第六話
アビゲイル・コルビーの心中は混乱の真っただ中だ。室内には心地の良い日の光が差し込み、開けられた窓からはやさしい風が吹き込んではレースのカーテンを揺らす。品のいい落ち着いた色合いのカーテンには様々な花や果実の刺繍が施されていて、深緑のタッセルはほつれひとつない。
ふかふかの絨毯は複雑な模様が絡み合い、テーブルや椅子は飴色に磨かれて艶々と輝いている。飾られた花はやさしい香りを漂わせ、壁には遠い海を望む風景画がある。
アビゲイルはビロードの背もたれに背中を預けることができないまま、目の前のティーカップに視線を落とした。暖かい紅茶は湯気を立てて、アビゲイルの顔を映している。鼻をくすぐるやさしい香りにはかすかに果物の香りが混じっていて、色も心なしか橙色が強い。白磁に深い青色の小花柄のカップは、縁に金色の装飾がされている。
「遠慮なさらないで」
目の前の彼女が茶を勧め、自分もまたひとくち啜った。アビゲイルはそんな彼女を眼鏡の内側から恐々と見つめる。
アビゲイルと正反対に背もたれに預けられた体はくつろいでいて、しかし、指先ひとつに至るまでだらしなさとは無縁の気品と言おうか、彼女にはそういうものがある。アビゲイルにはついぞ無いものだ。それは、育ちの良さや約束された家柄がもたらす安心感と責任感から来るものだということを、アビゲイルは嫌というほど知っている。
柔らかな金色の髪はまるで川の流れのようにその細い肩から流れ落ち、伏せた長い睫毛の間から鮮やかな緑の瞳が覗いている。花弁のような唇は淡く色づき、カップを持つ長い指の美しい作りはその光景だけでひとつの絵画のようでもある。
深窓の令嬢とでもいうべき彼女の傍らに、青みがかった黒いスーツを着込んだ大柄な執事さえいなければ、どこかの侯爵令嬢に見える。お姫様かもしれない。
実際に、彼女は王女だった。魔物の国の、だが。
「他のお飲み物をお持ちいたしましょうか」
決して大きくはないのに響く声で、夜そのもののような顔をした執事が尋ねた。アビゲイルは肩を飛び上がらせる。
「だ、だいじょうぶです」
彼女の声が裏返ったのも無理はない話で、目の前にいるのは魔物の国の王女とその執事である魔物なのだ。メアリ・アーフィルツ・ド・トイフェルは執事に目を遣り、「せっかくのお客様を怖がらせてはいけないわ」と言った。
「ごめんなさいね。バークスはとても有能な執事で、わたしは大好きだけれど、初対面ではびっくりするのも無理のないことです」
メアリの声は穏やかだった。アビゲイルは、もっと粗野で排他的な物言いをするものだと思っていた自分が少し恥ずかしくなった。突然の来訪にも関わらず、彼女は自分に優しく声をかけ、無礼な態度に眉を顰めることもなくお茶を振舞ってくれている。
思えば、アビゲイルとこうしてお茶をしてくれた貴族はいなかった。同じテーブルを囲むことを許されず、望んだ返事以外の発言を許されず、アビゲイルはただ相手の機嫌を保つことだけに神経をすり減らしてきたのだ。
「今日はどうしてこちらに? 不躾でごめんなさい。でも、わたしたちはここで歓迎されていないから」
苦笑するメアリに、アビゲイルは口ごもった。生来、嘘を吐くということが苦手だ。そもそも人と話すのも苦手な部類に入るのに、偽りを話すなど出来るはずもない。
アビゲイル・コルビーはイスピカ王国の下級貴族の出身だ。父はコルビー男爵で、殆ど辺境の田舎の領地を持っている。隣国のダマル王国──海を挟んだ向こう側にある岩だらけの国で、気候は常夏──のため、気候は変動しやすく、作物は取れにくく、牧羊に頼る他なかった。
