襲来①
夢見をした夜から三日。
弧月は今、紫宸殿にて本日入内する莢子を迎え入れる儀式をしている。
その間美鶴は自身の殿から出ず、儀式が終わるまで大人しくしている様にと言われていた。
少し離れた場所にある紫宸殿から雅楽の音がわずかに聞こえてくる。
普段ならば雅な音色に聞き耳を立てたくなるが、今はそのような余裕は無い。
何故なら。
「お初にお目にかかる、弘徽殿の中宮殿。……いや、まだ更衣だったか?」
衣擦れの音すら密やかに、見知らぬ藍色の髪の男が酷薄な笑みを浮かべ美鶴のいる弘徽殿に侵入してきたからだ。
検非違使達は何をしてるのか。儀式の警護に集中しているとはいえ、外部の者に侵入を許すとは。
……いや、この男は内裏にも味方がいるらしいので逆に招き入れた可能性が高い。
おそらく、莢子の入内自体この男が侵入する隙を作るために仕組まれたことなのだろう。
男は他にも頭巾を被った供を二人連れ、許可もなく縁から庇へと入って来た。
一つ一つの仕草は洗練され、ゆったりとした物腰は貴族のそれだ。
一見質素だが、よく見ると上質な絹の狩衣に身を包んでいる。
無遠慮に母屋にまで入り込む男の迷いのなさは、勝手知ったるという様子。
男にとって弘徽殿は慣れた場所なのだと知れた。
「何故ここに? 都を出たのではないのですか? 碧雲様」
扇で顔を隠しながら、小夜が凛とした声で問いかける。
男――碧雲は取り繕ったような笑みを消し、嘲笑するように鼻を鳴らした。
「都を出たのはあの忌々しい狐が治めている土地だからだ。妖帝には私の方が相応しいというのに」
故妖碧雲。
先帝の実子で、弧月が生まれその妖力の強さが知られるまではこの男が今代の妖帝となるはずの東宮であったと聞いた。
妖狐の弧月が妖帝であることを良く思っていない筆頭で、その座を奪おうと虎視眈々と狙っているのだと。
碧雲は鬼の証である金の目を細め、淡々と語り出した。
「少しづつ追い詰め確実にあいつの息の根を止めてやろうと思っていたというのに……まさか子を成すとは思わなかった。番の存在を知らないあいつに子が出来るとは思わなかったからな」
(番? どういうこと?)
「まったく忌々しい。あいつの子であれば次代の妖帝となり得てしまう。このままその腹の子が生まれてしまうのは私としては困るのだ」
「っ!」
語りながら、目に宿るのは憎しみの感情。
その視線が膨らんだ腹に向けられ、思わず美鶴は身を縮こませた。
「なに、腹の子さえ死ねばお前まで殺しはしない。今日のうちに弧月にも死んでもらうからな」
「ひっ⁉」
「させませぬ!」
恐れる美鶴を守る様に小夜が間に入る。
だが、男の力に敵うはずもなく簡単に押しのけられてしまった。
「きゃあっ」
「小夜っ⁉」
倒れる小夜を心配する美鶴だったが、すぐに碧雲に捕まってしまう。
首に腕を回され、顎の部分を乱暴に掴まれる。
「うぐっ」
「さあこれを飲め、堕胎薬としても使われているほおずきの根を煎じたものだ」
頭を固定された状態の美鶴の口元に竹筒が近付けられた。
「確実に子が死ぬようにまじないも加えた。なに、通常であっても死産など珍しくはないのだ。気にすることでもなかろう?」
(なにを……勝手なことを!)
あまりの言いように怒り以外の感情など吹き飛んだ。
確かに流産も死産も珍しくはない。
だが、だからこそ大事に産み育てるのだ。
(命を何だと思っているの!)
美鶴は生まれて初めて、燃え上がるような怒りを感じた。
でも、今はその怒りを声に出すわけにはいかない。
「そら、口を開け」
「ぐっ」
口を開けたとたんにその堕胎薬を流し込まれてしまうだろう。
グッと歯を食いしばり、唇が開かぬように力を込めた。
「まったく、手間をかけさせる」
重くため息を吐いた碧雲は、美鶴の顎を掴む手にさらに力を込める。
「ぐぅっ」
顎骨を締められ、閉じていられなくなった美鶴の口にはすぐに薬が流し込まれてしまった。
飲みこまぬようにと吐き出そうとするが、今度は鼻も含めて大きな手のひらで口を塞がれてしまう。
息も出来ぬ状態。
飲みこまずにいることは無理だった。
ごくり
苦し気に呻く美鶴の喉が動く。
嚥下したのを確認した碧雲は笑みを浮かべた。
「飲んだか。ふむ、念のためもう少し飲ませておくか?」
「止めなさい!」
一先ず美鶴が堕胎薬を飲みこんだことで気が緩んだのだろう。
小夜の叫びと共に放たれた風の刃に碧雲は反応するのが遅れた。
ひゅっと風の切る音がしたと思うと、碧雲が持っていた竹筒が真ん中から真っ二つに割れる。
中に残っていた薬が落ち、茵に染み込んでいった。
「ちっ、まあいい。少しでも飲んだのなら効果はあるだろう」
少々不服そうにしながらも目的は果たしたと碧雲は美鶴の拘束を解く。
その隙を突くように、美鶴の手から青い炎が出現し碧雲を襲った。
「なにっ⁉」
驚き、警戒した碧雲は青の炎に包まれながらも美鶴をつき飛ばす。
「かかりましたね! 残念でした。私は美鶴様ではありません!」
してやったりと笑みを浮かべた美鶴は、直後狐の耳としっぽを持つ灯の姿になった。
狐と狸の妖は化けるのが得意なのだそうだ。
予知のことを話し、対策を練っていると灯が身代わりになると申し出た。
そのとき初めて灯と香が変化するところを見たが、見た目だけは本当にそっくりで鏡でも見ているのだろうかと思ったほどだ。
しかし身代わりは危険ではないかと美鶴は案じた。
だが薬を飲まされることは分かっていたので、その薬さえ無くしてしまえば予知の未来は覆るはずだという双子の意見に小夜も同意したため、このような作戦になったのだ。
一部始終を隠れて見ていた美鶴は、薬が使い物にならなくなったのを確認して安堵の息を吐く。
予知は覆った。
とにかく、これで腹の子が死んでしまうということは無さそうだ。
だが、碧雲という脅威が去ったわけではない。
もう一度気を引きしめようと息を吸い込んだ美鶴は、そのまま呼吸を止めてしまう。
凍えそうなほどに冷たい感情が乗せられた金の瞳と、目が合ってしまった。