襲来②
「まったく……薬で穏便に済まそうとしてやったというのに」
淡々と呟く碧雲は軽く腕を振り灯の幻火を払う。
幻火は幻を見せるらしいが、碧雲には効果がなかったらしい。
「小賢しい。子狐の幻火など私に効くものか」
淡々と告げる声からは怒りの感情などは伝わってこない。
ただ、冷たい視線だけが美鶴に突き刺さる。
その氷柱の様な視線に凍らせられたように身動きが出来なくなった。
碧雲はゆったりとした足取りで本物の美鶴がいる塗籠へと近付いて来る。
「なりません!」
小夜が身を起こして塗籠と母屋を隔てる御簾の前に立ちふさがるが、碧雲は「退け」と軽く告げた。
それだけで小夜の袿の裾に赤い火が点く。
火はすぐに燃え広がり、小夜の衣を焼いて行った。
「ひっ」
「小夜!」
流石の小夜も青ざめ、美鶴は思わず声を上げる。
予知は、自分が碧雲によって薬を飲まされ死産となってしまうというもの。
それ以外は視なかったため、少なくも酷い目に遭うことはないのではないかと思ってしまっていた。
だが、碧雲が腹の子の死を願っている以上それだけで終わるはずがなかったのだ。
「小夜姉さま!」
慌てて袿を脱ぎ捨てようとする小夜を手伝う灯。
そんな二人の横を通り、碧雲は御簾にも火を点け焼いていく。
上手い具合に御簾だけが焼き消えると、妻戸の裏に隠れていた美鶴の衣が見えてしまった。
「美鶴様!」
反対側の妻戸に共に隠れていた香が美鶴を守ろうと出てくる。
だが、ただでさえ大人と子供の差。簡単に押し飛ばされてしまった。
「香!」
思わず駆け寄ろうと妻戸の陰から出るが、香の元に行く前に腕を掴まれてしまう。
「手間をかけさせるな」
「っ!」
碧雲の強い手に、美鶴はそのまま母屋の方へ引きずり出されてしまった。
どくどくと血流が早まる。
これから一体どうなってしまうのか。
恐怖に震えそうになるが、子を守るためにも冷静に見極めなくてはと叱咤した。
(大丈夫、少なくとも薬はもうないはずよ。今ここで御子が殺されてしまうようなことにはならないわ)
腹の子以外の誰かが死んでしまうのであれば、予知はその人の死を視せるはず。
だから、誰かが死んでしまうほどの酷いことにはならないはずだ。
自分に言い聞かせるように考え心を落ち着かせる。
だが、なんとか冷静な思考を取り戻した美鶴に碧雲はまたかき乱すような言葉を放った。
「薬が使い物にならなくなったのでは仕方あるまい……生まれたらすぐ殺してやろう」
「っ⁉」
今は殺せなくとも、結局殺すつもりなのは変わりないということだ。
我が子の命が奪われる危険が去ったわけではないことに動悸が激しくなる。
(だめ、落ち着いて。少なくとも今は大丈夫よ)
呼吸を整え、気力を奮い立たせる。
弧月は儀式のためこちらには来られない。
だが、いざというときにはどれほど大事な儀式であろうとも放り出して助けに来ると言ってくれた。
(弧月様は絶対に来て下さる。だからそれまで冷静に対処しなければ)
強く優しく愛しい夫を思い浮かべ、心を強く持つ。
未だにあれほど素晴らしい帝の唯一の妻が自分で本当にいいのかと思うことはあるが、その素晴らしい妖帝が言うのだ。
『美鶴、俺の妻はそなただけだ』
と。
なればその妻に相応しくあろう。
完璧にとはいかずとも、自身のすべてを持って弧月の隣に在れるよう尽力しよう。
だから、恐ろしくとも負けるわけにはいかない。
なにも出来ないか弱い赤子を殺そうなどとのたまう、卑怯な男などに!
きっ、と冷たく恐ろしい金の目を睨み返す。
そして怯まず声を上げた。
「この子は殺させなど致しません。この子は現妖帝・弧月様の御子。弧月様の妻として、御子の母として、何を置いても守り通します!」
声は僅かに震えてしまったが、強い意志だけは貫き通す。
足に力を込め、負けるものかと背筋をのばした。
「――っ」
美鶴の凛とした様子に碧雲はわずかに息を吞む。
だが、すぐに鼻を鳴らして吐き捨てた。
「ふん、平民がよく吠える。お前ごと殺してしまえれば話は早かったのだがな」
(それは、どういうこと?)
まるで自分のことは殺せないというような言葉に軽く眉を寄せる。
碧雲という男のことはよく知らないが、今見ただけでも平民の女一人を殺せない男だとは思えない。
子を殺そうなどと言う男だ。妊婦だからという理由でもないだろう。
美鶴の疑問に、碧雲は問いかけるまでもなく話し出した。
「内裏に入り込むために藤峰の娘・莢子の入内を推し進めた。入内の儀式の方に警備が集中している今の内に、その腹の子を殺すためにな」
こうして身代わりを用意するくらいだ、勘付いていたのだろう? と碧雲は少々自虐気味に笑う。
「その莢子の入内に必要な品を用意すると協力を申し出た平民がいるのだ。協力する代わりに、お前を生きたまま渡してくれとな」
「協力した、平民?」
誰のことだろう? と疑問に思う。
自分のことを知る人物は今も昔もあまり多くはない。
平民と聞いて真っ先に思い浮かぶのは家族だが、自分を必要だと思ってもらえるとは思えない。
何より、大門の火事の後消息を絶ったのだ。死んだと思われてるに決まっている。
なのに碧雲は楽し気な笑みを口元に戻し、連れてきていた頭巾を被った二人を見た。
そういえばこの二人は来てからずっと庇に留まり動いていない。
まさかこの二人がその平民なのだろうか?
視線を向けると、背の高い方から男の声がした。
「……まったく、何故お前が妖帝の妻などに……帝とはいえ、妖にくれてやるつもりで育ててきたわけではないというのに」
「っ!」
もう聞くことはないと思っていた声。
だが、生まれてからずっと聞いてきた声だ。聞き間違えるとは思えない。
「本当に。大体生きていたなら帰って来なさいよ、姉さん」
「……はる、ね?」
もう一人からは同じくもう聞くことはないと思っていた妹の春音の声がする。
信じられない思いで見つめると、二人は頭巾を取り顔を晒す。
そこには、二度と会うことはないと思っていた父と春音の姿があった。