第五話
イスピカ国立魔法学園は、入学式から二日の休みを経て、いよいよ授業がはじまる。生徒たちは学生寮からそれぞれ期待に満ちた顔で石畳の道を辿り、学舎に入っていく。
メアリもまたそれは同じであった。新しい教科書やまっさらなノートに胸が躍らないわけもない。朝はバークスの紅茶で一日を祝福し、さくさくのトーストと最高の焼き加減のベーコンとスクランブルエッグ、甘いジャムと焼き菓子で完璧な時間を過ごした。
学園の敷地は広大で、学生寮はもちろん、ランドリースペース、温室、食堂、中庭、講堂があり、学舎はその中心にあるコの字型の宮殿のような五階建ての建物だ。
彼女は新入生向けの案内に従い、学生寮から程近い入り口から学舎に入った。学園の建物は比較的新しく、老朽化するたびに手を加えていることが伺える。堅牢な石造の壁はどんな嵐が来ようとも持ち堪えられそうだ。
一年生はみな三階部分に教室が集められているので、メアリもしっかりと階段を踏みしめて登っていった。建物案内には、一階部分に教師たちの個室などがならび、二階部分は専門教室になっているようだ。
階段の手すりは美しい流線を描いていて、接木したような跡も見受けられない。壁紙は落ち着いた淡いクリーム色で統一されており、生徒が描いたものだろうか、肖像画や風景画が壁にかけられている。何かのスポーツのトロフィーの収まったガラスケースもあった。
そのひとつひとつを目で確かめながら、見知らぬ人間たちが紡いできた歴史のことをメアリは考える。魔王の城に長年の歴史があるように、ここにも、メアリが全く知らずにいた年月の積み重ねがあるのだ。
メアリが割り当てられた教室は、階段を登ってすぐ左隣にあった。教室は緩やかな壇状になっていて、木製の机が右手前方の教団を取り囲むように設置されている。席は自由らしく、生徒が思い思いの場所に腰掛けてすでに半数ほど埋まっていた。
彼女が教室に入った瞬間、ざわざわとした室内はしんと静まり返った。まるで入学式当日の再来だ。彼らの好奇、非難、当惑の目が矢のように突き刺さる中、メアリは平然と歩を進め、一番下の段の左寄りに腰掛けた。側にいた生徒たちが波が引くように席を移っていく。
しかし、ひとりの女生徒がそっとメアリの隣に座った。
背丈はメアリより頭半分ほど低く、色白でふっくらと丸い頬にそばかすが散っている。かわいらしい目鼻立ちをしていて、厚めの眼鏡をかけていた。赤みがかった茶色の髪は肩で揃えられて緩やかなウェーブを描いている。何よりも、メアリが気になったのはその怯えきった態度だ。膝の上で握りしめた拳は小刻みに震えている。
明らかに彼女の意思で座る場所を決めたのではない。強制されたのだ。
その証拠に、背後から忍び笑いが聞こえる。
メアリは振り返らなかった。女生徒に声もかけなかった。魔王の娘の隣で震えている彼女にメアリが声をかけたなら、ただでさえ真っ青な顔色がひどくなるばかりでなく、卒倒しかねなかったからだ。
その後、教師が入室するとすぐに生徒たちは口を噤んだ。メアリの隣の彼女は、授業の終了を告げる鐘が鳴るまでずっと震えて俯いていた。
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メアリは教科書を束ねたバンドを締め直し、足早に寮へと急いでいた。本日は午前中のみ、しかも今後の授業の進め方や選択授業の取り方を教わったのち施設をあらかた案内してもらって済んだ。教師が常にメアリを警戒していたことと、件の女生徒が怯えながらも彼女の後ろにぴったりくっついていたことを除けば、特に何の問題もなかった。
生徒たちはみな昼食を取るために、学び舎と寮の中間地点にある食堂に向かっている。が、メアリはそもそもそこで昼食を摂るつもりはなかった。バークスのこしらえる料理のすばらしさをよく知っていたからだ。昼食を楽しむ生徒を無暗に怯えさせるつもりもなかった。
学園の授業は一般教養と言われる数学や語学、歴史、物の成り立ちと法則を学ぶ物理化学などの他、初級魔法、飛行術などが必修となり、週五日に二回ずつ割り振られている。この他に、生徒は薬学や第二言語などが選択できるようになっており、一年を通して必要とされる一定の単位を取得する。
メアリは選択教科リストに目を落とし、何を取ろうかと思案しながら石畳の道を悠々と歩いた。前方から誰が来ようとメアリの姿を見ればさっと道を開けるので、便利だなと他人事のように思う。
そんなメアリを、新たな住まいであるその家が初対面のときとはまるで違う、堂々とした姿で出迎えた。玄関として機能していなかった扉は修繕されて飴色に輝き、真鍮のドアノブと、ノッカーはまるではじめからそこにあったかのようだ。落ち葉は掃き清められ、空き瓶など存在の残滓さえ残していない。割れた窓は新しいものに代わり、レースのカーテンがガラス越しにかすかに揺れている。
メアリは心の中で、まったく完璧だわ、と呟いた。バークスがいかに有能な執事であるかの証左に他ならない。
まるでメアリの帰宅を知っていたかのように扉が開き、夜の色の執事が、主人の帰宅を迎える。
「お帰りなさいませ。メアリ様。初授業はいかがでしたか?」
メアリは満足の笑みをもってそれに応えた。
「ただいま、バークス。今日は説明と案内だけよ。今、あなたの有能さを称賛していたところ」
「光栄です。昼食の用意ができております」
「あなたってまったく完璧だわ」
開かれた扉から暖かいコンソメのスープの香りが漂ってくる。メアリはそれを深く吸い込み、手にした教科書をバークスに手渡した。バークスはそれをコンソールテーブルへと一旦据えて、今度はメアリのジャケットを脱がせてくれる。が、その視線が扉の外へと向けられた。
「メアリ様、お客様のようですが」
メアリはバークスの視線を辿って背後を振り返る。躊躇いがちに玄関ポーチに立ち尽くしているその白い顔に、華奢な身体には見覚えがあった。
「あなた……」
授業中、ずっとそばにいた少女が、唇を青くしてそこにいた。