忘れることを選ぶのか、それとも…
暗闇の中、何かがこちらを見ていた。
──カイ、また来たのか。
声がした。けれどそれは耳で聞くものではなく、脳の奥底に直接染み込むような感覚だった。
──今度こそ、忘れてくれるといい。
何かが水の中でうごめいていた。巨大で、ぬるりとした、形を持たない“何か”。
その中に、自分が引きずり込まれていく。
カイは叫ぼうとしたが、口の中に冷たい水が流れ込んだ。
一瞬、現実が反転する。
そして次の瞬間、視界が青く染まった。
目を開けると、そこは水の中だった。
重力の感覚はなく、上下の区別すらあいまいなまま、ゆらゆらと体が浮かんでいた。湖の底、まるでガラスのように透き通った水中。だが、空気はない。息ができない。喉が焼ける。
(息……が……できな……)
苦しさに目の奥が熱くなったそのとき、誰かの手が、水面の向こうから差し伸べられた。
ぼやけた視界の中で、白い指がゆらめく──
ぐいっと腕を引かれた瞬間、世界が反転し、カイは水面から顔を出した。
「大丈夫か! しっかりしろ!」
霧の中、見知らぬ男たちが何人も取り囲んでいた。木の舟に引き上げられ、咳き込みながら水を吐き出す。
冷たい風が濡れた肌に刺さる。肺が焼けるように痛む。全身が震えていた。
「また水神様が魂をくださったんだ……」
「今年は早いな」
周囲の人々が何かをささやいている。カイにはその意味がわからなかった。
「……あなたの名前、わかる?」
優しい声がした。
振り返ると、長い黒髪の少女が舟の端にしゃがみ、こちらを覗き込んでいた。琥珀色の瞳が、霧の中でわずかに光る。
「カ……イ……?」
ぼんやりと、声に出してみる。なぜその名が出たのか、自分でもわからない。ただ、それだけは確かな気がした。
少女は微笑んだ。
「ようこそ、レノール村へ。……カイ」
レノール村は、湖の中にあった。
四方を水に囲まれた集落は、木製の橋と小舟で繋がれており、村全体が湖の上に浮かんでいるようだった。霧が立ち込め、昼でも薄暗い。空には太陽も月も見えず、時間の感覚が失われていく。
人々は穏やかで、優しかった。
カイを何故だか神の“落とし子”として迎え入れ、家を与え、食事を作り、夜には祈りの歌を歌ってくれた。
だが、不思議なことがいくつもあった。
たとえば──
村の者は誰も、“湖の向こう側”について語ろうとしなかった。まるでこの村が世界の全てであるかのように。
そして、中央の湖に浮かぶ黒い影──
「沈み塔」と呼ばれるその場所には、誰も近づこうとしなかった。
ある晩、カイは一人、湖のほとりに佇んでいた。鏡のような水面に、自分の姿が映る。
──その“鏡像”が、ゆっくりと微笑んだ。
ゾクリと、背筋が凍る。
次の瞬間、背後から声がした。
「……見てはいけない」
ミリィだった。
少女は水面を見つめたまま、小さく首を振った。
「ここに長くいるとね、少しずつ、思い出が消えていくの。気づかないうちに」
「俺……何を、忘れてるんだろう」
「全部よ。名前も、家族も、どこから来たかも。水は、神様のもの。記憶を捧げるのが、この村の掟なの」
「じゃあ、俺も……?」
ミリィは言葉を濁した。だがその目は、すべてを知っている者のものだった。
湖の向こう、沈み塔の頂きに、赤い光が一瞬、灯った。
それはまるで、誰かがこちらを見ていたかのようだった。
「……変だな」
村の若者、ノーアがつぶやいたのは、三日後の朝だった。
「漁に出てたヒルベルト爺が、帰ってきてねえんだよ」
その一言にカイは反応したが、周囲の村人たちは眉をひそめるだけだった。
「ああ……そういえば、いたような気もするな」
「誰だったっけ? 杖ついた小さい人?」
「違う違う、ヒルベルトはでっぷり太ってて──いや、やせてたか……?」
言葉がかみ合わない。しかも、何人もの村人が、“同じ人物”を別々の姿で思い出そうとしている。
記憶が曖昧なのではない。記憶そのものが、書き換えられているようだった。
(この村、何かがおかしい……)
夜、カイはまた夢を見た。
冷たい湖の底、無数の手が水中に漂い、塔の下から何かが這い出してくる。
その顔は、記憶の中にいるはずの人間たちの集合体だった。
囁き声が渦巻く。
──忘れろ……
──お前も、沈め……
目覚めると、シーツは汗で濡れていた。
部屋の中に誰かの気配を感じ、振り向くと――誰もいなかった。
だが、畳んだはずの衣が乱れ、床には濡れた足跡が一対、残されていた。
それから数日、カイは村人たちの言動を注意深く観察するようになった。
誰もが同じ時間に目覚め、同じ祈りを捧げ、同じ会話を繰り返す。
ノーアでさえ、昨日と同じ冗談を、まるで初めて言うような顔で話していた。
(これは……“ループ”じゃない。もっと悪質だ)
まるで、村全体が“誰か”に操られているかのような……そんな感覚。
ミリィは日に日に様子がおかしくなっていた。目の焦点が合わず、時折、自分の名前さえ思い出せなくなる。
「……わたし……何歳だったっけ……?」
湖の水を飲むたび、ミリィは少しずつ“ミリィでなくなっていく”ようだった。
ある日、彼女が言った。
「カイ、お願い……私のこと、ちゃんと“覚えてて”。誰も……私のことを……知らないの……」
カイは彼女の手を握りしめた。
「絶対に忘れない」
だがその晩、ミリィは姿を消した。
村人たちに尋ねても、誰一人として彼女の名前を覚えていなかった。
「……ミリィ? そんな子、いたか?」
カイは耳を疑った。
「黒髪で、俺の世話をしてくれてた子だ。俺をこの村に……!」
「ああ、あんたはもう村の子だ。最初からいたじゃないか」
村人の言葉が、カイの背筋を凍らせた。
──最初から?
