と◯やの羊羹を持って謝罪に行ったらいろいろとあった件
「行きたくない……」
地下鉄の先頭車両で真っ暗な車窓を眺めながらボソリと呟く。
「俺だって行きたくないですけど仕方ないじゃないですか?」
「いや、砂賀くんよ。キミがそれ言うかなぁ?」
「えと、三富係長すんません……」
俺は今、この砂賀がやらかした後始末のために取引先まで謝罪しに向かっている。例によって謝罪のしるしは某有名和菓子屋の羊羹だ。
羊羹一つで謝罪を受け入れてもらえるとは到底思えないのでこれは受け取ってもらえないだろう可能性が高い。
そもそも謝罪なら係長の俺ではなく、せめて課長が出張ってくるのが普通ではないだろうか?
それなのに課長は事が起きた途端に『三富係長、よろしくね』の一言だけ言って逃げていってしまった。
「あそこんちのマネージャーってめちゃくちゃ怖いって噂じゃん。どうなのよ、そこ」
「怖いです。鬼ですよ、鬼。バリキャリな女性なんですけど、まじ怖いって言うか、もう俺なんか毎回チビリそうになりますもん」
そのマネージャーさんが今回とてもお冠なんだそうだ。いったい砂賀は何をしたというのだ……。
「やっぱ行きたくない。砂賀一人で謝ってこいよ」
「俺だって担当さんだけなら一人で行きますけど、上司のマネージャーさん相手だと俺じゃ無理っすよ」
嗚呼、今朝まで週末をどう楽しく過ごすかしか考えていなかったのに今回は高ダメージを引きずって憂鬱に過ごすことになりそうだな……。
「この度は申し訳ございませんでした」
「いえ、わたしとしてはそれほど気にするつもりはなかったのですが、上司の知るところになりまして少し事が大きくなってしまい……」
とりあえず担当さんに謝罪をする。マネージャーさんはまだ席には着いていない。
どうもこの砂賀は同じようなミスを二度どころか三度繰り返したようで、さすがに看過できないって話になったようだった。そういうの先に言ってくれないかな? 話を濁して伝えるの良くないと思う。
コンコンコン。
「あ、マネージャーが来たようですね」
ドアが開く前から俺たちは頭を深々と下げ謝罪体制に入る。
「申し訳ご――」
「そういう良いですから、頭を上げてください」
謝罪の言葉さえ受け入れてもらえないようで、早々に出鼻をくじかれた。
仕方がないので顔を上げて、マネージャーさんの御尊顔を拝することにする。
「も、申し遅れました私こちらの砂賀の上司の三富颯一郎と申し――ます」
「っ――マネージャーの増岡多恵、です」
驚いた。彼女も驚いていたようで言葉が一瞬遅れていた。
その後は気を取り直し今回の不始末の発生原因から再発防止策まで事細かに説明し、指摘され、今後に繋げていくように話し合いが持たれた。因みに羊羹は受け取ってもらえた。
「三富係長、このあとまだお時間大丈夫ですか?」
「はい。特に予定はないので問題有りません」
「では、上長同士で今後の打ち合わせだけしたいのですが」
「わかりました、お願いします」
ということで、砂賀と相手の担当者さんには部屋を出ていってもらった。砂賀には社に戻って始末書を書かせることにした。
「…………久しぶり。びっくりしたよ」
「久しぶりね。まさかこんなところで会うなんて思ってもみなかったわ」
「ほんと、こんな形で多恵に再会するとは思ってなかったよ。元気だったか?」
「元気よ、颯一郎も元気そうで何よりね」
さっきまでは胃に穴が空きそうなくらい絶不調でこの場に来たくなかったけどね。
でも本当に驚いた。まさか多恵が噂のおっかないマネージャーだったとはね。世の中広いようで案外と狭いものなんだな。
多恵とは高校の同級生だった。そして、高校二年から卒業までは恋人同士だった間柄。
恋人の関係は俺の大学受験の失敗やら両親の離婚やらが重なってやがて疎遠になり自然に消滅した。
何度も連絡をしようと思ったけど、浪人生の俺が色恋にうつつを抜かしている場合ではなかったし、離婚してシンママになった親にも負担はかけ続けられなかった。
「今更だけどあのときは申し訳なかった。俺の方の勝手な都合で多恵には酷いことしたと思っている」
「しても仕方ない話はしなくてもいいわよ。あのときのあなたにそれを言ったところで酷でしかなかったのはわたしも重々承知しているもの」
「ありがとう」
「ところで、今は何処に住んでいるの? まだご実家?」
「いや。今の実家は手狭だったし、年頃の妹に部屋を明け渡してあげるのも兄の役目だってね。今は一人暮らしさ」
