迷惑系ユーチューバーとローマ
現在はローマ帝国の衰亡期によく似ていると思う。その一例を簡単に紹介しておこうと思う。
ローガン・ポールという世界的に人気のユーチューバーがいる。めちゃくちゃな事をしている様を動画で流し、それが若者を中心に人気という事らしい。日本でも富士の樹海の死体を映したというのが問題になった。
ローガン・ポールもそうだし、元アメリカ大統領のトランプなども同種の存在ではないかと思う。つまり、好き放題しているセレブを見て、大衆が喝采を送るという構図である。これは、ローマの暴君、ネロやカリグラらの好き放題とよく似ていると感じる。
高坂正堯は名著「文明が衰亡するとき」で、モンテスキューの言葉を引いている。モンテスキューは次のように書いている。
「カリグラ、ネロ、コモドウス、カルカラの類は、気違いじみていたからこそ、かえって人民に慕われた。それというのも人民の好きなものに気違いのように心を打ち込み、自分たちの権力をあげてこの仕事に当り、自分の快楽のために自分の体すら犠牲にしたからである。さらに、人民のために帝国の富をもこれにあてた。その上、それを使い果たしてしまうと、人民は大手をふって豪族を残らず赤裸にした。彼らは暴君政治の果実を楽しんだ」
これに、高坂は次のようなコメントをつけている。
「つまり、ローマ帝国は基本的に大衆の支持にのっかった専政、あるいは独裁政であったというわけである。」
この言葉は、今の世の中に実によく当てはまる。
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ローマの歴史を見れば今の世も明らかだと言いたいが、もう少し付け加えたい。
暴君を支持するとはそもそもどういう事か。それについて考えてみたい。
ある人と先日話してして「最近の個人崇拝が気になる」という事を言っていた。その言葉が、ヒントになった。
ユーチューバーを見るとわかるが、そこにあるのは個人崇拝である。ある人間が人気であって、その人間の行動や言葉が評価されるというより、その人間そのものが人気であるかどうかが問われる。これは大衆社会的なものだろう。
俳優なども、ある俳優が数字(視聴率)を持っているかどうかが問われる。ドラマ自体が面白いかどうかよりも、好きな俳優が出ているから見るという人が多い。そうしてその俳優がただの俳優ではなく、タレント稼業が中心だったり、アイドルがドラマに出るというのもこの流れからは当然だろう。求められているのは業ではなく人、個人だからである。
私はあるめちゃくちゃな老人を知っている。名前を出すと面倒なので隠すが、最近、その人のツイッターをこまめにチェックしていた。
その人間には信者が大勢ついている。しかし、この老人の言動は支離滅裂である。昨日、Aという事を強く主張したかというと、明日はB、明後日はCという感じで、私はかなり面食らった。
ところが信者の大勢はその支離滅裂にどこまでもついていく。彼らは「頑張ってください」と言うが、一体この人達は何を頑張って欲しいと思っているのだろうか、と私は疑問に思った。というのは、「頑張る先」がこの人物においては一貫していないからだ。
しかし、考えていくと、信者の気持ちもわからない事はない。要するに信者は、その老人が何をしようがどうでもいいのだ。老人がAをする。信者は「頑張ってください」と言う。老人がBをする。信者は「頑張ってください」と言う。信者は老人の好き放題、支離滅裂を支持しているのだろう。知性による制限のない、また、セレブではない自分にはできない好き勝手に暴れる様を、信者は支持している。そこに共感する事によって、自分の中にあるものを肯定しようとしている。これが彼らの「頑張ってください」の意味ではないかと思う。
ネットの個人崇拝はこんな話ばかりで切りがない。そのうち、ユーチューバーが人を殺して捕まっても「頑張って、罪を償ってください」と信者は応援するようになるだろう。さらなる一線を越えると、人殺しを応援する所まで至るだろう。私は大衆社会はそこまで行くと予想している。それはまさに、ネロやカリグラの世界だ。
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話を戻す。暴君を応援するとはいかなる事か。
それは、一貫性を求めないという事である。また、その人間の行為とか、言葉ではなく、その人間そのものを支持するという事だ。芸術で言えば、作品ではなく作者を支持するという事だ。
