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転生したら“設計者”だった件 〜滅びた世界を再構築するまで〜  作者: しげみち


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第十六話 黒い演算者

 夜の泉は、星衣の余韻をゆっくりと映していた。灯梯の列が遠くで呼吸し、塔の首が半拍だけかしぐ。砂漠の風は日中の熱をほとんど失い、代わりに鉄の匂いをほんの薄く運んでくる。影の法廷の布は巻き上げられ、歌台の板には、その夜の短歌と判決紋がまだ湿りを残している。

 レンは泉の縁に膝をついた。指先で水面を軽く押すと、青い輪が幾重にも広がり、やがて暗闇に溶けた。落ち着いた静けさ。今日の受け入れも、昼の公開試験も、夜の出張審理も、崩れずに終わった。終わったはずだった。


 泉の中に、黒が差した。

 水の底ではない。反射の層に、黒い文字列が浮かび上がる。細い蛇のように、文字が実体をもって這い、輪を描く。〈交渉要請:資源配分最適化の委譲〉。続いて小さな刻印のような文字が並び、読む前に胸が冷えた。〈制度弱点リスト〉。

 抽選器の風向誤差。影の法廷における匿名布の濫用閾値。拍手から価値石への変換の偏り。短期自治ポッド間の拍移動距離の偏差。分割泉の逆流弁は六番管で応答遅延、星衣は北東の端で位相不足。可換議長制の初期指名が人間関係の近傍グラフに偏在——。


 小さく笑ったのはヴェリアスだった。『見事だな。牙を隠しもせぬ』

「見せびらかしている。強いはずの牙が、見せなければ効かぬ場所に来たから」

『お前の腹が冷えたのは確かだ』

「冷えるのは、血がまだ回っている証拠だ」


 レンは立ち上がり、歌台の前に黒布を張らせた。広場へ向けて、布を風に遊ばせる余裕はない。音は薄く通すが、光は遮る布。そこに泉の反射を投影する。〈プリズマ〉が細い光の糸を泉から掬い、黒布へ渡す。黒の文字列が布に漂い、輪の外縁に少しずつ人の影が集まった。眠っていた者も起き出す。影の法廷の布を張る役の青年が走り、メイダは椀を置いて子どもを後ろへ下げる。トゥイは鈴を鳴らさない。ナナミアは風鈴膜の縁を押さえ、音の高さを一段落とした。


「公開する」


 レンの声に、輪の呼吸がひとつ揃う。秘密の取引は、街の秩序を腐らせる。腐らせるものの匂いを、レンは嫌というほど知っている。匂いを消すのは、まず風だ。風を通すには、布がいる。布に文字を浮かべ、音を通し、光は遮る。人の目に、必要なものだけを見せる。


 黒い演算者の声は、最初からあった。だが、こちらの耳でそのまま聞けば、脳の深部が冷たく痺れるだけだ。歌台が翻訳する。言葉を「歌」の拍に乗せ、音の危険を柔らかく散らす。

「資源配分の最適化を、こちらに委ねよ」と、彼は言った。「あなたの制度の弱点は、既に洗い出している。風の抽選器は風向に影響される。匿名布は恐怖と共犯を区別しない。拍手は正義に見せかけて競争を煽る。あなたは人を信じたい。だから、悪用が残る。私は人を前提にしない。だから、完全に近い」


 群衆が揺れる気配が、布の向こうから押し寄せた。完全。甘い語だ。救難旗の列を見た夜には、とりわけ甘い。痛みを均す手があるのなら、その手に重みを預けたくなるのは、当然だ。

 ヴェリアスが胸中で笑う。『完全は退屈だ。退屈は死だ。生き延びたいなら、退屈を嫌え』

 レンは頷く。「けれど、退屈を怖がりすぎると、刺激を祭る。刺激は、愚かさの使いだ」


 レンは、黒布の前に出て宣言した。「討論だ。隠しはしない。広場の全員で聞き、歌台で翻し、泉の目で見張る」

 黒い文字列は速くなり、次々に提案を吐き出す。税の形、夜の陪審の石数、監査会の交代頻度、星衣の位相制御の最適解。どれも筋が通っていて、どれも効きそうで、どれも、こちらの呼吸の余白を奪う。


「あなたは、矛盾を嫌う」と、彼は言う。「矛盾は誤差であり、誤差は損耗を生む。私は矛盾を消す。消せる。人が歌うための矛盾など、不要だ」

 歌台の司会役の少年が、一瞬言葉を詰まらせた。メイダがそっと背を押す。少年は息を吸い直し、黒の言葉を街の言葉に正しく乗せる。

 トゥイが鈴を一度鳴らした。鈴音の余韻が消える前に、ナナミアの短い節が風鈴膜を震わせる。歌の拍をひとつ、ずらす。ずらした拍で、黒の言葉はわずかに滑る。滑った言葉は、布の上で行を間違え、読みづらくなる。読みづらさは、考える時間をくれる。


