夢と夢のような光景
これは、シアンがまだ小さい時の記憶だ。
ベットの上、あの子は苦し気な声で呻き声をあげていた。
閉じられた瞳。噛み締められた口元。
纏わりつく黒いもや。
それをシアンは、どうにかしようと、弟、エール・アーシェルトの手を取った。
小さな、本当に小さな手に、シアンのこれまた小さな手が重なる。
シアンには、エールに纏わりつくもやを、どうすれば対処できるのか、不思議と分かっていた。
なぜかは分からない。
ただ、分かるのだ。
それへの対処法が。
だからシアンは、それを実行しようとして、
ドン。
手を握っていた相手、エールに突き飛ばされた。
よろよろとシアンは二、三歩後ろに後ずさる。その顔は困惑に満ちていて、
「エール……?」
弟にそう問いかける。
するとエールは、先程まで閉じられていた瞳を開けて、ぼうっとこちらを見ていた。
表情がごっそりと抜け落ちており、どこか不気味な様子だ。
小さく口が開かれる。
「お前のせいだ」
「え……?」
「お前のせいだ!」
普段からは想像もできないような大声。
それがシアンの鼓膜をつんざく。動揺しながらも、シアンはエールに問い掛けた。
「え、エール? ど、どうしたんだ? な、なにを……」
しかし、シアンの声はそこで止まってしまう。なぜなら、エールがシアンを睨みつけていたからだ。
憎しみを煮詰めたような、どろどろと負の感情が渦巻く深紅の瞳で、エールはシアンを睨みつけている。
シアンはそんなエールの様子が全く理解出来なかった。なぜそんな目で見られるのかも。エールがそんな感情を持っているのかも。シアンには全く分からず、ただただそこに立ち尽くす。
エールはそんなシアンにさらに、言い募る。
「お前さえいなければ。お前のせいで!」
「……っ!」
シアンは泣きそうな顔で、一歩後ずさる。
頭の中が混乱していた。
ただ、なぜという言葉が頭を埋め尽くす。
なぜなら、最近のエールは本当に幸せそうだったからだ。
誰からも称賛され、期待されていた。
虐げられることも、陰口をたたかれる事もない。
エールを取り巻く環境は劇的に改善したはずだった。
だから、シアンは分からなかった。
エールは幸せになったはずだった。
それとも、自分が知らないところで何かあったのか?
それに気付けなかったから、今そんな顔をするのか?
と、それまでシアンを睨みつけていたエールが、急に苦し気に顔を歪める。
そして、小さな手をシアンに必死に伸ばすと、
「助けて。助けて、兄様……!」
そう、シアンに言ってくる。
それは、先程までの態度とは全く違っていて、シアンは困惑する。
分からない。
分からない。
分からない……!
エールの青藍の瞳から涙がこぼれ落ちる。
必死にこちらを見つめて、助けを求めてくる。
それにシアンは、動けない。
あまりにも目まぐるしく変わる状況についていけない。
エールの責める声、睨みつけてきた瞳が深くシアンの心を抉っていた。
「助けて、兄様。助けて」
すがるような声。
その様子は、先程までの様子とは全く違っていた。しかし、いつものエールに近いような気がした。
だが、それは本当にそうなのか?
自分を恨んでいるエール。
自分に助けを求めるエール。
どちらが、本当のエールなのか。
分からない。
エールの体が黒いもやに浸食されていく。
それにシアンは、動けない。
まだ、動けない。
「にい、さま……」
エールの声がか細くなっていく。
今にも消えそうな声で必死にシアンに助けを求める。
シアンはまだ動けない。
「に……さ、ま……」
ぱたりと手が落ちる。
動かなくなった体。
それにシアンはハッとして、
「エール……!」
弾かれたように、エールに駆け寄った。
「エール……? エール!」
だが、どれだけ揺らしても、呼びかけてもエールがもう一度目を覚ますことはなかった。
助けられるはずだったのに。
助ける方法を、知っていたのに。
それを使えば、助けられるはずだったのに。
だが、実際は見殺しにしてしまった。
それは、自身が殺してしまったのと同義で。
「あぁああああああああああああああああああああああああああ!!」
ばっと、シアンは起き上った。
全身にぐっしょりと汗をかいている。不快なそれ。
だがシアンは、それよりも先程まで見ていた夢の中の、弟の様子が忘れられなかった。
もう、七年も前の出来事だというのに。
いや、七年しかたってないと言うべきか。エールが死んでからもうそれだけの年月が経っていた。
だが、いつまで経っても、どれだけ時が過ぎようとも、エールの最後のすがるような瞳が忘れられなかった。
今も鮮明に思い出せる。
シアンは、ぐしゃりと前髪を掴むと、小さな、本当に小さな声で、
「エール――」
そう、弟の名前を呼んだ。
――カタン。
小さなその音が、自分の世界に入り込んでしまっていたシアンの耳に響く。
シアンはそれに、ハッと視線を音の方に向けた。
朝日が差し込む寮の一室。
向かい側の壁のベット上。
そこに、昨日主従になったばかりのルトが眠っていた。
魔法使いと騎士の二人組、主従。
それは、互いを支えあう存在だ。
騎士は魔法使いが魔法を発動するまでの間を守護し、魔法使いは全てのものを薙ぎ払う。
互いを信頼し、命を預け合う存在。
主従になったものは原則、入学から卒業まで一緒の部屋で過ごす事になる。
なので、同じ室内に居る事は至極当たり前の事なのだが、
「……っ!」
シアンは慌ててルトから視線を外した。
なぜかというと、それはもう、はだけていた。
ルトのありとあらゆるところが、それはもうはだけていた。
何をどうしたらそんなにはだけるのか、小一時間問い詰めたくなる位はだけていた。
シアンは、先程とは全く違う理由で頭を抱える。
そして、この先、卒業までの三年間、果たしてルトと同室でやっていけるのだろうか。
そんな不安を胸に抱く。
だって、はだけまくってるのだ。
どう考えても青少年の自分の目に毒だ!
