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第三話

 魔王城の巨大なホールには、多種多様な魔物たちが顔を揃えていた。一口サイズのケーキやサンドウィッチ、艶やかな石を削り出して作ったゴブレットに守られた深海魚の卵の塩漬けや、山岳地帯に生息する岩山羊の乳から作ったチーズなど、あらゆる軽食の盛られたテーブルがいたるところに設置され、参加者の間を縫うように、使用人たちが酒のグラスやゴブレットを手に歩き回っている。


 メアリが王族のみが登ることを許されるホールの一段高い場所に父である魔王と共に立ち、次々に挨拶にやってくる来賓に丁寧に言葉を返していた。


 バークスは、彼女から一歩引いた位置でその光景を眺めていた。ライトグリーンの瞳と同じ色の、鮮やかな緑色のドレスを身に纏い、金色の髪を結い上げて真珠で飾っているメアリは、すっかり一人前の淑女のように見える。


 本当に大きく、美しくなられたものだ、とバークスは心の中でひとりごちた。会話が終わったのを見計らい、飲み物を差し出しながら、彼はメアリを預かったばかりのころを思い返す。


 バークスはスガイルと呼ばれる影の魔物の種族だ。彼らの種族は代々従者として魔王やその並びの魔族に仕えてきた。彼は当時魔王付きの従僕であり、いずれは城付きの執事にと望まれていた。彼にとってそれは無上の喜びであり、誇りだった。だが、魔王は彼に言った。


「バークス。お前は我が出会った中で最も信頼のおける男だ。そんなお前に、この娘を預けたい。これまでの従僕の任を解き、お前と娘に離れを与える。お前にはその離れを取り仕切り、娘に執事として仕えて欲しい」


 バークスはもちろん困惑した。人間の娘の世話の仕方など分かるはずもない。そもそも彼は子を持ったこともなかった。それでも、魔王からの信頼に応えるべく彼は頭を垂れたのだ。


 それからは怒涛の日々であった。メアリはまだ乳飲み子で、人間の乳を必要としても魔物の国に人間などどこを探してもいない。いたとして密猟者くらいのものだ。彼はインキュバスたちにこっそり大陸にゆき人間の乳を集めてもらい、それでも到底足りず、岩山羊や山牛の乳を城に下ろしてもらった。人間の育児方法を探り、人間かぶれの変わり者として有名な砂漠の大公に書物を融通してもらい、何百冊とある本をすべて読み込んだ。おしめを変え、泣けばあやし、耳の奥に残る母の子守唄を口ずさんだ。


 メアリがはじめて立ち上がったときのあの感動は、今でもバークスの胸を震わせる。スガイルの一族は感情をあまり表に出さないが、それでもそのときばかりは手を打って喜んだ。魔王を呼び、その姿をご覧に入れなければと走った。


 メアリに言葉を教え、毎晩枕元で彼女が眠りにつくまで物語を読み聞かせる。恐ろしい夢を見たといって泣いているその小さな体を抱きしめてやり、温かい飲み物を用意する。バークス、と拙い声が己の名前を呼んだあの甘やかな幸福。


 魔物だらけの、人間を受け入れられぬものたちの中で生きていけるようにと各種族の膨大な礼儀作法を教え、国の歴史、数学、薬学と一人で生きていけるように教養を身に着けさせた。様々な生き物と触れ合う機会をつくり、様々な景色を共に眺めた。


「バークス、ちょっと夜風に当たってくるわ。ひとりで平気だから……」


 メアリに声をかけられて、バークスは我に返る。


「は。かしこまりました」


 優美な後ろ姿は、立派な淑女だ。バルコニーに消えていくメアリを見送り、意識を過去に飛ばしてしまっていたことを今更ながら反省する。メアリ付の執事として、己の意識は常にメアリ様に向けられているべきとバークスは信じているし、実際に可能な限りそうしてきた。彼には、彼女のことであれば何だって分かるという自負があった。それが。


 バークスの脳裏に、朝のメアリの言葉が蘇る。


 結婚を考えている相手がいるなどと、バークスは寝耳に水だった。


「……バークス。弱ったことになったな」


 アーフィルツが、視線は前に投げたままそう言った。森に住むエルフたちが奏でる曲に合わせて魔物たちが踊っている。


「さようで」


 実際のところ、バークスは魔法学園の件を知っていた。公務であることに違いはないが、それはあくまで表向きのものである。密猟者に頭を悩ませてはいても、ここは魔物の国、血を流すことなく解決する方法などいくらでもあった。海に渦潮をもたらす、巨大な壁を作る、国土すべてを霧で包む。中には実際に使用したものもある。長い歴史の中で幾度となく繰り返された人間による侵略――人間からすれば魔物との戦争――を終わらせるために。


 トイフェルには広大な国土があり、様々種族がいる。それぞれが環境に身体を適応させ、自然と共に生きている。奪わなければ得られないものなどほとんどなく、人間の住む大陸に大した魅力はない。


 それでも魔王がこの魔法学園入学の話を受けようとしたのは、ひとえにメアリのためだった。人と暮らしたことのない娘に、人間の暮らしをさせてやりたい。魔物しかいないこの国では得られないだろう、人間の伴侶が見つかれば僥倖。そういった、父の思いだけがそこにあったのを、バークスは理解している。魔王の娘と知りながらメアリを愛するのであれば、それが最良の人間であろうと。


