犯罪都市に生きる人々
『エルザシティ』、その街の名は世界中から、そしてその街に住む人々からも侮蔑を込めて呼ばれる。
世界でトップクラスの犯罪率、盗みどころか殺人さえ日常茶飯事。マフィアが幅を利かせ、道端には家を無くした人と、酔っぱらい、そしてリンチを受けた人が横たわっていた。
虐げられ、絶望した人々は時に宗教にのめり込み、時にクスリで現実を拒絶し、時につらい思いをするくらいならばと自ら悪の道に足を踏み入れた。
世界で有数のオリジンズ災害の少ない場所なのにそんな有り様だから、エルザシティは世界中から嘲笑されている。
その中でも特にバカにされているのが、この都市に蔓延る悪を取り締まるはずの『エルザ市警』である。
街の中心部にある立派な警察署本部がまた滑稽さと無能さに拍車をかけ、何の役にも立たない税金の無駄使いだと日夜唾を吐きかけられている。時に自分達の成果を強調するために賞状の受け渡しをしたり、市民との交流イベントを開いている広い中庭なども批判の対象だ。
その中庭の端にあるベンチで一人の若い男が肩をがっくしと落としていた。
「ぼくは何をやっているんだろ……警察なのにぼくは……何をやっているんだ!『フレデリック・カーンズ』!!あぁぁぁぁぁっ!!」
自分の失態を思い出し、髪をかき乱し、足をドタバタと蹴り上げる。それを通りかかった同僚が哀れむような目で見つめるだけで、決して近づこうとしなかった。たった一人を除いて……。
「荒れてるな、カーンズ」
「マクルーア先輩……」
「ロニーでいいよ」
『ロニー・マクルーア』はフレデリックより一回り大きく爽やかな体育会系を思わせる。線が細く、見るからに頼りないフレデリックと比べるのが申し訳なくなるくらい堂々としたまさしく“刑事”らしい男であった。
「隣いいか?」
「あっ!はい!」
フレデリックは慌ててベンチの上を横滑りする。ロニーは空いたスペースに腰を下ろすと、手に持っていた二本の缶のうち一本を後輩に突き出した。
「ほい、コーヒー。ブラックを買おうかと思ったが、苦いのはダメかもしれんし、こういう時は甘い方がいいと思ってな。甘いのが嫌とかないよな?」
「はい!甘いのが欲しい口になってました!いただきます!!」
缶コーヒーを受け取ると、フレデリックは一度軽くお礼のお辞儀をし、蓋を開け、一気に缶の半分ほどを口に含んだ。
「ぷはっ!」
「コーヒーってもっとゆっくり飲むもんだと思うんだが……」
「すいません……考えてみればずっと飲まず食わずだったもんで……」
「堪えたようだな……ひったくりを取り逃がしたの」
「……はい」
自然に指に力が入ったが、缶が固かったためにへこむことはなかった。
「目の前で悪事が行われたのにぼくは……杖をついたおばあさんを狙った卑怯極まりない犯人に追い付けなくて……!!」
「そりゃ許せないよな……自分自身が」
「ええ……ぼくはぼくが……情けない自分が許せない……!!」
さらに指に力が入る。フレデリックは今述べたように何よりも自分の非力さに腹を立てていた。
「まぁ、新人がそう思い詰めるな。つっても、お前は納得しないだろうが」
「市民にとって刑事が新人かベテランなんて関係ないですからね。大切なのは自分に迫る脅威から守ってくれるかどうか……」
「おっしゃる通り。じゃあやることは一つ。くよくよしてないでとっとと二度とこんな失態を犯さないくらい強くなれ」
「言っていることはその通りですけど……」
「言われて、すぐできたら苦労しないよな」
「はい」
「結局目の前にあることに対処し続けて、一歩一歩進んでいくしかないってことだな」
「その最初の一歩に何をすればいいのか見当がついてないんですけどね、自分は……」
フレデリックははぁ~とため息をついて、また肩を落とした。
「また振り出しに戻るか?元気出せよ。そうだな……とりあえず明日、俺についてくるか?」
「……え!?いいんですか!!?」
生気のなかった顔を一気に紅潮させ、後輩は先輩に詰め寄った。
「近い!近い!!」
「す、すいません……つい……」
我を取り戻したフレデリックはペコペコと頭を上下させながら、ロニーから顔を離し、姿勢を整えた。
「えーと……何の話だっけ?」
