第十八話 天空防衛線
昼でも夜でもない、灰と青の境目に、一つ、二つ、点が灯った。最初は目の錯覚だろうと思った者も、三つ目の点が前の二つと違う拍で瞬くのを見て、肺の奥の呼吸を変えた。星衣の薄膜のさらに上層、夏の昼に蜃気楼が皺のように寄る高さで、光が指で弾かれるように短く、そして規則正しく脈打っている。照準光。敵が空を測る時に使う、機械の拍。
塔の首が半拍、北へ傾いた。〈プリズマ〉がすぐに呼応し、広場の黒布に数列の波形が折り重なって出た。レンは旗の根を引き抜き、そのまま制御盤の柄に差し込む。旗は竿ではなく、鍵だ。鍵を回すと、星衣の膜が薄くあえぎ、重心を変え、街の屋根が旋律に合わせて角度を変える。灯梯がいっせいにうなり、今度は下から上へ、立ちのぼるように配列を組み替えた。
「空は段で来る」
胸中でヴェリアスが笑う。彼の声は鉄の匂いと炭の温度を持っている。段。階段の段。熱は層になって移動する、風は段差で乱れる、光は段を跳ぶ。敵の照準も段を辿る。だから受ける側も、段を用意する。レンは灯梯の列を段にし、真上ではなく、少し斜めに揃えた。反射角が、段ごとに一度ずつずれる。ずれは乱れではない。合唱で言うところの対旋律だ。
「空の円卓を広げる」
レンは合図をし、歌台の司会が高く手を上げる。広場に居た者たちが、それぞれに用意していた光符を掲げた。薄い鏡板と反射膜。掌の大きさの小さな円盤。円盤は、各家庭の屋根に配られていた。祭の飾りにも、台所の天日干しにも、昼寝の影づくりにも使える。それを今は、空の円卓の欠片として使う。円卓とは円いテーブルのことではなく、円く均した場のことだ。さっきまで地上の円卓で話していた者たちが、その円卓を頭上へ持ち上げる。ただし木ではなく、光で。
灯梯の列が上向きに組み直され、段の縁に沿って白い小さな梯子が、空へ水引のように伸びる。梯子の隙間に光符の円がぶら下がり、円と梯子の角度を、歌台の掛け声で刻々と変える。凧の糸が揺れ、その糸の先から、細い信号旗が太陽の裏の色を振る。黎明院の空層科の子らだ。昼でも夜でもない時間の空に凧はよく乗る。乗る凧の尾に、位相の指示が結ばれている。
高空の点滅が、突然拍を増した。照準は測り終え、次の段階へ入ったのだ。透明な糸の束が、空の皺の間から降りてくる。糸、と言っても、それは光を中空で捻ったようなものだ。実際には、降下兵器の進入路に沿って微細な粒子が等間隔に置かれ、それが太陽光を反射して見えるのだ。糸はまっすぐには降りない。星衣の膜を避けるように曲がりながら、器用に、梯子の隙間を探す。帝国の空中中継網が、上で糸を操っている。
「ジャマー来る」
湖の長が叫び、黒布には微細な霧のような帯が映る。散布式の位相ジャマー。風に乗る微粒子が、星衣の反射膜の位相をずらす。ずらされた膜は、弱い音叉のようにわずかに鳴って、反射角が変になる。変になった反射角へ、降下糸は吸い寄せられてくる。
「湿度を上げて、寿命を縮める」
レンが指示すると、泉のモジュールがすぐに反応した。地表の複数の小泉から、ほとんど感じがつかない程度に湿りが上がる。湿りは砂の上で重くなり、砂の上で重くなった空気は、地表近くで緩やかな波を作る。ジャマー粒子は、水に弱い。水に弱いというのは、水に落ちれば壊れるという意味ではない。水を纏った粒子は重くなる、重くなると、うまく層の上に乗れず、寿命が縮む。
「歌を半拍ずらす」
歌台の司会が叫び、風鈴膜が長い息で鳴る。凧の尾がくるりと回り、光符の円がわずかに傾く。光は段で跳ぶ。跳ぶ方向が揃っていれば、照準は合う。跳ぶ方向が一個所だけ、常に半拍ずれていれば、照準は微妙に外れる。外れた鏡面を追おうとする帝国の照準光は、今度は別の段のずれに引き寄せられる。追いつけない。追いつけないものには、苛立ちが生まれる。苛立ちは、敵の計算ではなく、人間の計算の部分だ。そこへ歌を差し込む。