 それゆえに、先ほどのメアリの言葉には二人とも動揺した。激しく。


「メアリにそんな男がいたのか? お前が気づかないような、そんな奴が?」


「私の知る限りではありませんが……。申し訳ございません。私が至らぬばかりに」


「いや、いい。おまえはいつも我とメアリに尽くしてくれている。我が腹が立つのは、メアリに結婚などと口にさせるほどその気にさせておきながら、顔も出さず挨拶もせぬその相手だ! まったく忌々しい!」


 アーフィルツは勢いよくゴブレットの中身を飲み干した。すかさず従僕が杯を満たすが、それも一口で空にしてしまう。


「我はメアリに幸せになってほしい……。結婚したいというのならばさせてやりたい。だが……」


「陛下のお気持ちは、きっとメアリ様にも伝わっておりましょう。この不始末、この私めが必ずや」


 魔王の赤い瞳がバークスを映す。バークスはその目の中の、影法師そのものの己の姿を眺める。スガイルという魔物は、どの個体もほとんど同じ見た目をしている。体格に差こそあるが、背格好が似たものが揃えば主人でさえ見分けるのは難しい。


 しかし、メアリは違った。王に仕える他のスガイルと並んだバークスの膝に縋り、その名前を呼んだ。そのとき、彼は心の底から彼女に生涯仕えようと思ったのだ。


 バークスは魔王からの信頼に応えるように、胸に手を当ててみせた。


「お前に任せる。学園生活の間に探ってみてくれ」


「は。私めがその不届き者を必ず探り出し、ブッ殺します」


「我そこまでしろとは言ってない」



 ▲



 ホールでバークスと父がそんな会話をしているとは露知らず、メアリはバルコニーで星を眺めていた。春になったといえど、まだまだ冬の冷たさを残す風が緊張で熱くなった頬を撫でていく。彼女は手すりに身体を預けて小さく息を吐いた。


「魔法学園か……」


 小さいころは、何故周りに人間がいないのか、自分が魔族ではないのかと質問してバークスを困らせたものだったが、メアリはこの国を愛している。魔物たちも彼女を受け入れてくれている。それもこれも、バークスにみっちり各種族の文化を仕込まれたおかげだ。


 この国に骨を埋める覚悟を決め、将来は父の仕事を手伝うものと思い勉学にも励んできた。それが人間の暮らすに大陸に突然渡れと言われても、メアリには現実感がない。


 しかし、言ってしまったことは現実で、アーフィルツもバークスも取り乱していたことは覆せない事実。


 メアリは横髪を風が弄ぶのに任せ、背後のホールの様子を伺った。父と何か話し込むバークスが見える。パーティだからか、いつもよりきっちりとした礼服を着ている彼の表情の読めない夜の空のような顔が、不意にこちらに向いたような気がしてメアリは視線を反らした。


 魔法学園の話を持ち出されたとき、メアリが真っ先に危惧したのは「バークスはいっしょなの?」だった。


 彼女はこの国の姫として、魔王の娘として必要な教養も身に着け、一人で暮らせるだけの家事能力もある。人間の世界に放り込まれて一人で暮らせと命じられれば、きっとできてしまう。バークスがいなければ生活ができないというわけではない。だが、魂を置いて、空っぽのままで生きては行けないとメアリは思う。バークスはメアリの魂だ。


 三年間、学園に通ったら結婚したい魔物の男性がいる。


 そう告げたときの二人の様子からメアリが察するに、二人ともその相手が誰か気づいてはいない。気づかれなくてよかったと彼女は思う。もし気づかれれば引き離されてしまうだろうから。


 幼いころから共にいてくれた。本を読んでくれる低く、甘い錆を含んだやさしい声。カトラリーの使い方を教えてくれた、男性らしい分厚い手。わきまえた身のこなし。高い背。小さすぎる足音。形のいい頭。彼女の名前を呼ぶときに、少しだけ柔らかくなる口調。視線を交わすだけですべてわかられてしまうほどの、年月。


 静かな夜の色。


 メアリは頬を抑えた。ひどく熱い。もう少し冷まさなければ、戻ったときに心配されてしまうだろう。条件が有効であるうちは、学園に通っている三年間この想いを隠し通さねばならない。知られたならば、彼はきっといなくなってしまうことをメアリは知っていた。


 メアリは、バークスのことを愛している。有能な執事としてだけではなく、一人の男性として。


「夜風がお体に障ります。お戻りを」


 低い声がして、メアリが振り向けばそこに夜の色をした執事がすっくり立っていた。手には毛布を持っている。視線を反らし、なるべく顔を見せないようにしながらメアリは大丈夫よ、と答えた。


「バークス。おまえも一緒に来てくれるわね」


「勿論ですとも。私はメアリ様付の執事でございます」


 メアリの肩に毛布をかけながらバークスが言った。


「……そうね。三年間、あなたとなら、きっと楽しいわ」


 どこからか、風に吹かれてやってきた花びらがひとつ、メアリとバークスの前を行き過ぎていった。

 

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