郵便受け
大学から帰って郵便受けを見ると一通の封書が入っていた。
郵便受けは僕のアパートの一階の入り口のところに各部屋の分がまとめて設置されている。四階建てで各階七部屋ずつあるため計二十八個の郵便受けが同じ顔を整然と並べて一階の入り口横の階段のところに口を開けて待っているのだ。
あまり家賃の高くない安普請のワンルームアパート。郵便受けもたてつけがわるく、開きにくかったりところどころ文字が薄れていたりする。開け口のところには一応南京錠が通せるようになってはいるが、学生ばかりが住むアパート特有の鷹揚な雰囲気もあり、誰も南京錠を通していなかった。僕も通していなかった。自分の郵便受けにだけ通すのはなんとなく浮いてしまうような気がしたし、そもそも本当に重要な郵便物なら書留的なもので届くと思われるので、郵便受けのセキュリティにそれほど気を使う必要もないだろうと思ったからだ。実際、僕なんかは大学から帰った時くらいしか郵便受けを見ないし、他の住人もこまめにチェックしているような気配はなく、なかには今まで一度も開けられたことがないのではないかと思われるような投げ込みチラシであふれかえった郵便受けもあったりした。
そんな郵便墓場のような郵便受けを横目に、僕は自分の清く正しい郵便受けを開け、なかにあった封書をとりだした。裏返してみたりしながら階段で四階まであがり、自分の住む401号室の戸を開けた。部屋の隅にかばんを放り投げるように置いて、座イスに腰掛け、あらためて封書を見た。
僕は大学に通うため一人暮らしをはじめた。親元から離れて自由に暮らす開放感と故郷にたいする寂寥の念や両親のありがたさ、自分を律する難しさなどめくるめく初物づくしの毎日があっという間に過ぎて、気づけば三ヶ月が経っていた。
そろそろ新しい生活にも慣れ、余裕も出てきた。僕は生活に「慣れる」期間から「楽しむ」期間への過渡期を迎えようとしていたのである。そのため、封書という外部からのアプローチに対して必要以上に胸が躍った。
その封書はちらっと見ただけでも少々癖のある封書だということが分かった。封書の表には丁寧な字で住所が書かれてあった。もちろん僕の住所だ。けれども、宛名のところには僕ではない女の名前が書かれていたのである。裏の差出人のところには何も書かれていなかった。切手のところには消印が押してある。ということはちゃんと郵便局を経て届いたものだということだ。誰かの投げ入れではない。
僕は余裕のうなづきを見せながら、にやりと笑った。きっとこれは高校時代の知人、今川太郎からの封書に違いない。一週間ほど前、僕は今川太郎に手紙を出した。LINE全盛の時代にあって手紙を書くなんて律儀なかんじもするけれど、実はある些細ないたずらが目的で手紙を出したのだ。内容としてはLINEでも足りるような他愛のないことばかりだったが、封書の宛名のところを『織田信長様』としておいたのだ。住所は今川太郎の住所を書いておき、宛名だけ変えておいた。住所があっているのだからきちんと彼に届いただろう。きっと今川太郎は『織田信長』宛ての封書を受けとって苦笑いを浮かべたにちがいない。
あれから何度か今川太郎とはLINEをしているが例の封書については何もふれてこない。きっと今川太郎は報復の機会をねらっていたにちがいないのだ。僕の『織田信長』に対抗できるほどのセンスの宛名を考えていたにちがいない。
僕はもう一度封書の宛名を見た。けれどもどれだけ考えても心当たりのある名前ではなかった。見たことも聞いたこともない女性の名前だ。僕はハサミで封をあけ、中をのぞいた。すると、几帳面に折りたたまれた手紙が入っていた。僕はとりだして読み始めた。そして読み進むうちに、僕の鼓動は速まっていった。それにともない顔色はみるみる青ざめていくのが自分でも分かった。
それは今川太郎からの手紙ではなかったのだ。まったく身に覚えのない内容だった。純粋に間違って届けられた手紙だったのだ。高校時代の恋人からの別れの手紙。進学にともなって離れ離れになってしまった恋人たちは、三ヶ月の遠距離恋愛によるすれ違いにより、別れを決意した。文面からは悲痛なまでの別れの心情を読み取ることができた。
僕はもう一度封書の表に書かれた住所を見た。僕の郵便受けに入っていたからてっきり僕宛ての封書だと思ったのだ。
けれども、よく見ると、部屋番号が407号室と書かれているではないか。僕の部屋番号は401号室。すなわち、間違って届いた手紙。そう。郵便配達の人が「7」と「1」を間違えたのだ。
なんてことだ!
