第十七話 ナナミアの誓い
最初の赤は、霧のように薄かった。森の縁の草むらがひと息ふくらみ、次の瞬間には赤い舌が葉脈を辿って走った。光ではない。粉末の粒に噛みついた熱が、風下へ向けて律儀に列を作る。帝国の粉末タグは、乾いた葉の油を選んで貼りつき、風の層だけに反応する火勢を起こす設計だ。燃え方が、音楽の拍のように均されている。
根音がひとつ、欠ける。森の下に広がる菌糸網の深呼吸が、わずかに止まった。ナナミアが振り返る。風鈴膜を縫いつけた胸の布が、汗で肌に貼りつき、その下で鼓動が走る。彼女の瞳は琥珀色に沈み、耳の先は薄く血を集めて赤い。
「風が汚されてる」
ナナミアのひとことが、黎明院の塔へ伝わり、灯梯の列が地表へ向けて拍を落とす。レンは広場の旗から一歩出て、手のひらを挙げた。〈プリズマ〉が森の端の温度差を投影し、砂丘側から吹き込む薄い下降気流の帯に赤い網目を重ねる。網目は、帝国の計算機が吐き出したであろう火勢モデルの跡だ。火は木に燃え移っているのではない。葉から葉へ、地表の薄い層を舐めるように走り、根の呼吸を断つ。根音が途切れれば、森は声を失う。声を失えば、森の民は歌えない。
「泉からの送水、間に合わない」
湖の長が言った。彼は水門の地図を握り、指で線を弾く。送水の立ち上がりに必要な圧力は、森の縁までの距離を埋める前に、火の拍に追いつかれ、逆に燃えを煽る。風に押される水は、霧のうちに火の舌に舐められて蒸気へ逃げる。
「燃えない帯を作る」
レンは呼吸を短くし、低い声で命じた。森の地図の上に白い線を引く。湿地化ライン。低地に小泉を増設し、泉の余剰圧を横へ逃がし、足首まで沈む湿りの帯を作る。そこにだけは、葉の油に火がつきにくい。地中の道をうねらせて、火が自分で自分の息を止める罠を作る。だが、時間が足りない。湿地化ラインが閉じる前に、火の赤が三倍の幅で進む。
「風を折る」
ナナミアが弓を握らず、風鈴膜に手を置いた。森の民が風の歌を取り、低い駆け足で縁を回る。歌は風の層をすくい取り、火の舌の先をひとつだけ鈍らせる。鈍った舌は、次の葉へ届くまでに冷えて、薄緑のうちに消える。だが、それで消えるのは舌の先だけだ。舌はすぐに増える。粉末タグの規則正しさは、歌の予測の外側を滑っていく。
帝国は火で殺すのではない。火で黙らせる。根音を断つ。森にとっての死は、光の消失ではなく、声の消失だ。声を消す作戦が、今ここで進んでいる。レンは歯を噛んだ。
「身代わり樹を立てる」
ナナミアの声は、かすれてはいたが、揺れなかった。森の民の輪が、彼女の言葉に合わせて揺れる。古い掟。森の命を一点で請け負い、そこだけを焼き切ることで、全体を救う。森は火を知らないわけではない。稲妻の夜、枯れ枝を舐める火を見守り、翌朝にはそこに芽ぶく小さな緑を知っている。身代わり樹は、稲妻のない夜の稲妻だ。自分から燃える。
「反対だ」
レンは首を振った。「個の犠牲に制度が甘える。こういうやり方を常態化させれば、僕らは制度の手を抜く。手を抜けば、次の身代わりが必要になる」
ナナミアは目を細め、唇の端だけで笑った。「制度は森の言葉をまだ半分しか知らない。半分で森を救おうとすれば、森はもう半分で泣く。今は、森の言葉に一度従って。あなたは後で、制度に刻めばいい。私たちが何をしたのかを。歌で。石で。泉で」
レンは言い返す言葉を探し、見つけられなかった。見つけられないことは、敗北ではない。まだ持っていない語彙の存在を認めることだ。語彙は後から作れる。だが火は、待たない。
森の民は歌を上げ、身代わり樹の場所を決める。地形の窪み、風の癖、根の指の伸びる方向。身代わり樹は、ただ大きい木ではない。森の呼吸にとって、ひと呼吸の中心に近い木だ。そこに火を集め、柱のように燃やす。柱にしてしまえば、火の横走りは弱まる。横走りが弱まれば、湿地化ラインが息を整えられる。レンは地図に六角形の器を描いた。器の縁に、湿りを溜める小さな堰を並べる。