大学生時代から一人暮らしを始めて、学業とアルバイトの両立でだいぶ苦労したけれど、その甲斐あってなんとか今の会社に就職できたのは良かったと思っている。
それから暫くお互いの近況などの会話をした。もうあれから何年も経ったというのに高校時代を思い出したかのように話せたのは自分でも思いがけなかった。
ちなみにだけど上長同士の今後の打ち合わせなんか一つもしなかったよ。今後のことは砂賀に任せてあるので俺は口を挟まない。
多恵のこの姿とおっかないマネージャーが一致しないけど、まあ怖いのは対外的なアレってことなのかもしれない。クラスの委員長やっていた頃の多恵もそういえばおっかない感じだったかもしれないし。
「ねえこの後も時間大丈夫なんでしょ?」
「ああ。会社への報告は砂賀を行かせたし、俺を人身御供に差し出した課長は何も言ってこないだろうからこのまま直帰で構わないはずだよ」
「人身御供?」
「こっちのハナシ。気にしないで」
まさか鬼への生け贄とは言えないよな。言う気もないし。
「それで、わたしもなんとかして定時で上がるからこの後久しぶりに食事でもどうかな?」
「いいね。じゃ俺は駅前にあったカフェで待っているよ」
「うん。お願いねっ。でもその前にいくつか確かめておくからちょっと待って」
そう言うと多恵は部屋の隅に置いてある電話機を取る。番号をいくつかプッシュして受話器を耳に当てた。
「もしもし、伊沢くん? 今日はわたし定時で上がるんだけど例のアポイントメントは取れたでしょうね? え? まだですって! 早くしなさい。月曜の朝一は相手先に直行でいいから行きなさい。わかった?」
一度電話を切って再度何処かにかける。内線で担当者に指示を出しているようだ。その姿は正しく鬼のようでちょっと怖かった。
仕事と俺と話しているときとの落差が激しすぎて同じ人間なのか思わず疑いたくなるよ。
「なんとか帰れそうだわ。ささっと終わらせてすぐに行くから待っててね。じゃ、また後で」
多恵は颯爽と扉を抜けていった。部屋を出るときの顔は完全にできるビジネスウーマンって感じになっていた。
予定よりも30分ほど遅れて多恵が俺の待つカフェにやってきた。
「もう、やんなっちゃう。終わり間際に重要な相談事をしてくる子がいてほんと困ったわ」
遅れてきたことを俺に謝り、遅れた理由を伝えてくる。
「いいじゃないか。それだけ多恵のことを頼りにしているって証拠だよ。余程の信頼がなけりゃ、おっかない上司に相談なんか気安くしてこないって」
「おっかなくなんかないもん。仕事に対して真摯に向き合っているだけよ」
「それが出来てるんだから多恵は偉いんだよ。出来ないやつのほうが絶対的に多いんだからさ」
「えへへ、ありがとう。そういう颯一郎はどんな感じなの?」
多恵ほどではないがそれなりに部下からの信頼は篤いと思っている。多恵みたいなぐいぐい引っ張るタイプじゃなくて一緒に進んでいくタイプだと自分では思っているけど、実際に彼奴等はどう思っているのかね。
「あの砂賀って子の態度見ても颯一郎が頼られているのはわかるよ。わたしも鼻が高いわ」
俺も元カノが仕事のできるいい女になっていて鼻高々だよ。口に出して言わないけどな。
「で、このあとどうする? 俺、ここらへんの地理には疎くて飯とかわからないんだけど」
「そうね。颯一郎はお酒とか飲む方?」
「嗜む程度にはいけるよ。なんなら居酒屋でもバーでもオッケーだぜ」
人気そうなバルは満席で入れなかったので、路地を入った先にある小ぢんまりした居酒屋に入った。間口が狭い割に店内は広くて意外と居心地が良い店だった。
ビールの大ジョッキ片手に二人で再会を祝して乾杯をする。
「裏道にある居酒屋にしては雰囲気が良いところだな」
「わたしもたまにしか来ないけど、ここは会社の同僚にも内緒にしている隠れ家なんだ」
多恵は常連とまではいってなさそうだけど店員とも顔なじみ程度にはここに通っているみたいだな。
「やっぱストレスは多いんだろうな」
「ないって言えば嘘になるわね。そういうときにさっきのバルとかここのお店に来て一人で飲んだりしてるわ」
「一人で?」
「そ、ひとりで」
高校の頃は可愛いって感じだったけど、数年経った今は可愛いよりも綺麗という表現があっていると思う。こんな多恵のこと周りが放っておくわけ無いと思うのだが。
「えっと、多恵って結婚とかは?」
「しているわけ無いでしょ?」
良かった。ってなんでそう思ったんだ……?