「明日、ロニー先輩について行くって話です」
「そうだそうだ!俺なんか何の変哲もないしがない刑事だがお前よりはこの職業長くやっているからな。何かしら学べることがあるだろ」
「はい!前々から先輩からご教授願いたいと思っていました!」
「そうか。なら決まりだな。明日、“世界一忙しくて、世界一役に立たない”と揶揄されるエルザシティの刑事の立ち振舞いって奴を教えてやるよ」
「よろしくお願いします!」
「そこまで気合入れるもんなんかじゃないけどな」
そう言うとロニーは立ち上がり、手を振って、ベンチから去って行った。
「気合入れるなって言っても……入っちゃうよね」
フレデリックは残ったコーヒーを飲み干すと、このベンチに腰を下ろした時よりも軽くなったように感じる身体で勢いよく立ち上がった。
「まずやるべきはゴミ箱に……」
そしてそのまま空き缶を捨てに歩き出そうとした瞬間……。
「私がやっておきますよ」
どこからともなく目の前に帽子を目深に被った清掃員が現れ、きれいな手の平を差し出して来た。
「あっ!ありがとうござい……ます!?」
目線を上げ、清掃員の顔を確認したフレデリックは言葉を失った。
甘く優しい声色で話しかけて来た男は顔の造りはとても美しく、所謂イケメン、美男であった。けれど、そのせいで彼が声を詰まらせたのではない。
彼の喉を詰まらせたのはその端正な顔立ちを台無しにする大きな火傷の跡。見ているだけで痛々しいそれがフレデリックの言葉を奪ったのである。
「この火傷跡……気になりますよね?」
「あっ、はい……じゃなくて!あの!?なんか……すいません……」
最低限の人間としての常識と倫理観を持ち合わせているフレデリックは失礼を働いたことを素直に謝罪した。
「いいんですよ、慣れてますから。昔、家が火事になりまして、その時に」
「はぁ……」
「健康面では何ら問題がないんですが、就職においては……まぁ、基本門前払いですよ。この清掃の仕事にも漸く就けたので、お見苦しいと思いますが、あまり邪険にしないでください」
「そ、それはもちろん!大切なのは仕事を真面目に取り組んでいるかです!あなたは……」
「木原史生です」
「木原さんは立派にやっていますから、きっとみんなも気に入ってくれます」
「そうだといいんですが」
「大丈夫ですよ!それでももし何か嫌味を吐くような奴がいたらぼくに、フレデリック・カーンズに言ってください!まだまだ新人ですけど……なんとかします!」
フレデリックは精一杯胸を張り、ドンと叩いてみせた。
「では、その時はフレデリックさんにお世話にならせてもらいますかね」
「そんな時が来ないのが、一番ですけど」
「ですね。空き缶、預かりますよ」
「はい。では、甘えさせていただきます」
フレデリックは木原に空き缶を渡した。
「あと襟が変になってますよ」
「え?」
「じっとしててください。すぐに……はい、直りました」
空き缶を持った手とは逆の手で木原はちょいちょいとフレデリックのスーツを整えた。
「何から何まで……ありがとうございます」
「この程度、お礼を言われるようなことじゃありません」
「いえいえ!お礼なんて言うのも言われるのも、たくさんの方がいいです!」
「ですね。では、今度は街を守って、市民の方からたくさん言われてください」
「はい!その為にこのフレデリック・カーンズ!一層努力します!」
フレデリックは敬礼をするとその場から離れた。
ふとその瞬間、木原の顔……ではなく、きれいな手のひらが頭に甦った。
(清掃員にしてはきれいな手のひらだったな……って!なんて失礼なことを思っているんだ、ぼくは!単純に掃除前だっただけかもしれないし、作業中は手袋をしているだろうから、何らおかしくないだろうに!!)
また自己嫌悪に陥りそうになったフレデリックは頭をブンブンと振り、余計な雑念を吹き飛ばした。
その様子を背後から木原史生と名乗っている男はじっと見つめていた。
(一見、ただの不甲斐ない新人刑事に見えるが……妙に気になる。最近勘が冴えているし、少しマークしてみるか)
これが木原とフレデリック、この混沌としたエルザシティを更なるカオスをもたらす二人の初対面であった。