僕は頭を抱えた。他人の手紙を読んでしまった。しかもこんなシリアスな内容の手紙。そのうえ本来の受取人は女性。手紙の内容から僕と同じどこかの大学の一年生であることは間違いない。ということは一人暮らしをはじめて三ヶ月。不安と期待の入り混じる新生活のスタート直後にいきなりもっともプライベートな手紙を見ず知らずの男に読まれてしまったのだ。気色悪さはいわゆるハンパないだろう。いくらもともとは郵便配達の人のミスだったといっても、書かれた住所をよく見ずに開けてしまった僕の過失は重い。未然に防げた事態だったと言えなくもないのだ。
いったいどうすればいいのか。見なかったことにして捨ててしまうのは簡単だ。ごみ袋に入れて知らぬ顔の半兵衛を決め込んで日々の生活に戻ればいい。
けれども、それでは本来の受取人である彼女に手紙の内容が伝わらない。そうなると彼女は別れ話を切り出されたことを知らぬまま男に電話し、もしくは男からの電話を受け、心の準備が出来ていない状態で別れの最終宣告を受けることになる。なんのまえぶれもない突然の別れ。そんな残酷なことが許されていいのか。男は手紙を読んだものとばかり思っているだろう。男としてはちゃんと宣戦布告をしているのだからその後の攻撃にはそれほど罪悪感を覚えない。けれども彼女としてみればペンキ塗りたてのベンチに腰を下ろしたようなものである。ちゃんと張り紙をしておいてくれれば座らなかったものを。張り紙がなかったばっかりに座ってしまったじゃないの。
いや、この例えはおかしいか。初動は別れ話をきりだした男のほうなのだから、彼女が初動をとってベンチに座るというのはそもそも例えとして間違っている。彼女は受動側なのだから、ペンキ塗りたてのベンチに追いかけられて、張り紙がなかったばっかりに座ってみたところペンキ塗りたてだったということだ。
いや、そもそもペンキ塗りたてのベンチが追いかけてくるなんていうことがあるだろうか。事物がすべて意思を持つという世界ならありうる話かもしれないが、どの国の奇譚を読んでも出てきたためしがない。もっとも、僕自身の読書量なんてアリの額ほどのものではあるが。
いや、それをいうなら猫の額だ。そもそもアリに額があるのかどうかも分からない。
しまった。緊張と動揺から急激に思考が四散してしまい、まったく無意味な時間を生きとし生ける方々にさかせてしまった。これは申し訳ない。
手紙についてだ。ここはやはり手紙を返すべきだろう。勝手に手紙を読んでしまった変態だと思われても仕方がない。気持ち悪い人と思われるのもしょうがない。彼女のことを思えばあえて僕が変質者になって真実を伝えてやるべきなのだろう。それが正義というものだ。
でも待てよ。考えようによっては僕はあまり悪くはないのではないか。自分の郵便受けに入っていた郵便物なのだから自分宛のものだと思って開封するのは当然だし、郵便配達の人が間違えるくらいだから素人の僕がてっきり自分宛だと思い込んだとしてもなんら不思議なことではない。それに自分の非をみとめてなおかつ手紙を届けようとするこの誠実さ、彼女は僕に好印象を抱くかもしれない。しかもその手紙は男からの別れの手紙・・・。
手紙を渡し、僕は言う。
「あの、これ、間違って郵便受けに入っていた手紙です。よく確認せずに開けちゃいました。ごめんなさい」
彼女はうろたえながらも手紙を受け取る。そして持ち帰って読む。後日、なにかのおりに顔を合わせた時、僕が言う。
「あの、手紙、すみませんでした。実は僕、読んじゃったんです。なんて言っていいか分からないけど。つらい気持ち、よく分かります。こんなこと言うのはおかしいけど。これも何かの縁かもって思います。つらい気持ち、すごくよく分かるから、おれでよければ、話し相手にでもつかってくれたらうれしいっす。おれ、単干大学一年生の冒頓英雄って言います。よろしくっす」
すると、涙の跡の新しい彼女の目じりにかすかな生気が戻る。そこにはわずかだが恋慕の色も見える。そこから二人の時間がはじまる。時が流れ、いつしか、二人はお互いなくてはならない存在となる。
英雄は言う。
「偶然ってあるんだな」
彼女は言う。
「そうね。郵便配達の人に感謝しなくちゃね」