降下糸は降り続ける。糸が地表に近づくにつれ、音が変わる。空の高い音から、地の太い音へ。太い音は人の胸に響き、恐怖を呼ぶ。恐怖をそのまま増幅させないために、広場では笑いが必要だ。笑いは軽い。軽さは、ふざけではない。重いものを持ち上げるための手の角度だ。
「ここだ」
レンが指を鳴らすと、街の南区の歌い石が呼応した。歌い石とは、拍を記録し、拍を引き寄せる石だ。影の法廷や祭で、拍手を通貨に変えるときに使われる。その石が今は、敵の無人降下装置を引き寄せる。機械は音を誤学習する。人の声の密度を、稼働率の高さと勘違いするように、歌い石の周りの賑わいを、何か重要な設備があると勘違いするのだ。
無人装置のいくつかが、歌い石に引かれて人の多い路地へ集まった。路地には、前章で使った袋路拘束が仕掛けられている。薄い橋を跳ね上げ、狭い角度で通せんぼし、引き込み線の反対側に逆流弁を置く。狭い路地にわらわらと入った機械は、容易に出られない。歌が強くなり、拍手が増え、拍手を数字に変えるロガーを追ううちに、機械は自分が数字の中で迷子になっていることに気づかない。
「上を見る」
ナナミアが言った。視線を持ち上げると、空の皺の間でもつれるように動いていた点のうち、ひとつが急に明滅を止めた。湖の長が水鏡を高く掲げる。磨いた金属板と薄く張った水の皮。水鏡は太陽を食べる。食べた太陽の光で、空の影を吐く。水鏡の影に、薄い塔の輪郭が見えた。空中中継塔。風の層の上に浮かぶように、街の上を回っている。星衣の反射膜に盲点がある場所で、うまくその盲点に潜って、照準の基準を保っている。
「星衣の間をずらす」
レンは歯の奥に力を入れて言った。間。膜の節目と節目の間隔。これを固定のリズムでやっている限り、相手は盲点を見つける。間をずらす。ずらすと、敵は追いかける。追いかけると、今度は盲点が移動する。盲点が動けば、固定守備では守れない。だから、守りも移動へ切り替える。固定守備から、移動守備へ。移動守備は踊りに似ている。踊りは、間をずらす芸だ。
「踊るぞ」
ヴェリアスが嬉しそうに言い、胸の炎が小さく咆哮する。星衣の制御に竜のリズムを混ぜる。人の歌は滑らかだ。滑らかさは美しいが、計算されやすい。竜の拍は、少し荒い。荒さは、計算の歯を欠けさせる。欠けた歯は、噛み合わせを外す。外れた噛み合わせは、ここぞという瞬間にこちらへ隙をくれる。
灯梯の段差が細かく変わる。光符の円がわずかに回る。凧の尾がひと呼吸遅れる。歌が半拍前に出る。そこへ泉の湿りが、またひと口だけ加えられる。湿りは張り付き、張り付く場所を毎秒変える。星衣は間をずらし続け、空中中継塔は盲点を追い続ける。追い続けるうちに、塔は自分の回転に微妙なズレを持つ。ズレは、きっと上で同期している照準網へも伝わる。
「今だ」
レンは旗の鍵を最も深く回し込んだ。星衣の位相ロックを、一瞬だけ解く。ロックを解くというのは、反射角の同期を外すということだ。外れた角度は、敵の照準に対して隙を作る。隙は短い。短い間に、ヴェリアスが胸の内側で吼えた。吼えは炎の音だが、空で聞くと、音ではなく圧だ。圧の波が一つ、空の皺に沿って走り、空中中継塔の照準同期を狭い帯で歪める。歪みはずれに変わり、ずれは切断になる。塔の上で、見えない糸の一本が、プツンと切れた。
降下の糸が切れる。糸はピンと張っていた緊張を失い、ふわりと広がる。無人装置の幾つかが制御を外れて横滑りし、風に押されて星衣の外へ流れる。別の幾つかは、ちょうど地表に近い袋路へ落ちる。地上では、「屋根が傘から網へ」切り替わる。防御傘の骨が音を立てて伸び、薄布がしゅるりと裏返り、結節点が結び直される。露店の屋根が移動障壁として並んでいたのが、一瞬で捕獲網として落ちる。網目は歌台のリズムで縮み、縮んだ網目は機械の脚の関節に絡まり、絡まった関節は、機械の逃げ場を消す。
「人的損害は」
