第86話 地獄の日々
どうすれば最小限の怪我、疲れで1日を終えられるか……どうすれば父の機嫌を損なわず訓練を出来るのか、シャリエルの頭の中はずっとそればかり考えていた。
あれから四年……宙を舞う木の棒を眺めながら身体は地面へと近づいて行く、母が死んだあの日から父はおかしくなってしまった。
何かを恐れるかの様に以前までは身につけて居なかった剣を腰に携え、何かに取り憑かれたかの様に木の棒を実の娘たちに振るい続ける、地面へと打ち付けられたシャリエルは疲労で動けず暫く倒れたふりをしようとするが倒れて数秒後、父はそれを見透かして居るかの様に首元を掴み上げた。
「戦場では死んだふりなど通用しない!!倒れている者にも容赦無く剣を突き刺す、死体になったと分かるまで何度もな!!分かったら木の棒を持て!」
父の怒声にシャリエルは怯えながらも木の棒を何度も躓き取りに行く、視界の端には自分の番を終え倒れ込み動かないユエルの姿が映る……生きているのかすら怪しい程に微動だもしなかった。
「余所見をすれば死ぬぞ!!」
ユエルに気を取られ父への反応が遅れる、そして振り下ろされた木の棒はシャリエルの頭を捉え、意識を奪った。
何故母は死んだのか……何故父はおかしくなったのか……誰が悪い訳でもない、やり場の無い怒りを感じながらシャリエルは倒れた。
「お姉様、起きてください」
シャリエルをそのまま小さくした様な可愛らしい金髪の少女、ユエルが地面に転がるシャリエルを揺さぶり起こす、日は沈み空は闇に覆われて居た。
「どれ……くらい、気を失ってた?」
「2時間弱です」
「2時間……ごめんね、ご飯遅くなって」
木の棒を杖代わりに立ち上がるとフラフラした足取りで屋敷へと向かう、屋敷に灯りは無くまるで廃墟の様だった。
「相変わらず不気味ね」
「そう……ですね」
ユエルに肩を借りながら物音一つしない破れに破れた赤い絨毯が伸びる廊下を歩く、数十人居た使用人は今やゼロ、その代わりに屋敷を取り囲む様、日夜傭兵の人々が立っている……恐らく彼らは自分達を逃さない為に雇われたのだろう。
逃げる事も出来ず、終わりの見えない地獄……だが楽しみが無いわけでは無かった。
「先にあそこへ行っててユエル」
「……!はい、お姉様!!」
シャリエルの言葉にユエルの表情は少し明るくなる、そして嬉しそうに返事をすると廊下の道中にある階段を使い二階へと上がって行った。
閉ざされた屋敷の中、外の世界は知らない……だからそれを伝えてくれるあの人が大好きだった。
シャリエルはサンドウィッチを10個ほど作ると二つに分けてバケットに入れ、二階へと向かう、そして父の書斎と表示された扉の前で歩みを止めると三回、一定の間隔でノックをした。
「入れ」
「はい……」
父の声に蚊の鳴くような消え入る程の声量で返事をするとシャリエルは扉を開け中へと入る、中では父が剣を片手に部屋の隅で何かを恐れる様に構えて居た。
「机に置いておけ」
その言葉にシャリエルは無言で応じると部屋を後にしようとする、その時父が一言、ボソッと呟く様に言った。
「すまない」
聞いた事もない父の情け無い、罪悪感に塗れた様な謝罪の言葉、驚きと戸惑い混じりにシャリエルは父の方へ振り返るも其処には威圧的な父しか居なかった。
「早く出て行け!!」
怒声を浴びシャリエルは部屋を後にする、先程父が発した言葉を疑問に思いながらも1階の自室へ戻るとクローゼットから等身大の人形を取り出しベットに潜り込ませる、そしてパッと見人が寝て居る様に見える事を確認するとサンドウィッチが入ったバケットを片手にベットの下へ潜り込む、そして外へと通じる隠し扉を開けるとシャリエルは静かに下へ降りた。
「相変わらず狭いわね……」
父がおかしくなってから三年の歳月を掛けて作った脱出用の隠し通路、だが一度逃亡を試みたが雇われた傭兵に逃げた先の街ですぐ捕まり逃亡は意味ないと悟った……故にこの通路は今や特に意味をなさないただの通路になって居た。
いや、意味は多少なりにはある……正門からは外に出れないがこの通路のお陰であの人に会えるのだから。
12歳の少女が這って通れる程度の通路を抜け暗い森の中に出ると一定間隔に掛けられたランタンを頼りに森の中を進んで行く、獣の唸り声が聞こえる森を暫く歩くと小屋が一軒建った開けた場所へと出た。
シャリエルの歩く速さは小屋へ近づくにつれて早くなって行く、今日も彼に会える、またあの話を聞ける……地獄の様な訓練の事など忘れシャリエルは少年の様に瞳を輝かせ扉を勢い良く開けた。
「シェルド!!」
「おお、シャリエルも来たか」
ユエルを膝に乗せ何かしらの書物を片手に勢い良く扉を開けたシャリエルを笑顔で出迎える白髪の4〜50代程の男、顔には大きく痛々しい傷が付き、半袖から見える肌にも無数の傷が付いて居た。
「今日も酷くやられたな……そろそろ俺が言ってやろうか?」
見える範囲には酷い傷が無いユエルと違い至る所に怪我をして居るシャリエルの身体を見てシェルドは表情を歪ませる、だがシャリエルは首を横に振った。
「大丈夫、お父様は私達が心配で稽古してくれてるだけだから」
「それでも流石にその怪我は……」
「それより冒険のお話し聞かせて!」
シェルドの言葉を遮る様にシャリエルは対面に置かれた足が付かない大人サイズの椅子に座ると足を揺らしながら楽しげに待つ、その様子にシェルドは呆れながらも少し嬉しげな表情をした。
「しょうがないな……じゃあ今日は友達がドラゴンを倒した時の話だ」
そう言い持って来たサンドウィッチを受け取り小さな机に広げるシェルド、この時間が大好きだった。
日常を忘れられる……いつまでもこの時間が続けば良かった。