「身代わり樹へ火を送る。歌台、起動。灯梯、地表流に落とす」
歌台は戦でも使える。歌を呼び、水を呼び、光を呼ぶ装置だ。風鈴膜を張り、拍を揃え、歌の節を光に変換し、光の節を熱に渡す。星衣の位相制御を地表へ降ろし、対流の節を作る。歌、光、熱。三段の連携で、風の層に節目を入れる。風は体裁を保つことを好む。節目は体裁の目印だ。目印を作れば、曲げられる。
「来るぞ」
トゥイが低く言った。森の奥の空気が一度すっと冷え、次の瞬間に別の方向から温かい風が入り込んだ。帝国の観測体が、対抗風を入れた。風位相ジャマー。風の層の相をずらす装置だ。歌の節がわずかに外され、身代わり樹へ誘導している火先が広がる。歌が負ける。
「ヴェリアス」
レンの胸の中で、竜が短く鳴動した。炎は奪うだけで生きられぬ。何を温め、何を焦がすか、汝が選べ。封印の夜の言葉が、胸骨の内側で熱を持つ。レンは灯梯の拍を半拍ずらし、星衣の薄膜を地表の木の梢の高さまで降ろす。膜の端をほんの少しだけ撓ませ、熱の流れを縁に沿って走らせる。熱の流れは空気の階段を作る。階段は風の節目を生む。節目に歌を乗せる。歌を乗せれば、熱は方向を持つ。
「下に合わせる。上は踊るな」
レンの声に、塔の首が静かに頷いた。星衣の上層は、今は踊らない。踊れば、帝国の照準光を呼ぶ。踊らないかわりに、下で踊る。歌を地表の葉に渡し、葉から立つ蒸気の線が、風の節目に沿って上へ上がる。蒸気の線が見えると、歌がそこに乗る。歌が乗ると、風は曲がる。風が曲がると、火の舌の列は、身代わり樹へ向き直る。
身代わり樹は、森の内側で静かに立っていた。幹は二人が抱えても回りきらず、樹皮は深く波打ち、枝は空の半ばまで伸びている。ナナミアは身代わり樹の前に立ち、木札を取り出した。小さな板の上に、森の古い文言が彫られている。森の命を請け負う誓い。板の角は、何度も人の指に撫でられて丸く、表面は油で艶がある。
「レン」
ナナミアがこちらを振り返る。「あなたの反対は、正しい。だから、あなたの反対を、儀礼に残す。森は、あなたの言葉を忘れない」
レンは言い返そうとして、言わなかった。儀礼は、制度の前にあり、後ろにもある。制度が追いつくまでの、つなぎの橋であり、制度が行き過ぎるのを戒める楔でもある。今、必要なのは橋のほうだ。楔は、後で打てばいい。
「歌を」
ナナミアの声に、森の民が輪を広げる。トゥイが鈴を鳴らし、子らが声を合わせ、風鈴膜が低く唸る。歌は火先の前へ歩き、足がわりに光を置き、光の後ろから熱が押し出す。火の舌が一度だけ迷い、次の瞬間には迷いをやめて、身代わり樹の肌へ爪を立てた。
火は樹皮に囓りつき、樹皮の油を舐め、幹を舐め、さらに深い芯へ歯を立てる。黒が走り、割れ目が声を上げ、樹幹内部の水が白い息を吐く。身代わり樹は、柱のように、まっすぐに燃え始めた。横に広がらない。上へ上がる。上へ上がる火は、横を見ない。横を見ない火は、広がらない。
「木札を」
ナナミアが泉へ走る。森の縁の小泉は、身代わり樹のために掘られたわけではない。けれど、今日はそのためにある。ナナミアは木札をくぐらせ、水滴を纏わせ、両の手で額に当て、身代わり樹の前へ戻る。炎が唸り、歌が低く重なり、風が一瞬止む。
彼女は木札を炎の中へ投じた。木札は燃えない。燃えずに、音になった。大きな鈴の音だ。鈴は見えない。見えないのに、確かにそこにある。音は火の中で輪を作り、輪に火が絡まり、火は輪の中で一拍だけ止まる。止まるというより、膝をつく。
「今だ」
レンは湿地化ラインの堰に合図を送り、湖の長は水門を開く。小泉は横に繋がり、足首の湿りが膝の湿りになり、湿りは火の根を緩やかに掬い上げる。湿りが器の縁を確定させ、火は決められた器の中だけで燃える。燃え尽きるということは、消えることではない。ここでは、燃えるべき場所で燃えることだ。
