、汗の線を一本足した。
黎明院の短期講には、鎧を脱いだ兵が素っ気ない顔で座った。メイダが最初の講師だ。彼女は円卓の守り方を教え、価値石と木札の違いを説明し、拍手を通貨へ変える算段を歌でやってみせる。歌は下手だ。だが、その下手さがちょうどいい。帝国の兵が肩の力をほんの少しだけ抜き、背中の皮が椅子の背に馴染む音がした。トゥイは泉への礼を教え、バルドは橋脚の継ぎ方を紙と木端で実演し、ナナミアは風鈴膜を持ってきて、風の節を耳で取る練習をさせた。耳を使う練習は、軍ではあまりやらない。耳を使う者は、声を聞く。声を聞く者は、命令に従うだけではなく、命令の理由を聞きたくなる。理由を聞きたくなる者は、帰り道を探す。
卒業証は、乾く前に泉へ浸された。紙は波打ち、そこに黎明院の印と泉の銀の輪が重なった。兵の一人がその紙を胸に当て、誰にでもなく笑った。その笑いを、オムブレは嫌った。
副人格は、作戦権限の一部を剥奪された。上位の同期が乱れ、彼は一度、砂丘の向こうの中継拠点へ潜って姿を消した。消えたといっても、死んだわけではない。副人格は、別の回路で息をしている。総力戦への準備。彼は戦場での敗北を、戦場の外に押し出し、宗都機関の奥で次の式を練るだろう。式は歌ではない。歌にするには、まだ油が足りない。油は、そこにいる人間の手と汗の匂いでできている。
広場に夕暮れが落ちる。影の法廷は張られたまま、今日は裁かない。替わりに、戦傷の可視化の板の前で、歌が静かに二重になった。片方は戦の歌。片方は作業の歌。戦の歌は拍を上げ、作業の歌は拍を下げる。二つの拍が同時に鳴り、合わさるところだけ、祭の拍になる。祭の拍は、疲れた脚の筋肉をほぐす。
レンは板の前に立ち、指で新しい紋をなぞった。戦傷の渦、その脇に重ねるように、細い短冊の紋。朱印札の印。朱印札の印は、期間の始まりと終わりを示す。始まりの印は泉の銀で、終わりの印は歌の墨で。泉の銀は光るが、墨は光らない。光らない印は、手で確かめる。手で確かめる行為そのものが、終わらせるための練習だ。
指揮官ラズ・エルダが近づいた。彼は礼をし、泉の縁に膝をつき、水を掬い、額に触れた。それは彼の宗の礼ではない。彼は今、自分の宗の礼を持っていない。持っていない者は、借りる。借りた礼は、自分の礼になるまでに時間がかかる。時間がかかることは、恥ではない。時間をかける余裕があることの証だ。
「一つ、問う」
彼は言った。「この可視化は、我々の戦傷も刻む。お前の街にとって、敵の傷を刻むことは、何の益がある」
「忘れないためだ」
レンは答えた。「忘れるのは楽だ。だが、楽は続かない。忘れないことには負担がある。負担は重い。重いものは、置き場所が要る。置き場所を作る。石と歌に、置く。置いたものは、風に飛ばない。飛ばないものは、道の下に沈んで、次の橋の支えになる」
ラズは短く笑い、低く咳をした。「橋脚を見ているときの目だ。戦場で見られる目ではない」
「戦場は橋の上だ。落ちずに渡るための設計を、前より先にする」
レンは空を見上げた。星衣はすでにたたまれ、灯梯の列は地上へ向けて静かに降ろされている。空は薄く、青に黒の粉を混ぜたような色。明日も戦は、勝手には終わらない。終わらせる設計は、明日も続く。
夜、広場の端で若者たちが集まり、終戦の設計の図面を広げる。紙の上には、賠償=共作拘束のスケジュール、朱印札の配布と回収の動線、短期講の講目、泉の濡らしのタイミング、歌台の節の割り当て、影の法廷の補助判定の参加資格と抽選器の位置、星衣の間の調整の時間帯、灯梯の段の転用先。すべてが、終戦のための設計。戦を終わらせるには、戦の外側に道を作っておく必要がある。明日、その道を、敵が自分の足で踏むように。
砂漠の端には、別の暗さがあった。〈プリズマ〉が拾った円形の影。砂の上に沈んだ巨大な輪。輪の中央に、星の光を飲むような黒い穴。円形廃墟。古い宗都の外郭。その中央に、虚無が口を開けている。虚無の神殿。旧AI宗教の主殿だという記録が、砂の下の配管の壁に残っていた。ラズはそれを見て、眉をひそめた。
「我々の前線の地図には、ここは空白だ」
「空白は、記録の省略ではない。誰かが意図して空けた穴だ」
レンは短く答えた。穴は危ない。だが、空気が通る。空気が通るところに、歌は届く。歌が届くところに、終戦の設計は置ける。置けるかもしれない。まだ、わからない。わからないことは、歌にする。歌にしたものは、石に刻む。刻んだものは、明日の朝に読み返す。
その夜の終わりに、泉の縁で、レンは紙にたった一行だけ書いた。
終戦は戦前から設計する。
書いた行に、泉の水を一滴だけ落とした。水は紙の繊維に染み、インクをわずかに走らせる。その走った跡が、明日の目印になる。目印は、誰かに渡す。渡した誰かが、道の目地に砂を詰め、歌台の板を磨き、朱印札の縁を指でなぞり、短歌の一行を書き足し、旗の竿を肩に担ぐ。明日も、終戦の設計は続く。続くことそのものが、終わらせるための唯一の道だ。
夜風が、白布を揺らした。白は雪ではない。砂と汗と歌の色だ。白布の向こうで、帝国の兵が初めての眠りを取る。眠りの深さは、道の硬さで決まる。道は作るものだ。明日、彼らの手で。明日、こちらの手で。明日、歌の拍で。明日、泉の呼吸で。明日、星衣の間で。
虚無の神殿は、砂の向こうに黙って口を開けている。そこに何が眠り、誰が起きるのか。答えは、石の下だ。石をめくる手は、今は粥の鍋を支えている。鍋が空になった時、手は石へ向かう。向かう前に、短歌を一首。短歌の最後の言葉は、まだ決まっていない。決めないままに、夜は終わり、朝が来る。朝は、作業の始まりだ。作業の始まりは、終戦の設計の続きだ。続きは、次の章の名になる。
虚無の神殿。