まるで、カイ自身の存在さえ“村に溶け込んでいる”ような感覚。
記憶と時間の境界がぼやけ、何が現実で、何が幻かが分からなくなる。
あの夢の中で聞いた声が、また頭に響いた。
──お前は、何度目だ……?
──今度こそ、忘れてくれるといい……
ミリィの失踪から三日が経った。
カイは彼女のことを忘れないよう、毎晩、声に出して名前を唱えた。
ミリィ。ミリィ。ミリィ。
名前さえ消えてしまえば、彼女はこの世にいなかったことになる。
そう直感的に理解していた。
だが、村の空気は確実に変わっていた。
村人の笑顔は変わらない。しかしその“笑顔”が、仮面のように見え始めていた。
同じ言葉、同じ動き、同じ時間。彼らの表情からは、何の感情も読み取れない。
まるで“舞台を演じている人形”のようだった。
ある夜、カイは舟着き場でノーアと再会する。
ノーアは笑っていた。が、その目は空虚だった。
「なあ、カイ……ミリィって、誰だ?」
その問いに、カイは震えた。
(ノーア、お前まで……)
「……塔に、行ってはいけない」
ノーアはそう呟くと、ふらふらと水辺へ向かった。
そして、迷いのない足取りで、そのまま湖の中へ歩き出した。
水が彼の膝、腰、胸を覆う。
カイが駆け寄ったときには、もう頭まで水に沈んでいた。
波紋ひとつ残さず、ノーアは消えた。
深夜、カイは一人、小舟に乗った。
霧が濃く、周囲の視界はほとんど白に染まっている。
だが、彼には“あの塔”の場所がわかっていた。
夢の中で、何度も見たからだ。
水面は鏡のように静かで、漕ぐたびに生まれる波紋がどこまでも広がっていく。
奇妙なことに、舟が近づくほど、時間の流れが歪んでいるのを感じた。
耳の奥で、誰かが囁く。
──やめろ……
──塔は、目を覚ましてしまう……
舟の底から、何かが“コンコン”と叩く音がした。
覗き込むと、水中に顔があった。
自分と同じ顔をした“もう一人のカイ”が、湖の底からこちらを睨んでいた。
その口元が、ゆっくりと動く。
「おかえり」
舟が塔の足元に辿り着いた頃、霧がスッと引いた。
目の前に現れたのは、黒く朽ちた石造りの塔だった。
その半分以上が湖に沈み、歪んだ鐘楼のようなものが水面から突き出している。
まるで、水に呑まれながらも“なお祈り続けている”ような形。
塔の表面には、びっしりと何かが貼りついていた。
人間の手、顔、腕──すべてが水中に引きずり込まれる寸前の形で固まっている。
そして、塔の入り口は口のように開いていた。
中へと入る。闇が深く、温度が一気に下がった。
水の気配、濡れた石の臭い、遠くで何かが滴る音。
そして──
「……カイ……」
声がした。
ミリィだった。
「……カイ……こっち……」
塔の中は、まるで水中のように湿っていた。
けれど水はない。ただ、空気が濃密で、肌にまとわりつくような重さがあった。
カイは声の主──ミリィ──を追って、螺旋階段を降りた。
壁には、無数の“人の顔”が浮かんでいた。彫刻でも絵でもない。
それは、水に沈む直前の、叫び顔、泣き顔、無表情の“記憶”だった。
一歩進むごとに、脳裏に知らない人の感情が流れ込んでくる。
後悔。怒り。諦め。恐怖。祈り。
(ここは……“記憶を喰われた人間たち”の……)
塔の最下層──湖の底に近いその場所に、彼女はいた。
ミリィは水の中に立っていた。水面が腰ほどまであるのに、彼女の動きは滑らかだった。
「……来てくれて、嬉しい。忘れられるって、怖いから……」
「ミリィ……!」
駆け寄ろうとした瞬間、カイの足が止まる。
彼女の脚が──人間のものではなかった。
水に溶けかけたように、半透明で、魚の鱗のような輝きを放っていた。
「私ね、もう“こっち側”に半分、引きずられてるの……」
ミリィの声が悲しげに響いた。
「前にも、カイに会った。何度も何度も。でも、毎回……あなたは私を忘れて、村で暮らしていった」
「……そんなはず……俺は……」
「でも、今のあなたは違う。“思い出そうとしている”。それがきっと、鍵なの」
彼女が手を伸ばす。その指先がカイの額に触れた瞬間──
世界が反転した。
映像が、流れ込んでくる。
無数の過去。
繰り返される“召喚”。
