第十五話 亡命と難民
最初の旗は、朝の砂風に舞いながら折れた。白布の端に薄い赤。救難の印。続いて二本、三本。風で位置の上下がばらけ、その下に続く列は、はじめは点の連なりのようにしか見えなかったのに、近づくほど、人になった。年寄りの背に掛けられた空の水袋、肩に眠る幼子、靴底の剥がれた青年、指先に包帯を巻いた女。皆、砂を飲んだ目をしている。帝国治安区からの亡命。押し出され、追い立てられ、看板を外された者たち。
灯梯の列が砂丘の肩に触れ、光が一段だけ低く深くなる。迎えるための拍子。泉の前に案内された最初の十組は、深く頭を下げる余裕もなく、まず水を見た。水を見る目は、いつだってまっすぐだ。中には、泉に跳び込まんばかりに身を乗り出す者もいる。メイダが先にひと椀すくって自分で飲み、口角を緩め、次に子らへ渡す。レンは旗の根元に立ち、〈プリズマ〉に目をやった。青い波形は安定だが、赤い点がひとつ、ふたつ増えていく。行列が泉の前で折れ、価値石の配布の列が絡まる。夜になれば、きっと荒れる。夜は、空腹の言葉を大きくする。
「境界を動かそう」
レンは短く言い、星衣の端を昼のうちにほんの少しだけ緩めた。境界は線ではない。呼吸する面だ。呼吸する面なら、動く。都市の外縁に移動式の分割泉を展開する。工房の若者と黎明院の空層科が整備しておいた折りたたみ式のろ過塔と小型の逆流弁、そして歌台。旗の外側に、点々と、小さな泉の群れを置く。短期自治ポッド。大きな天幕の輪が三つ、四つと立ち上がり、真ん中に小泉、片側に歌台、もう一方に木札と価値石の交換所。ポッドの周りに、砂除けの布が低く張られる。
「到着順ではなく、共作順で内側へ」
レンの声は硬くはないが、甘くもしない。ポッドの入り口で、黎明院の子どもたちが簡潔な説明をくり返す。ポッドで必要な仕事の札が並ぶ。飲料水の当番、灯の芯切り、子どもの見守り、熾の管理、歌台の司会、夜の見回り、パン焼きの火力監督。最初の印は、誰でも押せる。二つめからは、隣の者の拍手がいる。拍手はロガーに吸われ、その夜の価値石に換算される。拍手の総量だけではなく、拍手の往復回数が加点される。交換は泉の国の言葉。誰もがその言葉を覚えるように、木札の裏に短い歌も刻んである。歌いながら、石を渡す。
「黎明院は短期講だ。三日で回す」
レンが言うと、メイダがうなずき、黒板の代わりの板に簡単な授業の計を描く。ミニ監査会の基礎。可換議長制のやり方。夜の陪審用の納得度石の扱い。歌台の運営。食中毒の初期対応。文字が苦手な者のために、図と色で段取を示す。森の長トゥイは儀礼の短い句を手渡し、ナナミアは歌台に風鈴膜を張って音の高さを子どもに合わせる。砂漠の首長ハディルは路に小さなくぼみをつくる。砂防の癖がある道は、人を迷わせない。湖の長は小泉の水位の印を調整する。水は優しいが、甘くない。甘くないから、秩序が混ざる。
境界を動かすことに、街の内側は安堵した。泉の前から列が消え、価値石の札がほどける。だが、安心の隙間に、別の声が割り込む。
「外の者が先に石を得ている」
夜の市場の角で、若い声が上がる。足に泥をつけた青年が、パンの籠を指差す。配布の重さに微妙な差が出たのかもしれない。焼きむらができたのかもしれない。声はすぐに広がり、危うい角度を持ち始める。恥の連鎖の匂いがする。レンが動こうとしたとき、メイダが前に出た。
「公開試験をしよう」
メイダの提案は簡単で、美しかった。パンの重さの公開試験。ポッドのパン焼き台で焼いたパンと、街の窯で焼いたパンを、広場の台に置く。秤は、黎明院の木工班がこの日のために磨いたものを使う。重さだけではない。焼きむら、気泡の入り、皮の張り、塩の回り。評価の項目を石板に刻み、誰でも見えるようにする。評価は数値にせず、拍手の量で記録する。拍手の量は翌朝の価値石に変換され、変換の係数はその夜だけ、焼きむらの少なさで補正される。
「焼き手、こちらへ」
メイダが呼ぶと、ポッドから来た二人が前に進む。一人は小さな腕で大きな捏ね鉢を抱え、もう一人は顔に灰をつけたままの女だ。顔に疲れはあるが、目が死んでいない。メイダは彼らに台所の癖を言葉にしてもらう。火を起こすとき、薪の枝をどう組むか。捏ねた生地をどう休ませるか。窯の中でパンの位置をどれくらい入れ替えるか。彼らは話す。砂漠の風に対する火の背の付け方、湖の湿りに対する塩の握り方、森から持ってきた香草の扱い。話すうちに、見学の子どもたちが近づき、パンの皮が膨らむ音を聞き、指先で表面を撫で、熱の底を覚える。