偶然によって結ばれた二人の絆は日に日に強まり・・・云々・・・云々。
なんていうドラマの始まりということもありうるではないか。
そうなのだ。僕に過失はないのだ。あとは渡し方さえ間違えなければ大丈夫だろう。
しかしながらいきなり407号室をたずねるというのもぶしつけな行為である。なんとか自然な感じで出会えないものだろうか。
たとえば彼女と僕は同じ階なのだから、出かける時に偶然同じタイミングでドアを開け、ふと見るとお互い目が合ってしまう。はにかみ笑顔で軽く会釈をし、「こんにちは」なんて言葉をかける。そうすれば、「あ、あの、実は手紙が」的なとっかかりが生まれるというものだ。
よし。とりあえず外に出てみよう。
僕は封書を手に持ち、呼吸を整えながら靴を履き、ゆっくりとドアに耳をあててみた。すると、なんという偶然か、同じ階のどこか離れた部屋の玄関からカサコソと靴を履いているような音がかすかに聞こえてくるではないか。僕は呼吸を落ち着けながら、相手の気配をさぐった。すると、ドアを『ガチャッ』と開ける音が聞こえた。チャンスだ。僕はさも自然な感じを装って、ドアを開け、外に出た。外に出て、顔はドアの正面を向けて鍵をしめながらも眼球が痙攣するほど視界の横の限界を意識して、先ほどドアをあける音が聞こえた方向の様子を探ると、案の定、機を同じくして開いているドアがある。僕はさもなんとなくそちらを向いたのだというような感じで、顔を向けると、ちょうど出てきたそこの住人と目があった。
彼は、ドイツ兵の鉄兜をかぶった筋骨隆々な迷彩タンクトップのマッチョマンだった。どうやら407号室ではなく406号室の住人だったようだ。彼は僕と目があったのを意識したのか、『コツッ!』とかかとをならして敬礼をしてきた。うろたえながらも僕は右手をおでこにかざして適当な敬礼をした。すると彼は満足したのか軍隊さながらの行進で僕の横を通り過ぎ、階段のところまでいき、再び振り返って僕に敬礼をしてから階下へと降りていった。
僕はあっけにとられた。あんな人が同じマンションに住んでいたなんて驚きだった。いったい何を生業として生計を立てている人なのだろうか。僕に敬礼をしてきたが、それをもって愛想のいい気さくな住人と言っていいのかどうなのか。
僕はしばらくドイツ兵のような彼のことについて考えていたが、ふと我に帰ると、なんとなく手持ち無沙汰な感じがしたので、とりあえず下に降りてみることにした。もちろん、またドイツ兵のような彼と会ってしまうと気まずいので、廊下から見える駐車場からドイツ兵のような彼が乗り込んだティガー戦車のような軽自動車が出て行くのを見届けてから、階下へ降りていった。
すると、階段を降りながらひらめいた。もし今日まだ彼女がアパートに帰ってきていないのであれば、郵便受けのところで待っていればいいではないか。そうすれば郵便物の話をするのも自然な感じがするし、手紙を読んでしまってすぐにその過ちを悔い、いてもたってもいられなくなり階下に降りて本来の受取人を待っていたという真摯な姿勢を汲み取ってもらえるかもしれない。
「こんにちは。あ、407号室のかたですか?」
「えぇ、はい」
「あの、すみません! 今日この手紙が入っていて、よく確認せずに開けてしまったんです。お渡ししようと思ったんですが、お部屋まで行くのはぶしつけだと思って、ここでお会いできればと思って待ってたんです」
彼女は僕の礼儀正しさとぶしつけを察する気配りポイントを加味しつつ、持ち帰って手紙を読む。
後日、なにかのおりに顔を合わせた時、僕が言う。
「あの、手紙、すみませんでした。―――― 割愛 ―――― おれ、単干大学一年生の冒頓英雄って言います。よろしくっす」
すると、涙の跡の新しい彼女の目じりにかすかな生気が戻る。そこにはわずかだが恋慕の色も見える。そこから二人の時間がはじまる。時が流れ、いつしか、二人はお互いなくてはならない存在となる。
英雄は言う。
「偶然ってあるんだな」
彼女は言う。
「そうね。郵便配達の人に感謝しなくちゃね」
偶然によって結ばれた二人の絆は日に日に強まり・・・云々・・・云々。
なんていうドラマがスタートするには、よく考えたらそもそもいま彼女が外出中だということが前提だ。いままさに部屋にいるのであればいくら帰りを待っても帰ってくることはないだろう。