レノール村へ落ちてくる魂。名前を奪われ、記憶を洗われ、塔へと還っていく者たち。
そして、そこに何度も、“カイ”という少年がいた。
毎回、ミリィと出会い、惹かれ合い、
やがて記憶を奪われ、村に溶けていく。
ただ一つ違うのは、“今回は抗っている”ということだった。
「お前は、優れた器だ」
響いたのは、塔全体を震わせるような声。
「この異界は、現実の世界に絶望した魂のための避難所。だが、維持するには“記憶ある魂”が必要なのだ」
水神──ナグル=オーン。
その姿は定かでない。ただ、影のような輪郭と、無数の目、流れるような体躯だけが水の中にうごめいていた。
「忘れたい者には、忘却を。だがそのためには、“忘れたくない者”の犠牲がいる。お前たちは、その贄だ」
「……俺たちを……使っているのか」
「この世界の美しさは、忘却によって保たれている。“思い出す者”は、それを壊す」
「それでも……俺は、思い出す。ミリィも、ノーアも……俺の人生も」
ナグル=オーンの無数の目が一斉に細められる。
「では、お前に選択を与えよう。記憶を差し出し、幸福の中で暮らすか──すべてを覚えたまま、永遠に沈み続けるか」
塔の奥で、“水晶核”が脈打っていた。
それは、世界の心臓だった。
ミリィの声がかすかに響く。
「壊して、カイ。壊せば……この輪廻から、逃れられる……」
「壊すの、カイ……!」
ミリィの声が、水晶核の周囲に反響する。
それは鼓動していた。
まるで村全体、湖全体の記憶を抱え、命を保っているかのように。
塔の壁が軋み始める。水面が揺れる。
ナグル=オーンの怒りが波紋となって広がり、空間ごと震わせている。
「愚かなる者……汝が望むのは“忘れたくない”というエゴに過ぎぬ……」
カイは震えながら、水晶核に手を伸ばした。
──ノーアの笑顔
──村人たちの祈り
──霧の中の舟
──そして、ミリィの手のぬくもり
どれも忘れたくなかった。
(たとえ、これが終わりになったとしても……)
カイは叫んだ。
「忘れるくらいなら……全部、終わらせる!!」
彼の拳が水晶核を打ち砕いた。
光が爆ぜ、塔全体が軋み、空間がひび割れる。
水面が裂けるように塔の天井が崩れ、奔流がすべてを飲み込んでいく。
ナグル=オーンの声が遠のく中、カイはミリィを抱きしめた。
彼女は笑っていた。もう、涙もなかった。
「ありがとう、カイ……やっと……自由になれる……」
二人の身体は、水と共に沈んでいった。
やがて、すべてが静かになった。
―・―・―
──波音が、聞こえる。
暗い海だった。
太陽は昇っておらず、空は灰色に沈みきっていた。
カイは濡れた砂浜に横たわっていた。
目を開ける。
身体は動くが、重たい。呼吸が浅い。
頭の中で何かが渦巻いていた──名前、顔、思い出、感情、それらが入り混じり、崩れていく。
「……誰だ……俺は……」
遠く、潮の霧の向こうに人影が立っている。
黒髪の少女──どこかで見覚えがあるような気がする。
カイは、よろけながら立ち上がり、その影に向かって歩く。
──だが、少女の顔はない。
まるで、目も口も鼻も、すべてが剥がれ落ちた白い仮面のようだった。
それでも少女は微笑んだ。
声もなく、ただ口元だけが動いた。
「また……ここで……会えたね……」
カイは、なぜか泣いていた。
涙の理由がわからない。けれど、その光景は“何度も見た”気がした。
ふと、足元を見る。
砂浜には無数の足跡が刻まれていた。
カイのものと同じ形の足跡が、何十、何百と、交差し、折り返し、海から来ては、また海へと戻っている。
(何度も……ここに来た?)
遠くで、鐘の音が鳴った。
それは沈み塔の鐘の音──まだ、響いていた。
「おかえり」
少女が言った。
その瞬間、空に黒い雲が走り、海から巨大な影が現れた。
それは水でできた“ナグル=オーン”の目だった。
すべてを見ていた。
すべてを、まだ“記憶していた”。
カイの背後で、波が静かに引いていく。
やがて、彼の姿も、砂浜から消えた。
まるで最初から、そこに誰もいなかったかのように
ここまでお読みいただきありがとうございました!
ホラー系は、初めて作ってみました!お楽しみいただけたら嬉しいです!