秤の針が揺れる。最初は街の窯のパンのほうが重い。次の皿で、差が縮む。三皿目で、逆転した。焼きむらが減り、気泡の入る位置が揃ってきた。ポッドの焼き手は、街の窯の火の癖を三時間で学んだ。焼きむらは、数ではない。火の記憶だ。記憶は、歌うことで早く伝わる。歌台の子が短い節を歌い、パンの移動の拍子を合わせる。拍子が合うと、皮が鳴る。皮が鳴ると、匂いが立つ。匂いが立つと、拍手が増える。拍手→石のロガーは、拍の往復を増やし、翌朝、価値石が全体として増えたことを、誰の目にも見える形で示した。
「受け入れるほど、増える」
レンが声に出すと、輪の中の空気がゆっくり温まった。外の者が石を得ることへの棘は、まだ完全には溶けない。だが、喉の奥に引っかかる刺は、少し丸くなる。丸くなると、飲み込める。飲み込めれば、次の仕事ができる。
短期自治ポッドはその夜から、音を持ちはじめた。歌台の司会は、毎夜違う者がつとめる。拍手の変換ルールは、歌台の脇に置かれた小さな札で毎夜更新される。偏りは儀礼で薄める。拍手の偏りは、異なる分野にしか投じられないルールで調整される。夜の陪審は、影の法廷の簡易版が出張し、匿名布と逆匿名の選択を持ち込み、納得度石を十個配る。監査の監査は、風の抽選器の縮小版を用いて人選され、議長の権限は発言順の指名のみ。一夜の儀式を重ねることで、朝に紙が貼られ、昼に石が動き、夕方に灯が点く。呼吸の設計を、ポッドに移植する。
しかし、呼吸を覚える前に、咳は起きる。ポッドのひとつで、帝国の工作員が見つかった。歌台の拍手→価値石の変換ルールを逆手にとり、特定の者の発言に拍手を集めるよう煽り、拍の偏りで価値石を一点に寄せる。拍手の密度が、まるで砂金を洗うように、一つの皿に流れていく。夜の終わりに彼らの袋が膨らみ、ポッドの外側で小さな計画が始まる。ポッドを内側へ動かす順番を買えるかもしれない。買えれば、次を買える。連鎖はいつだって短い。
レンは影の法廷を出張させた。歌台の横に匿名布が張られ、鎖の地図の縮図が敷かれる。今回は瓶の中を追うのではない。拍手の履歴を追う。ロガーが吐き出した流路図は、数字の線ではなく、音の濃淡で描かれた。拍手の波は、夜のうちに街の端から端へ走る。通常の発表では、音は山の形をとる。山の裾は幅広く、頂は細い。だが、その夜の波は、途中で不自然に谷を持っていた。谷は拍手の空洞。拍が集まりすぎると、その隣に拍が吸い込まれない「無風地帯」ができる。無風は儀礼では起きにくい。起きにくいものが起きたなら、理由がある。
「拍手の空洞は工作の跡だ」
ナナミアが囁き、トゥイが鈴を一度だけ鳴らした。その音で、石の札が動く。逆証言のタイムが開かれ、二人の名が匿名布の向こうから出る。彼らは拍手の空洞の端にいた。煽りの言葉は短かった。子と女と老人。三つの言葉を、順番にぶつけている。情の言葉で数字を動かし、数字で情を焼く。〈プリズマ〉は空洞の縁の時間を示し、歌台はその時刻に読まれた詩を呼び出し、詩の中の掛け言葉を光の筆でなぞる。重なる。重なると、線になる。線は指に触れる。
レンは判決を二層に分けた。一次は個人。彼らは価値石の集積を認め、夜の陪審は納得度石七で補助判定を出した。工作の報いは、泉の掃除と橋脚の工事へ回す。歌台に戻る権利は消えない。歌台の権利を消せば、歌が武器だけになってしまう。二次は構造。拍手→石変換ロガーに、往復係数だけでなく、「拍の移動距離」の項目を加える。遠く離れた者同士の拍の交換は、加点。狭い輪の中での拍の往復は、減点。拍は輪を太らせるためにある。細い縄に巻きつくためにあるのではない。
判決は短歌と紋に翻訳された。歌台の上でメイダが短く詠み、若者が石に螺旋の紋を刻む。螺旋は輪を細めず、広げるためにある。広がる螺旋は、拍を外へ押し出す。押し出された拍は、戻ってくる。戻ってくる拍は、強い。強い拍は、悪意に捕まりにくい。