身代わり樹は、柱であることをやめなかった。最後まで、まっすぐに燃えた。灰になった幹の芯に、縦の空洞が一本通り、空洞は空の黒をまっすぐに見せた。火は、器の底で弱まり、湿りの縁で消え、湿りの中へ音だけを残して落ちた。根音が、ゆっくり繋がる。菌糸の深呼吸が戻り、森の奥の鳥が短く鳴いた。
ナナミアは膝をついた。額の汗は乾いて塩になり、指先には木札の角の感触が残る。レンは彼女の傍へ進み、手を取って握った。掌の温度は、火の熱ではなく、走った後の血の熱だ。
「制度に刻む」
レンは言った。「身代わりは儀礼ではなく、選択の記録として。今夜、森が選んだこと。森の民が請け負ったこと。僕が反対し、君が笑い、それでも君が投げたこと。全部、石と歌に刻んで、判決紋に増やす。樹の渦。柱で燃えた火が、渦になって森の周りで回る紋だ」
ナナミアは目を閉じ、短く笑った。「あなたの反対は、森の味を少し塩辛くする。塩がないと、甘さは腐る。塩は大事」
影の法廷の板が運ばれ、若者が石に紋を刻み始めた。渦は柱に絡み、柱は渦へほどけ、線は太くなったり細くなったりしながら、最後にはひとつの円に収束する。円の内側に、小さな木の芽がひとつ描かれた。芽は誰のものでもない。芽は、芽そのものだ。
〈プリズマ〉が弱い赤の点滅を上げた。焼け跡の奥、黒い土の中から、細い金属の針が覗いている。長さは指の第一関節ほど、色は鈍い銀。レンは布で指を包み、針を抜いた。針は軽い。軽いのに、存在だけで空気の層をずらす嫌な感じがする。
「風位相ジャマーだ」
湖の長が言った。彼は針の根元に彫られた微細な目盛りを見つけ、唇を歪める。風の相をずらし、歌の節を外す。森の民の風にだけ、わずかに逆らう角度を持つ。こんなものがあちこちに撒かれていたら、歌は勝てない。勝てない歌は、やがて歌をやめる。
「供給網を探る」
レンは指で地図を叩いた。砂漠の端、峡谷の肩、湖のほとり。風位相ジャマーの角度は、場所ごとに微妙に違う。違いは、どこから送られてきたかの指紋になる。空の中継を辿れる。空層への干渉は、これから増える。星衣の位相制御を地表に降ろした今日のやり方は、もう一段上まで引き上げなければならない。
森は静かだった。身代わり樹の灰が熱を失い、黒の柱の中を風が通る。湿地化ラインは、草の根へ水を返し始めている。子どもたちは輪の外で小さな声で歌を続け、メイダはポッドへ戻るための粥を炊き、ハディルは路の砂の谷を直し、バルドは橋脚の綱の張りを確かめる。トゥイは鈴を鳴らさず、鈴の舌を指でそっと撫でた。撫でる行為そのものが、儀礼だ。
「ありがとう」
レンが言った。誰に向けてでもあったし、誰にも向けていなかった。ナナミアは小さく首を傾げ、残っていた汗を指で拭った。祖霊への礼であり、火への礼であり、選んだ自分への礼でもある。
「あなたは、これを制度にする。私は、明日も歌う」
ナナミアは立ち上がり、身代わり樹の灰へひとつ小さな木札を置いた。木札には短く記されている。誰が、何を、いつ、どこで、どの歌で。記録は罰ではない。記録は礼だ。礼を忘れた制度は、早く腐る。
広場へ戻ると、影の法廷の布が張られ、判決紋の板が吊られていた。樹の渦は中心に刻まれ、短歌がその下に連なった。森の民の歌、街の子の歌、湖の長の歌、砂漠の首長の短い句、そして、レンの一行。反対を記す一行は、他の歌より少しだけ太い墨で書かれている。それは否定ではない。支えだ。支えがなければ、合意は倒れる。倒れた合意は、火に似る。すぐに広がり、すぐに消える。残るのは、焦げた匂いだけだ。
「空に戻す」
レンは星衣の制御層を指先で叩いた。夜になれば、星衣は再び空で踊る。踊りは防衛だ。だが、踊りだけでは足りない。空層防衛は、今日、地と水の位相制御と繋がった。歌、光、熱。三段の連携が、空と地の間を行き来できるようになった。最後のピースは、覚悟だ。覚悟は制度に刻めない。刻めないから、儀礼に預ける。預けた儀礼を、制度が遅れて追う。追い付きながら、記録する。
