短編:『厭世・世界検閲』
天を衝くほどの超高層ビルが乱立した大都市の中心で、長谷川──つまり僕は事務所に務めていた。
「長谷川、次の原稿」
「はい」
手渡された薄いクリーム色の原稿用紙に綴られた無機質な文字列を凝視する。指を伝う紙束の質感が心地好い。
『■■議員、▓▓▓▓▓▓▓▓による不正か』
『✕✕✕✕社の代表取締、▓▓▓▓▓で逮捕』
『元人気タレントの□□□、交通事故で▓▓▓▓▓▓▓▓』
«規則»から逸脱した言葉が、次々と僕の手にするペン型機械になぞられたことで黒く塗り潰される。
僕の仕事は、世間に出回る数々の新聞や雑誌、小説や漫画などのありとあらゆる言論を、遍く言葉を«規制»することだった。
日々«違反言語»を虱潰しに塗り潰しては、それで『思想の平和は保たれた』と安堵の溜息をつく、全くの馬鹿者どもの集まりだ。
僕はこの仕事が嫌いだ。
思わず力強く握りしめていたその言語規制機を見てぼんやりと思い出す。
かつてここは『日本』と呼ばれていたらしいことを、古い歴史映画を通して観たことがある。今の名前は、実は僕は知らない。言葉の孕む«思想»の恐ろしさに怖気づいて、政府が、そして世間がそれらを無理に規制しようとしているのだから、今更名前に意味があるなどとは到底思えない。
その『日本』と呼ばれた、こことは違うどこかの国──昔の暦に直すならば、2020年の話をスクリーン越しに僕は眺めていた。
大して興味があるわけでも無いのだが、考古学を専門とする、清水という友人から執拗に見せられたものだ。
彼らは今と比べると、だいぶ自由に生きていたように思う。
離れた国にいる友人に電話することだって自由だったし。
何なら電子式の文書を遠くの誰かに送信することだってできたらしい。
自分の思いの丈をインターネット上に公表することだって、もちろん自由だ。
言葉が規制され、代わりに薄っぺらな空洞の言葉の溢れかえる今では考えられない景色。羨ましく思ったし、恨みがましく思った。
「終わりました。それでは」
僕は上司に告げ、了承の返事も待たずに事務所の眩しいほどに白い、そして鬱陶しいほどに白々しい雰囲気の部屋を後にする。
狭量さを煮詰めたようなあの部屋には、やはり長くいると息が詰まりそうだ。その窮屈さを喩えるなら、箱庭という言葉では些か不足しすぎるくらいには。
街へ出ると、今日も今日とて灰色がかった空が一面に広がっていた。噂によれば『青い空』や『星空』というものがあるらしいが、そんな荒唐無稽な都市伝説を信じているのは無邪気な小学生くらいのものである。24時間365日、清水曰く『寂寞』ともとれよう廃れた空の下で生きる僕たちは、まるで名前のない不自由に鎖で繋がれ、そしてそれに何も言わずに隷従している兵隊のようであった。
『本日の第E地区は、汚染度7.5を記録しております。外出の際は、予防をお忘れなく──────』
と、うざったいくらいに明るい声で放送が鳴り響く。周囲を取り囲むように林立するあらゆるビルの外壁面に取り付けられた巨大モニターに、白いスーツを纏った女性アナウンサーが映っている。
吐き気のするほど清廉な、言わば大衆向けの笑みで話す彼女の姿は、僕とは違う世界に生きる人間にさえ見えた。
いや、ならばどちらかが人間でないのか──そして多分、人間でないのは僕だ。どん詰まりの日々を生きる僕は、せいぜい虫けらと揶揄されてお終いだ。
と、そこまで考えて、激しく咳き込む。
肺が軋むように痛く、口内にはもうとっくに慣れた血の味が広がる。
都市の極端な工業化の末路、とでも言うべきか。
有害物質を空気中に垂れ流し続けたもんだから、それで僕の肺はやられたのだ。もう治ることはない、不治の病。そして未知の病。
一体何が厄介かって、それが発覚したのが十数年前なので、当時幼かった僕の症状は認識すらされていないことだと思う。今となってはどうでもいいが。
「・・・ふざけんなよ、畜生。」
ここでふと数年ぶりに、途轍もなくやりばのない怒りを露わにしたような気がしたが、それも多分気のせいだろう。
これなら地を這う虫けらのほうが、よっぽどマシな生活をしている。
・
「いよいよ«言論規則統一法»が施行されます」
ラジオでそんな宣告を聞いたのは、僕が中学校に入学したばかりの頃じゃなかったか。
死刑宣告や余命宣告を受けたような気分だった。受けたことはないが。
いや、そんな陳腐なものの方がよっぽど気楽だ。自分が死ねば済むのだから。
言論規則統一法。