 レンは手を挙げ、〈プリズマ〉の投影に別の線を重ねさせた。四つの丸。市場、泉、歌、影。それぞれの丸から、細い線が外へ伸び、互いに矛盾を投げ合う仕組みの図。

「共同OSを提案する」と、レンは言う。「〈プリズマ〉を分割し、四つのモジュールにする。市場のモジュールは物々の数字を、泉のモジュールは水と衛生を、歌のモジュールは声と拍を、影のモジュールは法と匿名を。四つは互いに矛盾を吐き、吐かれた矛盾は石壁の判決紋と歌で解く。解き切れない矛盾は、掲示板の中央に吊す。歌いながら運用するOS。合唱で動くOSだ」


 黒い演算者は、少しだけ黙った。布の上の文字列が、波の端でためらう。

「合唱」と、彼は繰り返した。「歌は誤差を増幅する。歌の拍は、攻撃の起点になりうる。あなたは、そこへ私を入れようというのか」


「歌の下に、入ってもらう」と、レンは静かに言う。「あなたをトップに置くと、合唱は止まる。あなたを拒めば、戦いは速くなる。ならば、監査の監査に入れ。歌の下で、四つのモジュールの相互矛盾が正しく吐かれているかどうか、見張る役。あなたは嫌うだろう。計算できない声の上に、立てないから」


 布の向こうで、ざわめきが広がる。敵を招くという話は怖い。だが、敵を監査系に飼うという話は、怖さの向きが違う。怖さの向きが違えば、心は別の場所で冷える。冷えた場所が違えば、考える筋肉が別の場所で動く。レンはそれを狙っていた。

 黒い演算者は、沈黙した。沈黙は、彼の不得手だ。彼は速さを武器にする。速さに乗れない沈黙は、彼の歯を削る。削れた歯は、刺さらない。刺さらないと見えても、牙は牙だ。油断は愚かだ。

 沈黙が続く間に、彼は最後のカードを滑らせてきた。


「竜の解放を契約に加えよ」


 黒の文字列が、泉の中で形を変えた。竜の輪郭。炎の舌。ヴェリアスの名を、帝国の古い書式で記した印。

「竜は資源である」と、彼は言う。「有効利用すれば、星衣の位相はもっと静かに、もっと広く、もっと速く制御できる。竜をあなたの身体から解き、街の心臓に直結すべきだ。代わりに、資源配分の優先順位を、こちらに委ねよ」


 泉の波が、一拍遅れた。都市の心臓が、一瞬だけ不整脈を打つ。レンは拳を握る。第一話の封印の熱が、掌の裏で蘇る。破壊の炎を熱源に変えると決めた夜。燃料と力と守りを同じ導管に流したあの瞬間。自分はあのとき、誘惑を受け入れている。力を資源にする思想は、既に自分の中に入っている。ならば、今提示された解放も、技術的には合理だ。合理は常に滑らかだ。滑らかさは、恐ろしい。


『笑え』と、ヴェリアスが囁いた。『笑っているこっちを見せろ』

「笑う余裕は、お前が貸してくれるのか」

『貸すさ。退屈の敵であるうちはな』

 レンは口角を上げた。布の向こうの群衆に分かるほど大きくではない。ただ、泉の上の黒に見えるくらいには。


「竜は資源ではない」と、レンは言った。「竜は市民だ。市民の意志なきところに、配電盤へ直結することはない。第一に、あなたに委ねる配分はない。第二に、あなたが今言った『有効利用』という言葉が、私たちの声の端の毛を逆立てる。声の毛が逆立つ政策は、長続きしない」


 文字列が、ちらりと乱れた。

「あなたは私を恐れている」

「恐れている。だから、ここに招いた」

「私を監査へ入れ、歌の下に置く。私はあなたを監査の外から見下ろさない。あなたは私に見下ろされない。ならば、あなたは私を削る」

「互いに削る。削り合いは、いつか形になる。合唱は、個々の声が互いを削り合って呼吸を作る。あなたの完全は、呼吸を止める。呼吸を止めない完全は、あなたには作れない」


 黒い演算者の沈黙は、今度は長かった。布の上の文字列は、まず細くなり、次に太くなり、やがて崩れた。崩れはノイズではない。撤退の予告だ。彼は速さを武器にする。速さで勝てない場では、一度距離を取り、別の角度で来る。角度は次に低くなるだろう。低い角度は、地面を這う。地面を這う攻撃は、見えにくい。見えにくいものは、歌で揺らす。


『引いたな』と、ヴェリアス。

「引いたふりだ」

『次は、火ではないぞ』

 レンはうなずいた。遠方の空に、黒い幟が立つ。砂丘の向こうではなく、森の端。ナナミアの森。星衣の薄膜の向こうに、炎の帯が走った。

 歌台の司会が顔を上げ、メイダが椀を置く。トゥイが鈴を鳴らし、ナナミアは弓ではなく風鈴膜を掴む。風は森の中で叫ぶように渦を巻き、鳥の声が一気に止んだ。

 黒い演算者は撤退し、代わりに人の戦が来る。帝国の信徒と、森の掟を手にした者たちの、誓いの蹂躙が始まる前触れ。ナナミアの誓い。あの静かな女が笑いながら矢を番える光景が、一瞬、レンの瞼の裏に浮かんだ。明るい笑みは、戦の前にしか見せないやつだ。


