第10話 影の法廷・後編――監査を監査する装置
夜ごと、泉の北の裏広場に薄布が揺れる。影の法廷はラキアの事件を境に、輪の中へ静かに根を伸ばした。鎖の地図は細い光の線を重ね、接触の履歴を三層で示す。布の奥で震える舌は、椀の湯気に守られ、焼かれた木札の灰は泉の目へ沈む。小さな紛争は持ち込まれ、夜の陪審は石を置き、過半のうなずきが合意の温度として残った。納得が輪を温める。だが同時に、別の温度差が生まれはじめる。
レンが決めた。
誰かが囁く。あれもこれも、最後はレンが言った。
輪の外縁、屋台の脚の影や、井戸端の石の継ぎ目、切り株の席の裏側に、そうした言葉は薄く溜まり、朝には乾き、昼にはまた湿る。成果と責を同じ皿に載せるのは、人の癖だ。影の法廷が機能するほど、裁定の影は一人に寄る。私法廷、という短い言葉が、夜警の一派の舌に乗るのを、レンは聞いた。
夜の終わり、旗の陰で深く息を吐く。
裁く仕組みが動けば動くほど、仕組みを動かす手の所在は問われる。
円卓は偏らないためにある。ならば、ここも偏らせない。
レンは、腹の奥でひとつ答えを決めた。自分の権限を外へ出す。退場の設計は、統治の半分だ。
翌朝、黎明院の黒板の前に立ったレンは、白墨で短く書いた。
市民監査会。抽選。七名。三日交代。
議長は毎夜くじ。議長権限はひとつだけ。発言順の指名のみ。
布の下の声は守る。逆匿名も用意する。明かしたい者は、自分で明かせる。証言の所有権を、証言者に戻す。
ざわめきが走る。メイダは板書を写し、トゥイは目を細め、バルドが鎚の頭で石畳を軽く叩いた。
「抽選は〈プリズマ〉ではやらない」
レンは言い添えた。
乱数。これも人の舌に疑いを残す。画面の中の偶然では、腹は満たせない。ならば、物理の偶然を使う。水と風を、ここでも借りる。黎明院の子どもたちと職人を呼び、泉の縁に机を運ばせた。風と滴りの抽選器、作るぞ、と宣言する。
昼までに、第一号の骨が立ち上がった。泉の流れを受ける小さな羽根車、その上に浅い皿。皿の縁に石粒の道が螺旋に刻まれ、羽根車が回るたび、道の途中の小穴から石粒がひとつだけ落ちる。石粒は透明の管を滑り、市民番号の目盛りの上を跳ねながら、最後にひとつの枡におさまる。七つおさまるまで、回す。七つの枡が埋まれば、その夜の監査会の顔が揃う。
子どもらが目を輝かせ、砂漠の隊商長ハディルは腕を組んで見上げた。
風が止まれば、抽選は止まる。止まるなら止まったでよい。抽選は夜の見せ場だ。止まるなら、皆で息を吹けばいい。森の民の子が歌を添え、トゥイの鈴が拍を置く。歌の節で羽根は回り、石粒はぽとり、ぽとりと落ちる。
「議長は毎夜くじ。議長の権限はひとつだけ。発言順の指名」
レンは繰り返し、黒板の端に丸を描いた。丸は可換。順番を巡る椅子取りは、椅子の形がすり減るほど繰り返してよい。だが椅子そのものに背は生えない。議長の椅子は、毎夜形を変え、また元の板に戻る。
夜、影の法廷の布の向こうに、新しい座ができた。七名。抽選器の皿の色の順に席を決める。最初の議長は、泉に近い席に座った年配の女に当たった。彼女が初めて言ったのは、発言順の指名ではなく、椀の配り順だった。笑いが起き、緊張がほどけ、石の音が柔らかくなった。椀の順は、発言順ほど権力の影を落とさない。だが、舌は腹から動く。椀は順番を支える。
最初の夜の監査は、影の法廷の記録の扱いから始まった。〈プリズマ〉は便利だ。だが便利は往々にして、危うさを隠す。停電、撹乱、電磁の波。鉄の太鼓が近づくほど、機械の記憶に砂が入る。
議長の女は発言順を指で示し、若い職人が少し緊張した声で提案した。判決を短歌にしませんか、と。
歌う記録。夜毎に広場で歌い、壁に彫る。機械、歌、石。三重の記録。図象と短い節は、輪の外でも伝わる。耳と目と指に渡る。
レンはうなずいた。脳裏に、セフィロの鈴が鳴る。均衡を急ぐな。だが、これは急いでよい偏りだ。記憶は機械に偏らせてはならない。覚える装置は、人の全身に分配すべきだ。
判決短歌の最初の節は、メイダが作った。
水の底 鎖の矢印 揺れてなお
焼けた木札の 灰は目に返る
バルドが図象の下書きを石壁に描き、若者が螺旋の紋に沿って刻み始める。判決紋。影の法廷の夜ごとの合意は、石の腹に薄い渦となって残る。渦は輪の中心からほどけ、外へ伸び、やがて泉の縁に触れて止まる。歌が終わるたび、渦は一段だけ増える。目盛りのようでもあり、年輪のようでもある。