政府が定めた大きな法律の一種である。そして国に巣食う大きな悪性腫瘍だ(ここがまだ国という体制を保てているならば、だが)。
まず、テレビやラジオ、インターネット、そして僕らの事務所が検閲を担当する刊行物など、様々なメディアを経由して民間を回る言葉の中から、憎悪や悲哀、あるいは弱音だとか愚痴だとか、ネガティヴなものの一切を抹消しようというものだ。
『皆ガ幸福ニ暮ラセルヤウニ』などと謳っているものの、その根幹には政府への抵抗運動が不可能になるようにするという狙いがある。つまり権力への絶対的服従を実現させるための理不尽な苛政だ。
«違反言語»は、例えば形として残るものならば黒塗りにされるか、当たり障りのない別の言葉に差し替えられるかのどちらかなのだが、どちらにせよそんなので伝えたいことが伝わるはずもない。
人間の背負うべき負の感情──言わば本当に現実の痛いところを刺し穿つような『本音』を無かったことにしてしまう。
恐怖でしかない。
狂気でしかない。
次に、地区の一定区域には定間隔で監視カメラが設置されている。
政府機関の管理者にそれぞれ見張られていて、一挙手一投足に至るまで、«違反»があれば厳しく罰せられてしまうのだ。
僕の暮らす第E地区は比較的規制は緩和されている方だが、人口密集の激しい第C地区などでは、民家の中にも一軒一軒、監視カメラが設置されているとの噂だ。
そこで政府への反抗精神の有無を逐一確認しているのだろうか、ならば馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
そして反政府の意思が確認された人間は、一人の例外もなく逮捕、投獄。相当な賄賂を包まない限りは無期懲役か死刑というのがお決まりらしい。
ここまで腐敗が進んでいながらも、国家を蝕む毒に権力者どもは誰も気づかないのだから、否、気づいていないフリをするのだから、僕らはもう終わりだとさえ痛切に思う。
「・・・・・・?」
そこで突然、ポケットの中で携帯が震えた。僕にかけてくる人間といえば、良く言えば親友、悪く言えば腐れ縁、つまり清水しかいないのだが。
僕は傷だらけのスマホの画面をスライドした。
「もしもし」
「よお、元気そうだな」
陽気な声で清水が言う。
彼は僕と話す時、決まってこの言葉から切り出すのだった。
「どこがだよ……毎度のことだけど、僕は少なくとも、お前と話す時は陰気な声しか出さないよ。陰気というより無気力か。」
「突然なんだけど、メシでも食いに行こうぜ。最近会ってなかったし、近況報告がてらさ」
「へえ、悪くない」
「そんじゃあ、いつものとこで」
僕は返事もせずに電話を切る。
排気ガスに撫でられる車道を脇目に、喧騒と焦燥、それから高層ビルの群れを隙間を縫うように、いつものイタリアンレストランに足早に向かう。
・
橙色の照明の中、手書きの看板の横を通って僕は店内へ入る。
「遅かったじゃん」
聞き慣れた声のもとへ視線をやると、清水は既に席に着いていた。
短く切り揃えた、カッコイイ風の黒髪に、銀縁の眼鏡。猛禽類のように鋭い眼光。ギザギザの歯。
ニヒルな笑みを浮かべ、深紅のTシャツの上に白衣を纏っている。なかなか独特なファッションセンスだと思うのだけれど、どうやら白衣だけは清水の譲れぬアイデンティティらしかった。
考古学者だというのに不相応なのだが。
「お前が早いのさ。今日も今日とて研究かい?」
「おう。お前は今日も今日とて検閲かよ。」
テーブル越しに向かい合い、既に出されている茸のパスタをつるつると啜る。
彼は職業上、言葉を重んじる立場で。
一方僕は、言葉を掻き消す立場だ。
「どう?最近。何か新しい知見はあるのか?」
僕が切り出すと、清水は事も無げに、というよりは呆れたふうに、
「何もねえよ。いや、何もねえわけではないが……今日はちょいと、話したいことがあってな。」
と言った。
「話したいこと……なんだよ。急に改まるな、気味が悪い。」
「西野が死んだ」
「──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────」
「え?」
清水の口から出たその言葉は、当然ながら規制されることも検閲されることもなく、僕の脳裏を熱線のように焼き焦がした。
耳の奥で激痛を伴って言葉が反響する。
西野。
彼女は清水の恋人で、同時に僕の友人で、三人は高校時代からの級友だった。
最近では小説家の仕事をしていると聞いていたが……しかし、死んだ、だと?