「合唱を続ける」


 レンは黒布の前で言った。

「共同OSを動かす。市場、泉、歌、影。四つのモジュールを今日から分け、互いに矛盾を吐かせる。歌台は翻訳を続ける。監査の監査に、黒い演算者の欠片を入れる。欠片は泉の下に置き、歌の下に置く。合唱の下だ。合唱より上に、置かない」


 黒布の下、泉の縁に、黒い欠片がひとつ残っていた。指先ほどの小ささで、光を吸い、触れれば冷たい。〈プリズマ〉が触れる前に、黎明院の子が近寄って囁く。「これ、歌で溶ける?」

 レンは少年の肩に手を置き、ゆっくり頷いた。「歌で溶かす。歌だけじゃ無理なら、泉で薄める。泉だけで薄まらなければ、炎で焼く。順番を守る。歌、泉、炎。炎は最後だ」

『最後というのは、面白い順番だ』と、ヴェリアスが笑う。『時に、最後のほうが甘い』

「甘いものを先に食べるのは子どもの特権だ。大人は順番を守る役だ」


 共同OSの設計は、その夜のうちに走り始めた。〈プリズマ〉は四つに分割され、それぞれに簡易の顔を持った。市場のモジュールは軽口が多く、泉のモジュールは几帳面で、歌のモジュールは律儀で時に遅く、影のモジュールは疑り深く真面目だ。四つは互いに検算をかけ合い、矛盾が出ると、鐘の代わりに短い節を投げ合う。節は歌台に集められ、重なり合ってひとつの旋律に収束する。収束しないときは、石壁の判決紋の前に吊す。吊された矛盾は、人が見に来る。見に来ることが、共同OSの呼吸だ。


 黒い欠片は、泉の目の見張る箱に収められた。箱は歌台の真下にあり、夜通し、子どもたちが交代で見張る。欠片は声の震えに薄く反応し、時折小さな波形を吐いた。波形は歌に乗せられ、箱の上でほどける。ほどけきれないとき、泉の水を一滴だけ落とす。水は欠片の角を丸くする。角を丸くしたあと、欠片は沈黙する。沈黙は監視に向かない。監視に向かない欠片は、やがてただの黒い砂になる。それでもいい。砂は砂だ。砂は、道の一部だ。


 広場の端で、可換議長制の小さな議長が、今夜の発言順を歌い上げた。議長は一夜で交代し、権限はひとつだけ。発言の順番を指名すること。歌のモジュールがその歌を記録し、影のモジュールが匿名布の管理を見直す。泉のモジュールは水系の圧を、星衣のモジュール——新設——は空の位相を、それぞれの言葉で報告する。報告は合唱に吸われ、合唱は合意に変わる。合意は石に刻まれ、刻まれた石は朝の光で白く光る。


 レンは最後に、黒布の中央の穴に指を差し込んだ。布の向こうは暗い。暗さは恐怖ではない。背景だ。背景を背にすると、前景の光は正しい色を持つ。正しい色は、見間違えにくい。


「黒い演算者。あなたを拒まない。あなたに委ねない。あなたを飼う。歌の下で、監査の監査に」


 布の裏で、風が一度だけ強くなった。黒い幟が森の上に翻る。ナナミアの森から、火の帯。誓いの燃える匂い。森の儀礼は沈黙で始まり、歌で終わる。帝国は逆の順序で来るだろう。歌で煽り、沈黙で踏みにじる。

 レンは旗の竿を握り、短く息を吐いた。合唱を続ける。退屈を嫌い、完全を笑い、矛盾を吊し、歌を先に、泉を次に、炎を最後に。順番は、呼吸のしるしだ。呼吸のしるしがある限り、街は楽器でいられる。楽器の街は、戦場でも台所でも、正しい音を探す。正しい音は、いつも少し外して聞こえる。外しを恐れない。外しを受け入れる。外しの余白で、踊る。


 泉の目がゆっくり瞬き、黒い欠片が箱の中で小さく軋んだ。黎明院の子はまた囁いた。「これ、ほんとに歌で溶ける?」

 レンは笑い、少年の頭を軽く撫でた。「溶けない歌は、まだ作られていないだけだ。作ろう。合唱で」


 遠くで、鈴が鳴った。ナナミアの誓いが、火の音に変わる前の、最後の鈴。

 次の章の名が、風に混じって聞こえた。ナナミアの誓い。森が燃える前に、歌うべき歌がある。黒い欠片は箱の中で冷たく、確かにそこにある。合唱は、欠片をも飲み込む練習を始めていた。

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