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空跡

作者: 吟遊蜆

 その朝、私は学校へは行かなかった。だがそれは、私が学生ではないからではなかった。だからといって会社へ行ったわけでもない。


 もちろんそれは、その日出かけなかったという意味でもなかった。とはいえ私は海にも行かなかったし、スキー場にも行かなかった。それは季節がそれぞれふさわしくなかったから、というわけではないし、私は水泳部でもスキー部でもなかった。


 だからといって私は、恋人と二人で野球場へ行ったりもしなかった。朝からやっているとしたらプロ野球ということはなく、高校野球や草野球、少年野球ということになるが、私は野球部員ではないし、もちろん監督でもない。そもそも野球をする趣味はないし、子供が少年野球チームに入っているわけでもない。それ以前に妻も子供もいなければ、恋人すらいなかった。


 とはいえ私は、自動車でショッピングモールに行ったわけではない。近くにそんな施設が新しくできたという話も聞かないし、以前からあったということもない。もちろん自動車も所持してはいなかったし、レンタカーを借りるどころか運転免許すら持っていたことはない。かといってわざわざ電車で向かうほど欲しいものがあったわけでもないし、欲しいものがあったとしてもショッピングモールで買おうとは思わなかっただろう。


 私はレンタルDVDを返しにいったりもしなかった。そもそも借りていないのだから、返しにいく必要もない。それどころか近所にあったレンタルショップはとっくに潰れてしまっていたし、わたしの家にはすでにDVDを再生する装置はなかった。


 そうなれば映画館にでも行ったのかといえば、それもなかった。その時期に観たい映画などなかったからだ。あったとしても、私はわざわざチケットを買って観にいくことはなく、サブスクやテレビで放送されるまで待ったに違いない。


 その日の私は、カフェでコーヒーを飲むこともしなかった。私はコーヒーの香りは好きだが味は苦手なので、カフェに行くことがあってもコーヒーは頼まないし、そもそも飲み物を飲むためだけにカフェに行くことはない。だからといってカフェで読みたい本もなければ、窓際のカウンターで林檎マークを見せつけるようにMacBookを広げておこなうべき作業もありはしない。


 私はここらでいったん実家に帰省してみても良かった。しかしそうしなかったのは、親との不和により帰りたくなかったからでもなく、特に用事がなかったからというわけでもない。用事というものはいざ行ってみれば、そして面と向かって話してみればなにかしら出てくるものだ。つまりただ私はそのとき帰省しなかったというだけであって、別に帰省しても良かった。ただしいつもそのように考えている人間が、何十年も帰省しなかったとて不思議はない。


 私は自分には気分転換が必要だと考えていたのかもしれないが、だからといってカラオケに行くなどということは考えもしなかった。特に歌いたい曲もなかったし、一緒に行きたい人もいなかった。いまどきはひとりカラオケもありなのだろうが、そうなるとますます歌いたい曲がなければ行こうとは思わないだろう。


 しかし私は音楽が嫌いというわけではなく、それを聴くことはむしろ好きなのだから、コンサートにでも行けば良かったのかもしれないが、それもこの日は行かなかった。私は普段、スマホに入れてある様々な音源をそのときの気分に合わせて聴くのだが、コンサートというものは、聴き手側の気分に合わせて開催してくれるわけではない。待ちに待った開催当日になって別の音楽を聴きたくなる可能性を思うと、私は三、四ヶ月も前にチケットを買っておくということができなくなる。


 そんな私もひとりの生活人である以上、スーパーには少なからず行くことになるがこの日は行かなかった。冷蔵庫の中には食べられそうなものがそれなりにあったからわざわざそこを目指して出かける必要はなかったし、ほかに行く場所があるにしてもその帰りに立ち寄るほど切迫した状況でもなかった。


 同じ事情によりコンビニにも行かなかった。コンビニにはほかにも、公共料金の支払いや荷物の発送、コンサートチケットの発券など様々な用事が考えられるが、公共料金は銀行振替、送るべき荷物は特になく、チケットは先述のとおり購入する習慣がなくなっていたため、急ぎで行く必要は思いつかなかった。


 つまりその日の私は、すでに知っている場所、名前のついている場所へは行かなかった。私が行ったのはすべて、ここへ行ったと名指しできるような場所ではなかった。だからといって、私はそういう場所だけを選んで足あとをつけるようにしている、というわけでもなかった。

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