「死んだって……急すぎるだろ。一体、どうして?」
「死ぬのに急も何もあるかよ。«言論規制»に引っかかった。すぐに検閲に従えば良かったものを、上に逆らったせいで騒ぎは大きくなって、挙げ句の果てには捕まった。違反者の末路がどんなものか、お前も知らないわけではないだろ?」
「そんな…………………………。」
言葉が出ない。
心臓が強く鳴り響く。
それならば。
それならば彼女は、僕らが殺したようなものじゃあないか──────────!
「そんな、西野………………そんな……っ」
できるなら絶えず悲鳴を上げたかったが、流石にそれは無意識下に抑圧された。
嗚咽のような短い言葉が堰を切ったように訥々と溢れ出し、しかし言うべきことも見つからないその現状に失望する。
「西野は多分、この馬鹿げた法律に一番辟易していたヤツだ。小説家としての側面が大きいだろうが……上からの検閲に反抗したのも、あいつなりに譲れなかった表現が、叫びたかったことがあったんだろう。」
僕は彼女の小説を一度だけ読んだことがある。変に外面を取り繕うことのない、現実を強く叩きつけるような鋭い文体。
メッセージ性の強いその文章は、大衆受けこそあまりしなかったものの、それでも一部の人間の不幸や不安、不信感、ぶつけるべき不平不満にそっと寄り添い、時には支え、時には背中を押していたはずだ。
目の前で血が滲むほど強く唇を噛み締めている清水だって、その言葉に感化された一人だろう。恐らくは僕も。
「なあ、長谷川!」
悲観を込めたような、何かに縋るような弱々しい声で清水は叫ぶ。
普段は強気で自信家な彼がとるその態度は、それだけでことの非常さ──現実の非情さを無慈悲なまでに瞭然と知らしめる。
彼は僕の双肩を力強く掴み、こう言った。
「抵抗運動を起こすぞ。俺はもう、黙っていられないッ」
「駄目だ。それこそ一番やっちゃいけないことだ。失敗するに決まっている。」
僕自身の口から突発的に飛び出したその言葉は、彼の屈辱を否定するものだった。
なぜだ?
僕もその反吐の出るような秩序には心底嫌気がさしているはずだ。
憤怒も屈辱も苦痛も、虐げられた今までのそれをぶつけるには、ぶちまけるには充分に事足りるだろう。
まさか、僕は無意識のうちに汚染されているのか?
検閲する側の立場にいるせいで、思考すらも規制され始めているのか?
「なんでだ、お前だって解っているだろう!?長谷川が反旗を翻せば、だいぶ事は優勢になるはずだ!そもそも、お前の両親だって──────」
「やめろっ!!」
僕は咄嗟に怒鳴り、肩を捩る。
清水の手は力無く垂れ下がり、そのまま無気力に項垂れた。
「……ごめん。でも無理だよ。最悪、お前だって死んでしまう。勝てない喧嘩はするべきじゃあない。」
「………………そうかよ。見損なったぜ、腰抜けが。」
言ってろ。
お前は何も知らないんだ。
«検閲»の恐ろしさを。
僕は大量の氷塊を体内に流し込まれたかのような悪寒に襲われ、怖くなってその店を出た。
会計は適当に済ませたが、お釣りも受け取ることはなかった。
・
両親の記憶なんてロクなものがない。というのも、僕が幼い頃に二人とも他界したからだ。
正義感の強い人だった、というのはなんとなく憶えているものの、彼らの容姿や声などはその全てが果てしない忘却の彼方にある。正義感が強い人間のことが僕は苦手だ。無謀なことを、無茶なことをしようとするから。
彼らは«言論規則統一法»に真っ先に反逆した人物の一人だろう。
法が施行された最初期の抵抗運動の指導者とも言える人物だ。
だが最初の抵抗ということは、即ち彼らは対立する者の末路を知らなかった、ということである。
凄惨な殺され方をするとは。
知らなかった、ということである。
知らずに失敗した。
そういうことである。
血の繋がりとはなんとも恐ろしいもので、記憶や思い出なんてなくとも、肉親がしくじったという厳然たる事実は、それだけで幼き日の僕に纏わりつく厄介な足枷となった。
あるいは背負うべき十字架か?否、そんな大したもんじゃあない。
何にせよ、端的に言えばトラウマというやつだろうか。僕はその日以来、生まれたその時から敷かれているレールから逸脱することを何よりも恐れてきた。
