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爺さんは顎にある白い髭を手で撫で付けながらため息をつく。
一方で私は落ちた顎を手で元に戻して、爺さんに向き直った。
「戦に?!」
「今度の戦は、どうも一筋縄ではいかぬようでのう。先頭を走るわけではないがついて行くことにな」
ここは土地だけでなく武器も対妖怪の物がある。
裏山のふもとの川岸から採れる砂鉄が特別なものだそうで、その砂鉄を溶かして槍や刀にし、妖怪を切りつけたりすると、妖怪はたちまち私の手から出る液体を掛けられた時のように、溶けてなくなるのだと聞いた。
どうりで人間の兵の方が圧倒的に多いこっち側が、未だ潰されていないわけである。
そして農作物も良く育つここの土地が喉から手が出るほど欲しい『浦原氏』という明石の敵方は、ここ数年何度もこちらに戦をけしかけていた。
何度も何度も、それはもうウジ虫のようじゃと爺さんは言っていた。ようは諦めのたいそう悪い奴等だということである。
なのでその度に明石の人達が上手く追い払っているらしいのだけれど、今回はそうもいかないようで頭を悩ませているのだと言った。
「そんなご老体で……」
「老体言うでないわ!」
ヌメヌメの稽古を頑張る代わりに衣食住を確保させてもらっている私。
そもそも爺さんが慣れない巻物なんか使うからこんなことになったのに、なぜしごかれなくてはならないのだ。
げせぬ。
この妖怪に掛けるとたちまち相手が溶けてしまう力は何なのか、いまだわかってはいない。
裏山のふもとで採れる砂鉄と同じようなものか、違うのか。
けれど爺さんはこの力をどうしようと言うのか、私をずっと鍛えている。
木に何度も登らされたり、馬に追い掛け回されたり、刀を向けられて切られそうになったり(正直死ぬかと思った)、式神相手にヌメヌメを飛ばす練習をさせられたり、かと思えば槍を持たされて爺さんと一騎打ちみたいな真似事をさせられたりと、どこの軍隊の訓練だと言わんばかりのことをこの二年ずっとさせられている。
そしてそれに文句を言いながらもサボりながらも、なんとかついて行った自分に両手を叩いて称賛したい。
「儂がこの明石の城を離れている間、お前にここの守りを任せたいと思っている」
「私が、え? 守る? って……どこを?」
「城をじゃ」
城って、あの珠石城を?
ご立派な白銀色のしゃちほこが屋根に鎮座している、巷では「明石の真珠」とも呼ばれているあの城を?
「はぁ!? 無理無理無理ですって! だって式神とかワケわからんもん使えませんもん! それに私のことお城の人誰も知らないんでしょう?!」
ついに耄碌しはじめたか爺よ。
「実のところお前をこの屋敷に留めたのはな、敵方に行かれたら面倒なことになると思ったからじゃ。元の世に戻す方法も分からず、それにお前は女子。若君様は女子が戦に関わることをたいそうお気に召されぬ。だがお前は妖怪を倒す術を、その身体をもってしてなせる存在じゃ。出来うる事なら殿のため若君様のため、この土地の者たちのため戦場に出せるようななりにしたいと思うておった」
「戦場に出すつもりだったの?! 私いたいけな乙女なんですけど!」
両腕で自分を抱き締める。
性懲りもなく二年間そんなことを考えていたのかこの狸ジジイ。
土地の者や殿様や若君様のためにと言われても、平和な世で暮らしてきた私に戦場へ出ろとは無理がある。
『女子を戦に出すとは正気の沙汰ではない』
『すまぬ、怖い思いをさせた』
『春か。あたたかい――良い名じゃ』
あれ以来明石の若君様と顔を合わせたこともなく、寧ろ覚えているかも怪しく、そもそも私が爺さんの家で暮らしていることなど爺さんとこの屋敷の人しか知らない。
あれからもたびたび外では小競り合いがあったらしいが、どれもこちらが勝利をおさめているらしく、今のところ殿が倒れたとか若君様が亡くなったとか、沈んだ情報は入ってきていなかった。
あの男の子が無事ならいい。
あの時私を戦に出そうとしていた人達を押しとどめて逃がしてくれたあの子に、いつか「あの時はありがとうございました」って言いたい。
ちなみにその若君様は西国一の美男と言われているそうで、縁組という、娘と若君様を結婚させて国同士仲良くしませんか、みたいなことを攻め入られるたびにしょっちゅう他から申し込まれているらしい。
無論それは良いことなのだけれど、こちら的に利害の一致にはならないそうで難儀をしているのだという。
『面白いことを言う奴じゃの』
確かに、と二年前に見た若君様の顔を朧気だけれど思い出す。
殿様の顔を見たことはないけれど、殿様の顔は熊みたいだと爺さんが言っていたので、あれはきっと母親似なのだと勝手にだが思う。
熊の遺伝はない。
若君様はやはり私と同じくらいの年だったようで、今年十七歳になられたと爺さんが言っていた。
「そうだ、お前は乙女じゃ。懸想というモノもまだ知らぬようだしのう」
「けそう?」
「男に恋い慕うことよ」
こい、したう。
ここに来てから何気に一番苦労したのは、言葉かもしれない。
ある程度は雰囲気で分かるけれど、たまに本当に何を言っているのか分からない時がある。
二年もいれば耳と脳みそが慣れてきたけれど微妙だ。
「……お前はまことに言葉を知らぬな」
爺さんの声と表情が急に辛気臭くなった。
いい年をして泣きそうな顔をしている。
むしろいい歳だからそんな顔をしているのかもしれない。
「今日をもって、稽古は終わりじゃ」
「終わり?」
「この話があってからな、己のしようとしていたことがいかに愚かなことだったのか思い直したのじゃ。今回無事戻って来られたら、お前はこの屋敷で働けばよい」
「え、でも」
「療次浪様、若君様がお見えになりました」
日は完全に沈み夜風が吹きはじめるなか、一方的なやり取りをされていると女中さんが爺さんに来客の知らせをしに来た。
若君様?
爺さんはいつも城の方へ行っているので客人という客人は滅多に来ないのだけれど、若君様が来るというか来たのは私が見る限り初めてだった。
「なぬっ、まことか! こりゃまずいのう、お前の顔は若君様に二年前に見られておる。どこかに隠れていろ」
「でも二年も前だし覚えていないと」
そんなに焦らなくても良いじゃないかと暗に言えば、そういう問題じゃないと地団駄を踏みながら言われる。
しかしそうしているうちにも、誰かが廊下を歩いている音が聞こえてきて、その音は徐々にこちらへ近づいてきているようだった。
「はよせんか!」
「~もう!」
そこまで言うのなら致しかたあるまい。
私は中庭に置いてあった藁籠を掴むと、それをすぐ頭に被り庭の茂みにしゃがみこんだ。