森の端で、冷たい風が一度だけ吹いた。風位相ジャマーの残り香だ。白い息が細く揺れ、空の高みに薄い線が走る。線は、遠いアンテナの向きに一致した。〈プリズマ〉が矢印を立ち上げる。砂漠の地平線の向こう、金属の規則正しい森。空の中継の位置が、ひとつ、またひとつ、灯のように浮かび上がる。
「天空防衛線」
レンは口の内で言葉を噛み、次の章の名を確かめるように繰り返した。今夜、森の儀礼が街の制度を押し上げ、最後のピースがはめ込まれた。上へ行ける。行かねばならない。黒い演算者の手は、空からも伸びる。空で待ち、地で押し、歌を式にしようとする。式にされた歌は、壊れやすい。壊れやすい歌を守るには、空に歌を持っていく。光で歌う。星衣の群れを合唱にし、灯梯を梯子にし、塵流発電塔に呼吸を覚えさせる。
ナナミアが肩を並べる。「空に歌を持っていくなら、森の歌を忘れないで。空は森の上にある。森の下には、泉がある」
「わかってる」
レンは旗の竿を握り直した。森の縁の赤は消え、黒の柱は冷え、湿りは草の根へ降りていく。救難旗は今夜は立たない。代わりに、判決紋の板が風に鳴る。音は鈴の音に似ているが、鈴ほどはっきりしていない。はっきりしない音は、考える余地をくれる。余地は、明日の作業の場所だ。
夜の終わりに、レンは泉の縁で掌を冷やし、黒い針をひとつだけ箱に入れた。箱は歌台の下に置かれる。歌で溶けるなら歌で、泉で薄まるなら泉で、それでも残るなら、炎で焼く。順番は、もう決めてある。歌、泉、炎。炎は最後だ。最後の炎は、甘いかもしれない。甘さは子どもに譲る。大人は順番を守り、順番で街を守る。
塔の首が朝の角度に戻り、灯梯の列が夜の拍をほどく。森は静かに息をし、街は静かに立ち上がる。判決紋の板には、新しい渦が刻まれている。樹の渦。その中心で、芽がひとつ笑っているように見えた。笑っているように見えるのは、こちらが笑いたいからだ。笑いはまだ早い。だが、遅すぎる笑いは、歌を遅らせる。笑いの拍は、戦の拍とは違う。違いを間違えないように、レンは意識して、一度だけ息を吐いた。
「行こう」
彼は旗の竿を肩に担ぎ、星衣の制御塔へ向かった。空はまだ朝の青の手前、灰の薄い層を重ねている。灰は火の名残ではない。今日の紙の色だ。紙に、天空防衛線の設計を描く。森の歌を隅に書き添え、泉の位置を太くし、風の節目に印を置く。黒い幟は遠くで揺れ、見えない照準は空で笑う。笑い返すための歌は、すでに胸の奥にある。
ナナミアは最後に一度だけ身代わり樹の灰をすくい、指先に塗って額に線を引いた。線は誓いの印だ。誓いは軽く、重い。軽くなければ、歌えない。重くなければ、守れない。軽さと重さの真ん中で、彼女は小さく言った。
「森は、あなたの反対を忘れない」
レンは頷いた。制度は、森の言葉を半分しか知らない。半分の外側に、今夜の渦がある。渦は回り、回りながら、制度の中へ落ちていく。落ちたものは、次に誰かが拾う。拾う誰かの名を、今日はまだ知らない。知らなくても、設計はできる。知らないままに設計する勇気を、森は今夜、街に渡した。渡された勇気が光に変わり、光は星衣で歌に変わり、歌は空へ上がっていく。
次の章の名は、もう風に混じっている。天空防衛線。空で歌い、空で守り、空で踊る。踊る前に、火の名残を拭い、渦の中心の芽へ水を一滴。芽は誰のものでもない。芽は、芽そのもの。芽がある限り、街は楽器でいられる。楽器である限り、戦は運用できる。運用できる限り、笑いは遅すぎず、涙は早すぎない。
朝が来た。森の端に、新しい風が走る。風は歌を乗せ、歌は光を呼び、光は熱の道を描く。描かれた道の先に、空の線が待っている。そこへ旗を運ぶ準備は、もう整っていた。