そんなシアンの不安をよそ目にルトは眉根を寄せて、
「すぅ……うぅん」
寝返りを打つ。
その際、太ももの服がきわどい所まで捲れあがって。
その様子をシアンは必死で見ないようにする。
これはワンチャンちょっと見てもいいのでは!? いやいや。駄目だろそれは! などと頭の中で葛藤しながら、何とか見ないようにする。
だが、さらにルトが寝返りを打ちながら、
「うぅん……後二十時間……」
「いや、それはもう明日だけどね!?」
その発言に思わず突っ込んでしまうシアン。目を開けてルトの方を見る。見てしまう。
途端広がる楽園。
これは、もう、なんというか絶景だ。
白い、透き通るような太ももがそれはもう、惜しげもなく見えていた。
シアンはその光景に一瞬固まる。
女の子に免疫などあるはずもないシアンにその光景はあまりに眩しすぎた。
だが、なんとか動かない体を無理やりに動かすと、自分の体にかかったままだった布団をルトの方に投げる。
ふわりとした軌道で投げられたそれは、眩いばかりに見えていたルトの体を無事に隠す。
ほっと息を吐くシアン。
一件落着。
取り敢えずこれで、目のやり場に困る事はなくなった。
だがルトの方はと言えば、シアンの事など素知らぬ様子で。何事もなかったかのように又、眠り始めた。
「おい! 寝るなって! もう朝だぞ!」
「ううん……起きて、寝る……それで一日、です……ぐぅ。だから……起きなければ明日じゃ、無い、です……ぐぅ」
「いやいやいや待て!? どういう理屈だ!? って、おいこら! 起きろ! 寝るな!」
「うるさい、です」
ルトはそれだけ言うと、シアンの布団を頭までかぶって、そのまま、すやあと眠ってしまって。
それにシアンは茫然として、そして突然なにもかもやる気が抜けてしまった。
というか、元々シアンにはやる気なんてこれっぽっちもないはずだった。
その為に、主従の相手を決めずに入学式に参加しようとしていた位なのだ。その位やる気がなかったはずなのに。
なぜ僕はルトを起こしてるんだ? おかしいだろう。うん。おかしい。
シアンは頭の中でそう大きく頷くと、おもむろに布団に横になって目を瞑る。掛け布団はルトに投げてしまったので無いが、もはやどうでもいい。
よし寝よう。
それがいい。
学園に行くよりいいものがそこにある。
うん。今度はいい夢を見られそうだ。きっと。
シアンはそのまま眠りに落ちようとして、
「ぐああ!?」
突然の衝撃。
シアンは何が起こったのか分からない様子で、体を起こす。
そして、周りを見回して、先程までとは違うものを見つける。
ルトだ。
ルトが、ベットの上に腕を振り切ったポーズで立っていた。そして、先程までは無かった枕がシアンの近くに転がっている。
シアンの枕は動いていない。つまりこの枕はルトの枕だ。
それらから推測されるのは、
「って、なんで僕は枕を投げつけられたの!?」
「何やってる、です? 起きる、です」
「それはこっちのセリフだよ!?」
「どういう意味、です? ボクはこの通り起きてる、です。キミが寝てる、です」
「いや、一瞬前まで逆だったよね!? そうだよね!?」
「寝惚けた事言ってないで、このままだと遅刻する、です」
「もおおぉおおおお!! 何で!? 何で立場逆転してるの!? いつの間に逆転したの!? ほんとにどういう事なの!? もはや意味が分からないんだけど!!」
うがああ! と喚くシアンにルトは首を傾げて、
「なにを騒いでる、です?」
「騒ぎたくもなるよ! もう! 僕は起きないぞ! こうなったら意地でも起きない! おやすみ!!」
シアンは、布団……は無いので、ルトの方とは逆向きに向いて寝転ぶと目を閉じた。
寝てやる! ふて寝だ!
そんなシアンに、ルトは半分眠っている様子でベットの上で仁王立ちしている。
少しの間。
しんと静まり返った室内に、シアンはちらりとルトを盗み見る。
ルトはと言えば、おもむろに、足元の布団を拾った所だった。
片手に持った布団を、半眼で見つめる。
いくらか布団を見つめて、ふいに、それを振りかぶると、シアンの方に投げた!
ふわふわの布団が、それとはあるまじき速度と、威力を持って飛ぶ。
そんな布団にシアンは、目を見開いて、
「ちょ、ちょちょちょ!? 待った! 待った!?」
しかし、避けられるはずもなく、
「ぐもあ!?」
布団に襲われて後ろに倒れ込む。
布団の中でシアンはぷるぷると怒りで震えた。
これは抗議しないとやってられない。
大体寝るって言って全然起きなかったのはルトなのだ。なのになぜ、いつの間にか僕が怒られる立場になっているのか全く分からない。抗議だ。これは正当な抗議だ。
シアンは、顔にかかった布団を勢いよくはがすと、
「君……」
抗議を口に出そうとした。だが、途中で止まってしまう。
なぜなら、ルトの手が腰の剣に添えられてチャキンと音を立てたのだ。
この距離で魔法使いが騎士に勝てる事はない。
シアンはホールドアップすると、
「ああああうんそう。今起きようと思ったんだって。本当、そう本当に……はあ」
降参した。