僕はとりあえず彼女がまだ帰ってきていないかどうかを確認するために、ゆっくりとアパートのまわりを歩きながら、ちらちらと407号室のベランダをあおぎ見た。なんとなく気配的にまだ帰ってきていなさそうだったので、僕はふたたび郵便受けのあるところまで歩いていき、彼女を待つことにした。
しかしながら、ただ待つというのも退屈なものだ。それによく考えれば見ず知らずの男にアパートの下のところで待たれているというのも気持ち悪いものかもしれない。先ほど歩きながらベランダをちらちら見ていたのも、よく考えればストーカーっぽい行動ではないか。やっぱり一度部屋に帰ろう。あまり過度な親切心を発揮すると、墓穴をほって自らの首を絞めることにもなりかねない。
僕は階段をあがろうとしたが、その前に、なんとなくいつもの習慣通り郵便受けを見ておこうと思った。まさにさっき見たところなのでまた何か来ているとは思えなかったが、習慣というものはこういうときに人間の行動を制御するものだ。
僕は郵便受けをあけてなかをのぞき込んだ。やはり何も入っていなかった。習慣というものはこのようになんの得るところもなかったとしても、行動それ自体に満足を覚えるものなのだ。こういった行動が後々なにかを利することになるかもしれないし。
と、その時、入り口のほうで人の気配がした。振り向くと、こちらに歩いてくる女性と目が合った。とっさに私は会釈をした。彼女もかるくはにかみながら会釈をした。
見たところ大学生っぽい。僕は思った。もし習慣にしたがって郵便受けをあけず、そのまま階段をあがっていたら、彼女とは会わなかった。運命とはこういうところに姿を現すものなのかもしれない。もしかして、もしかして彼女こそ本来の手紙の受取人である彼女なのかもしれない。偶然の神様がいらっしゃるのなら、それはありがたすぎる偶然です。偶然の神様、どうぞよろしくお願いします!
僕は郵便受けに手をかけたまま、彼女の動きを見ていた。おぼろげな確信はあったが、まだ彼女が受取人であるという確証がなかった。僕は思った。彼女が407号室の郵便受けをあければ、それは間違いなく受取人だということである。そこまではっきりしてから声をかければいい。僕は声をかけるタイミングをはかっていた。
けれども、先に声をかけたのは彼女のほうだった。僕をちらりと見た彼女は僕の持っていた手紙に目を止めて、言った。
「あ、その手紙・・・」
僕は手に持った手紙に目をやった。彼女は手紙の表に書かれた宛名を見とめて気がついたのだろう。まさか彼女から声をかけられるとは思っていなかった僕はいっきに動揺し、しどろもどろになった。
「あ、あの、その、このあの・・・」
僕の受け答えは予想外の展開にしごく情けないものとなったが、次に彼女が発した声は予想外にとてもヒステリックなものだった。
「キャー! あなた! なんで私の郵便受けを開けてるんですか!」
郵便受け? 郵便受け? 手紙じゃないの?
僕は驚いて郵便受けを見た。先ほど習慣にしたがって開け、のぞきこみ、そのままになっている郵便受け。そこは間違いなく僕の郵便受けだった。僕は401号室の住人だ。郵便受けには薄れた文字で401と書かれている。僕は彼女の間違いを正そうと思った。けれども、彼女は僕の手に持った封書が開封されているということに気がつき、よりいっそう取り乱し、声をあげた。
「ギャー! あなた! なんで私の手紙を開けてるんですか!」
僕は彼女の絶叫にあたふたしながらも、郵便受けの数字の部分を指差して説明しようと試みた。いちばん上の列のいちばん左、そこが401号室の郵便受けだ。
「いや、ほ、ほら。ここに部屋番号が書いてありますよ。ここに401と書かれているじゃないですか・・・」
と、説明しながら、僕は気づいてしまった。薄れた文字で401と書かれた僕の郵便受け。よく見ると、401の「1」のところが特に薄くなっている。よく見ると、それは「7」に見えなくもない。すがる思いで反対側のいちばん右の郵便受けに目をやった。そこは一度も開けられた形跡がなく、投げ込みチラシであふれかえった郵便受けがあった。そしてその郵便受けにははっきりと、401と書かれていたのであった。