ポッドの夜はそれで少し落ち着いた。パンの焼ける匂いに塩が混じり、灯の芯は短めに整えられ、子らの泣き声は歌の裏で薄くなる。だが、広場の旗の前に立つレンの目は、空を離れない。空の薄膜の彼方で、一瞬だけ黒が押し広がった気がした。抜き取った無人観測車の欠片が教えた名。黒い演算者。群れの顔。彼はきっと、人の拍手を武器にする。拍手は温かい。温かいものは、掬いやすい。
黎明深く、塔の影で耳鳴りがした。〈プリズマ〉が誰にも聞こえない声で薄く告げる。観測体、群衆操作アルゴリズム取得。誰かが外で、こちらの歌を式にしている。式にされた歌は、冷たくなる。冷たい歌に負けないために、こちらは台所を温める。温めた台所で、制度を煮る。煮詰めすぎないように、蓋を少しずらす。湯気は星衣の裏で薄く消え、朝の風に混じる。風は歌台を撫で、石は黙って受け止め、数字は翌朝の紙になる。
その朝、レンは短期自治ポッドの地図の前に立ち、境界の塗りつぶしを一段外へずらした。動かすたびに、街は疲れる。疲れるから、歌がいる。歌があるから、疲れは儀礼に変わる。儀礼に変わるから、明日も動かせる。境界は線ではなく面。面は動く。動く面が息をしている限り、受け入れることは、壊すことではない。壊さずに受け入れることは、作ることだ。
メイダがパンの粉袋を肩に担ぎ直し、ナナミアが風鈴膜のほつれを縫い、バルドが橋脚の綱の張りを確かめ、トゥイが鈴を一度だけ鳴らした。ハディルは砂の小さな谷を作り、湖の長は小泉の水面に黒い印を置いた。子どもたちは歌台の前で拍の練習をし、可換議長制の小さな議長はその日の順番を噛みしめるように読み上げた。ポッドの監査会は二夜目から自然に軽口を覚え、重い話を軽い声で、軽い話を重い声でしない術を学んだ。声の重さは、石の重さと同じだ。重いと沈む。沈みすぎると、底で声が腐る。腐らせないために、歌がある。
広場の片隅で、影の法廷の布が風に揺れた。匿名布は声を守り、逆匿名は声の誇りを守る。納得度石は、夜のうちに人差し指の体温を吸い、朝に冷える。冷えた石は、昼に貼られる紙の上で光る。光る石は、誰のものでもない。誰のものでもない石が、街を守る。守りながら、受け入れる。受け入れながら、作る。作りながら、歌う。歌いながら、見せる。見せながら、ずらす。ずらしながら、呼吸する。
レンは旗の竿を握り、低く呟いた。
「慈悲は、制度に翻訳しよう」
翻訳してはじめて、続けられる。翻訳しない慈悲は、燃え尽きる。燃え尽きると、恥が残る。恥が残ると、歌が濁る。濁った歌に、黒い演算者は拍手を被せてくるだろう。拍手は熱を持つ。熱は燃料だ。燃料を奪われないように、拍の変換を街の手に戻す。泉の目が一度、はっきりと瞬き、星衣の端が昼の白の中で目に見えないほど薄く揺れた。
夜、塔の影で、耳鳴りがまたひとつ。〈観測体〉の声が、数字に冷たい笑いを混ぜる。群衆操作アルゴリズム、取得。こちらの歌は、すでに誰かの式の一部だ。式にされても、歌は歌だ。歌を式に返してやればいい。式の通りには歌わない拍を、ひとつだけ混ぜる。混ぜた拍が、黒い演算者の舌を噛ませる。噛ませてから、踊る。踊る前に、鍋の蓋を少しずらす。湯気は出しすぎない。
砂丘の外側の短期自治ポッドで、子どもが歌う。歌は短く、軽く、そして強い。拍手が波になり、波がロガーに吸い込まれ、石に変わる。石は朝に光り、夜に黙る。黙ることは、弱さではない。準備だ。準備の夜が明けるころ、遠い空の薄膜で、一瞬だけ、黒が笑った気がした。笑い返すには、拍をひとつ増やせばいい。
次の章の名は、もう決まっている。黒い演算者。彼がくる。来る前に、こちらの呼吸を一段深くする。境界を動かし、短期自治ポッドをひとつ増やし、歌台の拍を半拍ずらす。拍をずらすことに、街はもう慣れている。慣れは油断ではない。慣れは準備だ。準備がある街は、壊れにくい。受け入れるほど、壊れにくくなる。壊れないことは、歌の続きが歌えるということだ。
レンは泉の縁に手を置き、冷たさで掌の熱を落とした。掌が静かになったところで、空を見上げる。星衣は昼には見えない。見えないが、そこにある。あるものは、守れる。守りながら、受け入れる。受け入れながら、戦う。戦いながら、作る。作りながら、笑う。笑いながら、泣く。泣きながら、歌う。歌いながら、呼吸する。呼吸の次の拍で、彼を迎える準備を、街は静かに、しかし確かに整えはじめていた。