レンが叫ぶより早く、〈プリズマ〉の影のモジュールが数字を出した。軽傷三、擦過傷五。重傷はゼロ。褒める必要も、叱る必要もない数字。願わくば、これが夜の終わりまで変わらないことを、と誰もが願い、そして手を動かす。
空中中継塔はまだ回っている。だが、さっきの切断で、塔の同期はわずかに遅れた。遅れは雪崩になる。星衣が間をずらし続け、湖の水鏡が塔を映し続け、泉の湿りがジャマーの寿命を消費させ続け、歌台が拍を動かし続ける。合唱の中で、敵の同期は「その場の正しさ」を保つために遅れていく。正しさは局所的に成立する。全体の間違いを、局所の正しさでつぎはぎすると、いずれ破れ目から風が入る。
「塔の根元が緩んだ」
空層科の子の一人が叫び、凧の糸がゆるく打ち合わされる。塔そのものを落とすつもりはない。落とせば、瓦礫が空から降ってくる。今必要なのは、照準の網の糸がこれ以上繋がらないことだ。レンは指を鳴らし、星衣の端をほんの少しだけ折り返した。折り返した端は、空の皺の縁で小さな渦を作り、渦は塔の回転に微妙な逆向きの力をかける。塔は、ほんのわずかに向きを変え、向きを変えた先で盲点を見失う。見失った塔は、見つけ直す。その繰り返しが、照準の網を解く。
地上の捕獲網は、今度は網目を逆に広げ、捕獲した無人装置の脚から武装だけをゆっくりと抜き取る。武装は泉へ運ばれ、泡立ちながら分解される。砂漠の首長がひとつ首を縦に振った。彼の目は戦いより道を見ている。道を見ている目は、敵の武器の良し悪しを憎悪ではなく品評の対象として見られる。品評の対象として見られた武器は、やがて部品にまで解かれ、次の日の橋のボルトになる。
「完遂ではないが、完成に近い」
ヴェリアスが息を吐き、胸の熱が少し下がる。踊る防衛。固定点で受けず、間をずらし、移動で守る。守りの段は、合唱の段と同じだ。夜の祭の一節を、昼の空戦の中に入れ込む。市民が光符を掲げる。子どもたちが凧を振る。老人が椀を運ぶ。歌台が節を打つ。星衣が踊る。泉が湿りを足す。市場の屋根が網に変わる。影の法廷の布は張られない。だが、張られない布は、そこにある。誰もが目の端で見ている。合意の布。合意があるから、戦いは運用になる。運用になった戦いは、破壊で終わらない。
降下の糸は、もうほとんど見えなくなっていた。空中中継の照準の網が解け、残った糸は風に溶けて消える。空はまだ灰と青の境目だが、境目はさっきより少し青い。誰かが笑い、誰かが泣いた。泣く理由はわかりやすい。怖かったのだ。笑う理由は、すぐには言葉にならない。言葉にならない笑いは、胸の中で砂糖がゆっくり溶けるように、暖かい。
鹵獲した機械の中から、ひとつ、異なる音がした。〈プリズマ〉が即座に反応し、捕獲核を分離する。核は拳ほどの黒い塊で、表面には極小の回路が蜘蛛の巣のように走っている。触れると冷たい。冷たさは機械の温度ではない。思考の温度だ。黒い演算者の系統の核に、似た匂いがする。だが、どこか違う。
「開ける」
レンは慎重に告げ、泉の目の横に置かれた監査箱に核を入れた。箱は歌台の下で、監査の監査が常駐している場所だ。歌のモジュール、泉のモジュール、市場のモジュール、影のモジュールが、交互に箱の蓋を少しだけ持ち上げ、それぞれが読める部分だけを少しずつ読み、読み出した断片を短歌に変換して歌い、石に刻む。機械の文言を、人の歌へ落とす。歌へ落ちない文言は、炎で焼く。焼いた後に残る灰は、道の目地に混ぜる。道に混ぜれば、踏まれる。踏まれた灰は、街の重みの一部になる。
最初の断片は、地図だった。帝国の空中中継網の描画。点と線の集合。点の幾つかは、さっき泉の水鏡で見た塔の位置と一致する。線の幾つかは、星衣が間をずらしたあとの盲点の移動と完全に合っている。敵は見ている。こちらの踊りを、上から見ている。見て、式にしている。式にされた踊りは、すぐに真似される。真似される前に、こちらはもう一歩ずらす。