コルビー男爵は、元は庶民の商人だったが、この羊の毛を使ったウール製品で一財を成し、爵位を買ったいわゆる成り上がり貴族なのである。商売をする上で必要な信用を、この爵位は底上げしてくれるのだが、いかんせん与えられた領土が領土なものだから出ていく金の方が多い割に、貴族同士の付き合いやらなにやらで更に出費はかさんだ。
そして、先祖代々から続く貴族たちはいわゆる成り上がりものを軽蔑している。
フローレンス・レミントンこそ、その最たるものだとアビゲイルは確信していた。
あの美しい銀髪の令嬢の冴え冴えとした薄いブルーの瞳がアビゲイルの脳裏に蘇る。
フローレンス・レミントンはこのイスピカ王国のレミントン侯爵の一人娘であり、第二王子であるオリヴァー・ゴッドフリード・フォン・イスピカの婚約者でもある。広大な領地を有し、階級は侯爵でありながらも絶大な権力を持つフローレンスの父は、この国の貴族議員のトップだ。友人も婚約者も超一流の、生まれながらの貴族。
「あなた、あの岩山のお姫様のお友達になってさしあげて」
入学式の日、寮へ下がろうとしたアビゲイルに、フローレンスは学園にほど近い一等地に立つ屋敷へ戻る馬車に乗り込みながら言った。
「あの、魔物の……?」
「ええ、そうですわ。彼女、こちらに来て右も左もわからないでしょう? あなたがお友達になって、いろいろと面倒を見てあげればいいと思うの。ほら、あなたは貴族の暮らしも、平民の暮らしもご存じですものね」
アビゲイルはいつもこの美しいブルーの瞳をまっすぐ見ることができなかった。その目の奥の軽蔑しきった光が恐ろしかったのだ。
「あの方、初代の寮に入られたそうよ。どんなお部屋なのかしらね」
フローレンスの声はまるで小鳥の囀りのようで、その辺の男も女もこの声に名前を呼ばれたならばうっとりとしてしまうが、アビゲイルはただただ背中に冷たいものが走るばかりだった。ようは偵察してこいというのだ。フローレンスはアビゲイルを人身御供にする気でいる。
所詮その程度。
アビゲイルは自ら望んでフローレンスの取り巻きになった訳ではない。彼女の周りにいるのは、すべて伯爵以上の貴族の令嬢だ。分厚い眼鏡の奥から卑屈な目で笑うアビゲイルのことなど歯牙にもかけないものばかりの針のむしろにアビゲイルを送り込んだのは、他でもないコルビー男爵だった。父はうまく行かない領地経営に頭を悩ませ、彼女に侯爵令嬢であるフローレンスに取り入るように命じた。
貴族院のトップであるフローレンスの父の承認があれば、自分も貴族院に入ることができると信じている父は、現実が見えていないとアビゲイルは思う。
爵位を買って、庶民出身の議員を集めたいわゆる下院に入ることはもはやできない。議員になるには貴族院しかないが、元庶民を受け入れる貴族はほとんどいない。八方塞がり、枯れていく土地と、羊の鳴き声の止まないあの田舎で腐っていくコルビー家の未来は、そう遠くない将来訪れる。
アビゲイルの手の中で、カップの紅茶は冷めていく。
「レ、レミントン嬢が、慣れない場所で難儀してらっしゃるかもしれないと仰ったので、様子を伺いに参った次第です」
嘘は言っていない。本来の目的は、廃屋同然の寮で四苦八苦しているメアリとその執事を見物して報告することだが、アビゲイルはフローレンスの言葉をそのまま借りた。
「まあ」
メアリは手を口に当て、柔らかく笑んだ。
「レミントン嬢はお優しい方ね。ねえ、バークス」
「さようで」
「いつか、お茶会に招待したら来てくださるかしら。楽しみだわ。ねえ、コルビーさん。よければ昼食をご一緒しませんか? バークスの料理は素晴らしいの。デザートはスグリのパイのクリーム添えよ」
どの道、アビゲイルに断ることはできやしない。口の端をひくつかせながら、ぜひ、と答えた。