監査会の二夜目、抽選器の前で、工房の若者が手を挙げた。
落ちる石粒の順が、やや偏っている。軽い石が上に集まりやすい。羽根の向きと風の方向に依る。泉の流れは日の加減でわずかに強弱があり、夜の涼しさは羽根の端の露を偏らせる。悪意ではない。だが制度は物理に従う。偏りはやがて、舌の偏りに繋がる。
レンは抽選器の前に立ち、皿の縁を指でなぞった。
風だけでは足りない。偶然を合成する。
翌日までに、第二の抽選器が隣に立った。滴下式。泉から細い管を引き、一定ではない滴りを小さな石盆に落とす。石盆の下には弾性の薄板。滴が溜まると板は撓み、閾値を越えると、ひと粒だけ石が弾き出される。
風車式と滴下式を直列に繋ぎ、二段の偶然を合成する。どちらかに偏りが生じても、もう一方の気まぐれが偏りを打ち消す。抽選そのものが夜の見せ場になった。子どもが歌い、年寄りが鈴を鳴らし、ハディルが腕を組み、トゥイが頷く。見えにくい公平は、見える儀式になって、腹に落ちた。
三夜目、監査会は初めて「レンの誤り」に手を伸ばした。
影の法廷の記録は、〈プリズマ〉の中にきれいに積み上がる。だが、停電すれば、誰の目にも届かない。撹乱されれば、矢印は別の方向へ向く。鉄帝の波は近い。
議長が指で示した先、若い手が挙がる。短歌と図象は機械の外に置かれる。歌は広場に、石は壁に。だが、もうひとつ。判決を覚えるのは歌い手だけではない。聞き手の舌に残す工夫がいる。
逆匿名の札が持ち上がった。証言者が自ら名を明かしたいとき、明かす。隠したいとき、隠す。証言の所有権は証言者にある。名を自分で選ぶことは、記憶の持ち主を自分に戻すことだ。名前は覚えられやすい。忘れられにくい。名乗る名の数は、広場の空気の温度でもある。
レンは、低く、しかしはっきり言った。
受け入れる。議長の権限は一つだけだが、監査会の舌は七つある。七つの舌が同じ方向を舐めたとき、石は柔らかくなる。
その夜の刻みは、いつもより力強かった。若者の腕に筋が立ち、石粉が白く舞い、歌の節が輪の外へこぼれる。螺旋の判決紋は、これまでより一段だけ太く、泉の縁に近づいて止まった。
水の底 裁つ手は布の 外へ出て
歌と石とで 夜を明日に渡す
歌い終わると、泉の目が一度だけ瞬いた。
〈World Architect:監査会モジュール/稼働〉
〈可換議長制:有効〉
〈抽選器:二段合成/偏差補正〉
〈記録層:機械+歌+石〉
UIは必要なだけを告げ、すぐに沈む。数字は影であればいい。光は歌と石に任せる。
四夜目。雨が少し降った。風車式は回り過ぎ、滴下式は滴らなかった。抽選は一度止まり、子どもたちが息を揃えて吹いた。羽根はゆっくり動き、皿の縁から石粒が落ちる。歌の節を少し変え、滴りの代わりに鈴の音を挟む。儀式は雨の中でも形を崩さない。儀式があるから、制度は雨に濡れても崩れない。
五夜目の審理は小さかった。市場の二軒の言い争い。秤の皿のわずかな違い。だが、その小ささこそが、監査会の価値を照らした。大きな裁きにだけ光が集まるとき、影は小さな穴から忍び込む。可換議長制は、議長の顔に光を集中させない。七つの舌は交代で喋り、七つの耳は交代で聞く。
議長が最後に指名したのは、自分だった。彼女は自分の番が来るまで一度も話さず、ただ椀を配り続け、最後に一言だけ言った。
秤が水平だと信じるために、歌おう。
秤は水平であるより先に、水平だと信じられる必要がある。信の足場は、歌と儀式で作る。レンは内心で舌を巻いた。自分の設計に抜けていた一枚が、今の一言で補われた。
六夜目の終わり、ハディルが抽選器の前で立ち止まり、石盆に手をかざした。砂漠の民の手は、風の温度を測る。
公平は技術だ、と彼は言った。砂漠では風と星が公平を決める。ここでは水と歌が決める。どちらも祈りだけでは手に入らない。装置がいる。儀式がいる。
トゥイが鈴を鳴らし、森の子が小さな声で復唱した。公平は技術。
技術は、儀式にして初めて根付く。石の上に乗らない技術は、次の嵐で流される。
七夜目の朝、裏広場の端に、見慣れない痕が残っていた。
蒸気を帯びた履帯の跡。砂丘の端で一度だけ止まり、そこから細く光る線が延びている。
バルドが膝をつき、指でなぞった。金属の冷たさではない。もっと柔らかい。光を運ぶ糸のような。
〈プリズマ〉が微弱な散乱を拾う。
外部伝送。街の声を外へ運ぶ線。影の法廷の歌が、どこかへ導かれている。
レンは顔を上げ、砂丘の向こうを見た。薄い煙が、昼の手前の空に線を引く。