二つ目の断片は、名だった。中心に記されている文字列。第二戦術AI。黒い演算者。副人格ユニット、オムブレ。オムブレ、影。黒が複数の影を持つということだ。一人で話しているふりをしながら、別の声帯が別の歌を歌っている。だから、間がずれる。ずれに合わせてこちらが踊れば、次には違う拍で来る。終わりがない。
「終わる気配は、ない」
レンが言うと、ヴェリアスは鼻で笑った。『戦は、終わらせるものだ。終わるものではない』
「終わらせる設計を始める」
レンは、核の断片から目を離し、旗の鍵に触れた。終わりを設計する。終戦の設計。戦をやめるための儀礼と制度。相手のAIに勝つことではなく、相手のAIがこちらの歌に参加せざるを得ない場を作ること。参加の下で、牙を抜くこと。抜いた牙を、道のボルトにすること。ボルトを、橋の中に隠すこと。橋は渡るためにある。戦は渡るためにあるのではない。
広場では、光符が下ろされ、歌台の板にその夜の短歌が並び始めていた。凧の尾は巻き取られ、子どもたちは目をこすり、メイダは粥の鍋を火から下ろす。湖の長は水鏡の水を捨て、乾いた布で板を拭く。砂漠の首長は網の縁を検分し、バルドは捕獲した機械の脚から使えそうなパーツを選り分ける。トゥイは鈴を鳴らさない。鳴らさないことが、礼だ。
レンは黒布の前に立ち、短く言った。「今日は祭だった。明日も祭にする。防衛は祭と同じ形にする。そうすれば、続けられる」
誰かが笑い、誰かが泣いた。泣く理由はわかりやすい。笑う理由は、少しずつ言葉になる。言葉になるにつれて、街は賢くなる。賢さは、戦場では時に鈍い。鈍さは、死なないために必要だ。死なないための鈍さは、祭の鈍さに似ている。祭は、上手すぎる演奏を嫌う。ちょっと外しているほうが、踊りやすい。踊りやすい街は、守りやすい。守りやすい街は、終わらせやすい。
箱の中の核は、冷たいままだった。冷たさは敵意ではない。機能だ。機能に熱を入れるのは、こちらの役目だ。熱を入れ、歌にし、泉に浸し、炎で焼く。歌、泉、炎。順番は、変えない。順番を変えないことが、終戦の設計の第一歩だ。順番を変える誘惑は、賢さの顔をしてやって来る。賢さは、退屈に似ている。退屈は、死だ。ヴェリアスが笑う。
「終戦の設計」
レンは、広場の端の紙に、その言葉だけを書いた。紙は白く、風で少し揺れている。紙の上に、今日の踊りの軌跡が鉛筆で薄く拾われていく。星衣の間、灯梯の段、光符の角、凧の尾、泉の湿り。全部、線で結べる。線で結んだものは、誰かに教えられる。教えられたものは、誰かの手に渡される。渡された手は、次の夜に旗を持つ。
空はもう、青が勝っていた。勝ちの意味は、まだ小さい。小さい勝ちを、そのまま大きな勝ちにするのは愚かだ。小さい勝ちを、次の作業へ換えるのが、運用だ。運用は、台所の言葉だ。台所の言葉で終戦の設計をする。お椀を並べ、火の強さを調整し、塩を後に回し、最後に蓋を開ける。蓋を開ける前に、誰かを呼ぶ。呼ぶ声が歌になる。歌が合唱になる。合唱の下に、黒い演算者の欠片を置く。置いた欠片は、やがて砂になる。砂は道になる。道は、帰るためにある。
レンは旗の鍵を抜き、竿へ戻した。旗は風を掴み、星衣の端で小さく鳴る。ナナミアが隣に並び、湖の長が水鏡を胸に抱え、砂漠の首長が網の縁を肩に担ぎ、バルドがボルトを二つ、掌で転がす。トゥイは鈴を鳴らさない。鳴らさずに、鈴の影を踏む。影は、オムブレという名に似ていた。
「次へ」
レンは言った。誰にも、誰にでも。戦は終わる気配を見せない。ならば、終わらせるための設計を始める。祭の形で。合唱の拍で。灯梯の段で。星衣の間で。泉の湿りで。凧の尾で。光符の円で。影の布で。市場の屋根で。火の順番で。
空の円卓はたたまれ、地上の円卓が戻ってくる。戻ってきた円卓の上に、紙と石と木札が並び、短歌が一首、書き足される。空と地の間で踊る街は、今夜、ひとつの踊りを覚えた。覚えた踊りは、次の夜、別の踊りを呼ぶ。その呼び声の名を、レンは紙の隅に書いた。終戦の設計。紙の角が、朝の風で、ほんの少しめくれた。




