27 親父が呆けた
暦は12月に差しかかった。私は相変わらずの日々のルーティンに乗っかりながら、家庭裁判所の調停の対応をしていた。職場にはこちらから連絡することはない。もちろん職場から何か連絡があることもなかった。放ったらかしである。
12月10日の昼下がり、スマホが鳴った。実家の隣の家のご婦人からである。
「浩司君。お父さんが家の鍵がない言うて大騒ぎしてるねん。最近奇妙なことを口走ったり、夜中に近所の家のドア叩いたり様子がおかしいねん。すぐ来てくれるか?」
私は急ぎ、バイクで実家に向かった。
親父は市内の実家で独り暮らしをしている。前妻との離婚問題で対立し、以後は疎遠になっていた。最後に会ったのは4月である。
いくら関係が悪化しているとはいえ、関係ないでは済まないのが日本社会。「扶養」という概念が強すぎるのだ。逃げようにも逃げられないという現実に直面した。
久しぶりに会う親父・・・明らかに様子がおかしい。思い返せば、私が体調を崩す直前頃から奇妙な電話をかけてくることが時々あった。間違いなく認知症・・・だろう。
すぐさま地域包括支援センターに相談し、要介護認定の申請を行った。年明けに出た結果は「要介護1」。ヘルパーとデイサービスを使うことにした。そして実家はゴミ屋敷と化していた。ルーティンに実家の掃除が加わった。
何より困ったのが、親父の年金や支払い関係の情報が全く分からなかったことである。とりあえず銀行の通帳から情報を拾い、さらにはタンスの引き出し等を漁って書類を集め・・・一件一件解明していった。預貯金は相当目減りしていたが、負債がなかったのが不幸中の幸いであった。
一難去ってまた一難・・・神は我を見放したか・・・?一時期流行ったフレーズが脳裏をかすめる。しかしこれとて、私が中央児童相談所で仕事を続けていたら対応できなかったことである。起こるべき時期に起こったこと・・・そう考えることにした。
実家の掃除は想像以上に大変で、何度クリーンセンターを往復したことか・・・結局3ヶ月以上かかったが、何か決まってやるべきことがあるというのは私の治療上も良かったようだ。
しかしながら、それと反比例するように親父の認知症は進んでいく。きれいになり過ぎた実家が自分の家と認識できなくなってしまったのだ。夜中に徘徊して警察に保護されたり、勝手にデイサービスに出かけて行って連れ戻されてきたり・・・在宅生活の限界は刻々と迫ってきていた。