「それよりもわたし、ちょっと怒っているんだけど」
「え? 俺なんかやっちゃったかな?」
「やっちゃったかな、じゃないわよ。颯一郎に連絡をしようと思ったのに電話は解約されているし、引っ越してしまって住所もわからなかったんだからね。どうして教えてくれないのよ」
「ご、ごめん。携帯は親父の名義だったから離婚のとき解約されちゃって。引っ越しも急だったし、あのときは大学も落ちた後だったから……」
自分と家族のゴタゴタなどが一度にワーッと溢れかえってきていたときなのでもうどうにもならなかった。落ち着いた後はなかなか言い出しづらくて連絡も取りづらくなってとうとう偶然出会う今日という日まで何も言えていなかった。
「せめて連絡くらいは欲しかったなぁ。わたしたちそんな仲じゃないじゃない? 恋人同士だよ。颯一郎が辛いときはわたしも力になりたかった」
「そっか……そうだよな。ごめん」
二杯目にハイボールを頼んだが、まさかのハイボールまでジョッキで出てきた。
「しかも薄くない」
「うちはそんなケチったことしないからしっかりとウィスキー入ってるよ」
気っ風の良さそうな女将さんの軽口を聞きながらも多恵の現状が気になってくる。
「多恵って恋人、いたりするの?」
「いるわよ。当たり前じゃない」
やっぱりな。こんなにきれいな人が一人きりなんてありえないもんな……。
「颯一郎だっているじゃない」
「俺はいないよっ」
多恵と別れてから一度も女性と付き合ったことなんてない。いまだに元彼女のことを忘れられないなんて言ったら気持ち悪いだろうか。
あれからもう10年近く過ぎているというのに未だに高校時代の恋人を引きずっているなんて。
「嘘はやめてよ」
「嘘じゃないよ。俺には恋人はいないよ」
「じゃあわたしは何?」
「……え? 元カノ?」
それ以外に何があるというのだろうか? そもそも恋人同士だったことも無かったことになってただのクラスメイトとか? それはそれでとても嫌だ。
「元じゃない!」
「……は?」
「今も颯一郎の恋人だもんっ! まだ別れてないもんっ」
「えっ、だってもうだいぶ期間空いたし、その間も一切連絡さえしてこなかったのに?」
あまりにも想定していなかった多恵の言葉に面食らう。まだ別れていないってことはさっきの恋人がいるっていうのは。
「時間なんて関係ない。ずっと待ってたんだからねっ」
「やっぱりさっき恋人がいるって言ったのは俺のことだったのか?」
「それ以外に誰がいるって言うのよっ」
「なるほど?」
そこまで言うと多恵は何故かメソメソと泣き出した。
高校生の時は当然ながら飲酒は出来なかったので知らなかったけど、多恵は泣き上戸だったよう。でもまだビールの大ジョッキとハイボール一口二口しか飲んでないよ?
テーブルを挟んで向かい合っていたけど、多恵があまりにも涙をポロポロ流すものだからすぐ隣に移動した。スペースは区切られているので他の客に見られることがないのだけは幸いした。
そのか細い方を抱いていると多恵は身体を俺に預けてくる。
「ねえ、わたしたち別れちゃったの? そんなの嫌だよぉ」
「俺としては俺が原因で恋人関係は自然消滅したものって認識だったんだが」
「別れるって言葉は交わしていないもん。だから別れてなんてないもん。自然消滅したなんて言わないでよ……」
涙を流しながら多恵が語ったのは俺とはまだ交際を続けているという彼女の認識のこと。
高校卒業後に離れ離れになったのは一時的に仕方ないことだということで我慢をしていたようだった。しかし、その後も俺からの連絡は一向にないし、探したところで足取りも容易に掴めない。
でも必ず俺が多恵のもとに戻ってくると確信して、この10年近く男性からの誘いさえ一切振り向かずに俺だけを待っていたという。
「淋しかったから仕事に打ち込んで気を紛らわせていたんだよ。そのせいで陰でおっかないマネージャーって言われているのも知ってる」
「じゃあ、あれは俺のせいなんだ」
俺が最初に会いたくないなんて思っていたおっかないマネージャーを作り出したのが、まさかの俺自身だったとは微塵も考えていなかった。
「ねぇ、わたしってやっぱり重い女なのかな……。そんなの颯一郎も嫌だよね。もし嫌だったら、この場で別れの言葉をくれたら素直に受け入れるよ」
「そんなことはない。多恵が素直に言ってくれたから俺も隠さず言うけれど、ずっと多恵のこと忘れられなかった。多恵以降誰とも付き合っていないのもそのせい。俺も今でも多恵のことが好きだ」
「ほんとうに?」
「誓って」
見つめ合って唇を重ねる。10年ぶりの多恵とのキスはアルコールの香りがした。高校生の俺達じゃ絶対に有り得ない感覚に気持ちも昂ぶる。
もう一度、今度はもっと濃密に唇を重ねる。なんならこのまま押し倒しても構わないような気がしてきた。
「ねえ、あんたたち。盛り上がるのは良いけどその先は通りの向こうのホテルでやっておくれよ? じゃ、これ軟骨揚げと刺盛りニ人前ね」
「あ、はい。すみません……」
久しぶりの再会だったり、酒が入ったり、まあそのキスしたりで盛り上がってしまったのは否定できない。
高校生の頃に身体を重ねた記憶も鮮明に浮かび上がったりしたのも良くなかった。
「ごめん、ちょっと軽率だった」
「ううん、わたしも多分同じ気持ちだったから……」
その後は食事もそこそこにして、女将の言っていた通りの向こうに行ったのはご想像のとおりだったりする。
これは楽しい週末になりそうだ。