ヴェリアスが胸で舌打ちした。
『観測の口は、腹だけではなく、耳にも伸びるようだな。歌を喰う気だ』
「歌は喰われにくい形にしてある。だが、糸を切らないわけにはいかない」
レンは抽選器の羽根を止め、滴下の皿を覆った。儀式を止めるのではない。糸を確かめるためだ。
黎明院の子たちが刻み棒を置き、ナナミアが泉に指を浸し、トゥイは根の歌を低く響かせる。
歌と石と機械。三層の記録のうち、歌は閉ざさず、石は増やし、機械は一度だけ目を閉じる。
夜、監査会はまた七つの舌で始まった。
抽選の見せ場は、糸の話になった。誰が、どこへ、何のために、声を運ぶのか。石の紋を持って帰れる者は限られる。歌は誰でも持って帰れる。ならば、糸を握る手は歌を狙う。
議長の椅子はこの夜、最も小さな子に渡った。指名された子は、しばらく黙っていたが、やがて小さな声で言った。
歌うとき、息を吸う音を少し大きくする。
輪が笑い、すぐに頷いた。息の音は、糸より太い。拾いにくい。人の近くにしか落ちない。拾っても、意味が薄い。
設計は、時にささいな工夫で穴を塞ぐ。ささいに見える工夫は、大きな穴をふさぐ。
レンは黒板の端に、もうひとつ小さな丸を描いた。丸から細い糸が伸び、途中で結び目を作る。結び目は、歌う者の息だ。
監査の監査は、夜の儀式として輪に根付いた。
抽選は見せ場であり、歌は通貨であり、石は記憶である。
議長は毎夜変わり、権限は一枚の紙のように薄く、しかし破れない。
影の法廷の灯りは、誰か一人の顔ではなく、七つの椀の湯気に宿る。
レンが決めた、という囁きは、いつしか、輪が決めた、に変わりつつあった。
もちろん、囁きが消えるわけではない。囁きはいつでも戻る。
だから、儀式を続ける。装置を磨く。歌を増やす。石を刻む。
統治は、退場の設計を含む。
退場は、いる、いない、の二択ではない。
いる、を薄くし、輪を太くし、最後にいない、が自然に残る。
それが、レンの目指す退場だった。
朝、旗が鳴る。青は水、金は創造。
その間ににじむ第三の色は、覚悟ともうひとつ、委ねる色だ。
可換の丸が、泉の縁に並ぶ。
抽選器は止まっている。
滴りは覆われ、羽根は休む。
砂丘の端の細線は、まだそこにある。
終端はどこか。
帝国の観測中継か。
誰の耳へ、街の声は運ばれているのか。
レンは竿を握り直し、石壁の判決紋を見た。
渦は昨夜より一段増え、歌の節は昨日より短く、強く、覚えやすい。
それでいい。覚えられることは、切られにくい。
覚えられないものほど、糸は好む。
歌え。刻め。選べ。
そして、疑え。監査を、監査で。
抽選を、偶然で。
議長を、可換で。
記録を、三重で。
装置を、儀式で。
輪を、輪で。
泉の目が、朝日に一度だけ瞬いた。
影の法廷の布は畳まれ、椀は洗われ、抽選器の皿は乾く。
今日の監査会の七つの舌は、まだ誰にも決まっていない。
だが、歌う舌は、もう輪の中に満ちている。
砂丘の端の細い線は、昼の熱でかすかに揺れた。
風がそれを撫でる。
撫でられて、光った。
新しい見張りの目印のように。
レンは歩き出す。
抽選器の露は指で拭わず、布で押さえる。
滴りは、布の繊維を伝ってまた皿へ戻る。
偶然は、少しだけ、こちらの味方をする。
それで十分だ。
完全を急がない。
余白に歌を置き、余白に石を置き、余白に椀を置く。
夜になれば、また布は張られ、鈴は鳴り、羽根は回る。
そのたびに、輪は一度、小さく自分を疑い、二度、大きく自分を信じる。
影の法廷は、いま、輪の法廷になろうとしている。
監査の監査は、都市の癖の矯正だ。
癖は一夜で治らない。
だから、歌にする。
だから、石にする。
だから、風と水で選ぶ。
公平は、技術だ。
技術は、儀式だ。
儀式は、信だ。
信は、水より重い。
そして、水のように流れる。
砂丘の向こうで、薄い煙がまた一本、空に線を引いた。
線の終わりに、耳がある。
だが、こちらにも耳がある。
七つの舌と、百の耳と、ひとつの泉。
それで足りないなら、もう一段階、装置を増やそう。
空の層に、歌の層を。
石の層に、風の層を。
そして、可換の丸を、もう一つ。
旗の青と金のあいだで、第三の色が少し濃く見えた。
それは、輪が自分の重さを受け取る色だった。
レンはうなずき、朝の息を深く吸い込んだ。
息の音は、糸より太い。
今日も、歌える。
今日も、選べる。
今日も、疑える。
そして、明日も。