誰かに逆らうことを。
誰かに抗うことを。
誰かと戦うことを。
言いたいことがあっても、そんなものはとるにたらない言葉だと自戒し呑み込んだ。
弱音だって本音だって吐いてはいけないものなのだと思い知り、それを自分自身の中にだけ沸々と留め続けた。
世間体の傲慢さに押し潰されるように生きながらも、『夢』『希望』『正義』『平和』『愛』『自由』だとか、彼らの嘯く脆弱な戯言に、本来誇示すべき尊厳すらも傷つけられた。
でも忘れちゃいけないのは、僕の中にある静かな怒りだ。
苦い思いを散々させられたこの屈辱は、心に残るがらんどうの穴に次々と染みてその隙間を埋める。
得体の知れない何かから逃げ続けて、気づけば別の何かを追いかけていた。
その時のつかの間の黒い心を、僕は絶対に忘れるわけには──────────
「長谷川っ!」
「……! は、はい。」
「ボーッとしてんなよ。これ、次の原稿だ。今日は量が多いから、既に他のやつにも手伝ってもらっている。お前は確認をしろ。」
「はあ……わかりました。」
そう言ってまた、見慣れた薄色の滲む原稿用紙を受け取る。そろそろこの紙の手触りも飽きてきたところだ。
黒い金属製のケースから検閲機を取り出し、僕は原稿に刷られた小さな文字の群集を眺める。
『私は«言論規則統一法»を▓▓▓▓▓▓▓▓したい。言いたいことも言えず、引き摺るように▓▓▓▓▓▓▓▓を抑圧して、何が平和だと言うのだ。咳き込みながら、私は薄暗い和室で呟く。仄かな血の味が▓▓▓▓だった。▓▓▓▓▓▓▓▓ことは言葉にするべきだ。▓▓▓▓▓▓▓▓ことは伝えるべきだ。束縛の中で必死に今日を生きる人々、その糧が何なのか、あなた方は知らない。』
「………………………………。」
気づけば僕は、その原稿の内容に強く魅せられていた。まるで僕の中でぐちゃぐちゃになった悪言の数々を全て代弁してくれているようで、とても強い意思を感じられた。
『それこそが言葉だ。▓▓▓▓▓のどん底にいた私は、ある青年に救われたことがある。彼は名を▓▓▓▓▓と言った。▓▓▓▓▓▓▓▓、勢いの強い濁流に呑まれているかのような▓▓▓▓▓の中に身を置いていた私を、彼は寄り添って慰めてくれた。激励してくれた。ゆえに私は今、この文章を書いている。
彼を初めとする数多くの人々に授かった数多くの言葉。それらが縷々と紡績するかのように、今現在における私を輪郭として決定づけている。』
『しかし自分の力になった言葉があれば、自分を傷つけた言葉だってあるだろう。つい▓▓▓▓▓になってしまった言葉だってあるはずだ。▓▓▓▓かけた言葉だってある。そういうものをあなた方は全て忘れようとするのか。ならば薄弱が過ぎる。』
『巧言に語るとするならば、私は今一度あなた方に▓▓▓▓▓▓したい。伝えたい言葉。伝えるべき言葉。そういうものを▓▓▓めたくはない。これは意思の存在を虐げ、その寂寥を別所から俯瞰するあなた方への挑戦状だ。忘れるな。言葉を規制したところで、絶対に言葉は▓▓▓▓▓▓▓▓。』
文章はそこで終わっていた。
喩えようのない感情が内側から込み上げるこの感覚。著者名を確認するまでもない。要所要所が既に検閲済みだが、それでもわかる。
僕にはわかる。
西野の" 本音 "だ。
外面を気にすることなく、まるで遺言のように書き殴られたそのメッセージは、茫漠たる言葉の網目の中で当てどもなく彷徨していた。それを漸く、僕が拾い上げたのだ。
これを偶然と呼ぶか必然と呼ぶかは解らない。
ただ清水なら現然と言ったろうし、西野ならあるいは確然と形容したかもしれない。
今となってはどうでもいいが、しかし今だからこそ考えるべきだ。
僕はその原稿を素早く引き抜き、小さく折り畳んで鞄の中に突っ込んだ。
この時点で、僕は«犯罪者»という言葉でも呼称できてしまうわけだ。だが構わない。全く愉快なこと──────僕の意志は、既に確たるものとなっている。
人の意思は殺せない。
僕は永らく忘却していたその事実を、今になって漸く思い出した。
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