行為ではなく、人間を支持するとは、人間を規定するものがないという事だ。わかりやすくする為に芸術家という例で考えよう。
芸術家は作品を作る。作品で勝負する。死後に評価される芸術家というのは、作者は死んでも作品は残る。作者そのものの滅亡は作品の滅亡とイコールではない。しかし、生前に持て囃された芸術家が、死んだら誰も見向きしなくなる人というのもいる。政治家にもそんなタイプがいる。独裁者は多く、その生そのものに権威の基盤を持っている。したがって、彼が死ねば評価が急落する。独裁者は、その生そのものに人々が思い入れをするので、彼が死んだという事がそのまま彼の評価失墜に繋がる。
芸術家は作品で勝負しなければならない、という事はどういう事だろうか。それは、彼がどれほどの大御所であろうと、どれほどの名声があろうと、作品そのものの良し悪しはそのまま担保されていないという事だ。作品は、作者を制限する。作品が駄目ならば、作者がどれほどの人格者であろうと、地位が高かろうと、芸術家としての実力に疑問がつく。芸術家は作品が先行している限り、好き勝手にできない。彼は好き放題にできない。仮にやったとしても、その好き放題に彼の価値はない。価値は、あくまでも作品にある。作品は彼の存在を越えていく。
一方、個人崇拝されるアーティストはそうではない。個人崇拝のアーティストは、どんな愚作を作って世に出そうが、その人物が作ったという事で評価される。しかし、実際には信者らは、アーティストの作品そのものを見ていない。彼らはアーティストの存在を肯定している。アーティストが右に行けば右が正しいと言い、左に行けば左が正しい、と言う。価値基準がないので、好き勝手がそのまま基準になる。こうした事は自らに対する制限とか秩序を取っ払いたいという動物的本能に根ざしたものなのだろう。
ちなみに言えば、信者の反対のアンチは、実際には信者と全く同タイプの人達だ。アンチもまた作品を見ない。嫌いな人間の作ったものは全て駄目だしをする。否定する。全てを肯定する信者とベクトルは逆だが、作品そのものの価値を見ようとしないという点では全く同じである。彼らは同種に分類される。
信者もアンチも、価値判断を持っていないという点では一定している。自分の頭で考えない。判断できない。判断というのは思考力を必要とする。外側から入ってきた情報を吟味し、自分で結論を出す必要がある。情報が入っていくる所と、答えを出す間に、介在作用が入る。それが思考だが、この思考を人は嫌う。
作品が問題となるならば、作品そのものの価値を吟味しなければならない。それには労力を伴う。それより崇拝している人間の言葉を鵜呑みにして、嫌っている人間の全てを否定すれば楽でいい。ネットがこの方向に傾斜しているのは見えやすい所だろう。
ローマ帝国の崩壊もまた、ローマ人が自分達の信じるものを失い、自分達を規定するものを否定して、自分達を中心に世界が回っていると思い出した時、始まった。人は自分を制限する何物かと格闘する事で、価値を作っていく。その苦しい闘いに勝利し、世界帝国を築いたとすれば、その勝利そのものが崩壊・敗北を呼び込む。自分の外側に、自分達を越える何物も見たくないと思うようになる。自分達を中心にしてしまえば、自堕落になり、それぞれの利害は錯綜し、それぞれに足を引っ張りながら崩壊していく。やがて、やけっぱちになった精神は、好き放題にしている人間を捉えて喝采を送る。
放っておけば庭には雑草が伸び放題になる。荒れ放題の庭を見て「草が自由にやっているなあ」と言う人はいないだろう。しかし、人間の心はどうか。心にも雑草は生えるし、それは好き放題、勝手にやる事だ。みんなが好き勝手やっているのに、自分だけやらないのは損しているような気持ちになるだろう。迷惑系ユーチューバーのようなものはこれからもっとエスカレートするかもしれない。
もっとも恥ずべきものが、恥ずべきものであるという理由によって大衆の喝采を浴びる。自由を放埒と勘違いした精神はどこまでも進んでいく。古代ローマは、異民族と邪教(キリスト教)の拡大によって滅びたが、この社会がどのような異物によって滅びるかはわからない。ただ放埒の果てがどこに至るかは、歴史的に確定しているとそう思う。私達が進んでいるのは進歩でも革命でもなく、ただ心の雑草を伸び放題にさせている状態だと思う。しかし、それを認識せよ、と世界に対して号令はできない。歴史は人間の行為の集積であって、個人がそれに対して命令する事は決してできない。