突貫工事卍
解体中のビルに足音が反響する。通話を終えた彼は携帯電話を投げ捨て、フロアの中央、椅子に縛り付けられた男のもとに向かう。彼は触診するように男の頬、顎と指を這わせて、まず、男の経済面での価値は著しく高いことを認める。貨幣にして2千万円、それが先ほどの通話相手から引き出せた金額だった。また形而下の面においても、彼にとって男は一定の価値を持ち得ると判断する。なぜなら彼はゾンビで、男は人間である。
では思想的価値は――と考えたところで、記憶の混濁を覚えた。彼の信奉する宗教はもはや定かでなかった。しかしながら人質の宗教観は曖昧で、無神論めいた言動を加味すれば、この人質の思想面での価値はゼロだと言える。無神論者、あるいは少なくとも異教徒だと予想できるからだ。とは言ってもマイナスの価値ではない。したがって殺害は望ましくない。単に無益だ。
彼はこうした前置きをした後、一連の実験を開始する。彼はまず人質の歯を素手で一本抜き、人質の交渉時の価値がなんら変わらないことを確認する。男は叫び声と血を噴き上げ、痛苦に全身が緊張する。彼は次に爪を剥がしにかかる。今度はペンチを使う。縛られた体を痙攣させ、必死に痛みに抗う男をしばらく眺めながら、彼は静かに思案する。多少ダーウィニズムめいた検討が頭をよぎる。結論が出て、彼は人質の睾丸を切り取った。もちろん、人質がすぐに死なないように、丁寧に傷口を縫合する。
彼がこの手術を経て得た結論は、これによって変わったのは、人質の生き物としての価値だけで、思想面の価値は相変わらずゼロで、交渉時の価値は相変わらず高い、ということだった。
激痛に半ば気絶しかかっている男のビジュアルは、先ほどとはうって変わって悲惨なものとなっていた。よだれと鼻水が血液に混じって地面を濡らしている。
「実は金はいらないんだ。消費する喜びはもうないから」彼は誰にともなく言葉を重ねる。
「人が愛されることは決してない、愛されるのは性質だけだ、という言葉がある。美貌のために愛される人間が天然痘にかかれば、美貌は失われ、誰もその人を愛さないだろう。判断力や記憶力に優れているという理由で愛されるとして、それは確かに私自身が愛されているのだろうか。私は死を克服している。当時、いつかの私はそれが大変素晴らしく、希望に満ちているものだと心から信じていたようだ。性質という観点から言っても、死ななければ、いつまでも一身に愛を獲得できるものだとなんとなく考えていた。いや、それは考えていなかったかもしれない。さっきの格言は最近知ったような気がする。とにかく、死を克服して待っていたのは、無限の渇望と腐敗、それに伴う絶望だけだった。この体はすでに腐り始め、異臭を漂わせるようになっている。当然生殖機能はない。私の意識はそれを求めるのに、体は応えてはくれない。誰も私を愛さなくなった。私さえ私を憎むようになった。しかしここで疑問が生じるのだが、一体どれが本当の私なのか、どの私を憎めばいいのか、判断がつかない。この体はしがない銀行員のものだが、これまでにも医者、外交官、無職、学生、主婦と色々な体を乗っ取ってきた。そのたびに人格が混じり合い、記憶が濁り、私のアイデンティティは薄れていった」
彼は次第に獣のような息遣いをするようになった。焦点は定まっていなかった。
「何のためにこんなことをしたのか忘れてしまった。何もかもどうでもよくなった。やはり時期が悪かったのだろうか、それも知らない。何もわからない。いや、一つだけわかることがある。体が必要だ。私に必要なのは新鮮な体だけだ」
翌日、行方不明だった銀行員の腐乱死体が発見された。現場には別の男性のものと思われる睾丸や歯、爪などが残されており、警察は事件の関連性の調査を始めた。
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「彼ら」は生者を殺し精神を乗り移らせる。しばらくの間はまるで人間であるかのように振る舞えるが、奪った体が朽ちるとともに知力も運動能力も落ちていく。装えるのはせいぜい数か月だ。腐敗の始まった「彼ら」からは理性すら失われ、ただ欲望のままに、ただ動物的に動いていく。そうしてまた人を殺し、奪い、朽ちていくのだ。
「さて、どうして睾丸を切り取るようなことをしてしまったんだろう。何か、人間の根拠を突き止めるための崇高な試みだったような気もすれば、単に私と同じ体にしてやりたいという幼稚な動機だった気もする。……まあ、いいか、今は私だ」