椿野 風子Ⅲ
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椿野 風子は正義感に溢れている訳でも情に厚い訳でもない。目の前で助けを求めてくる人間が居るからといって助けなければならないとは思わないし、またそこで責任を負う必要も無い。
全ては自己責任。偶然の事故や事件にしても、その巡り合わせを選んだのが自分自身なのだから誰かに助けてもらえると思うのは甘えだ。
だからそんな彼女が厄介事に首を突っ込んだり、人に手をさし伸ばすという事は気紛れか暇潰しで、そこに悦楽以外の感情が介在する事など今まで無かった。
言ってしまえば家族に危険が迫ろうとも、そこに面白味を見つけられないのなら知らぬ顔をする。
しかし今回は違う。誰かが自分の道連れに殺される。無責任に騒いで無頓着に死んでいく。その生き方をしてみて確かにそこに何の問題もなく、本来そこに違和感を感じる余地も無い。
今まで数え切れないほどの他人に迷惑を掛けてきた。生き死にに関わるほどではなかったが、だからといって人生に関わるほどではなかったのかと言われれば分からない。何せ誰が誰にどの程度の影響を及ぼすのか、そんなものは一個人では知りえないのだから。
今更誰かが死ぬ程度でどうこう言うのもお門違いかもしれない。自分の死すら軽く受け止める死生観の少女である。
死神に死の宣告を受けたあの日にしても、風子らしい気紛れと偏見で死に際に夢を持ってる方がイカしてる、といった程度のものだった。
夢を叶えて死ぬも夢半ばに死ぬも面白い。そんな快楽主義の彼女が何故他人を助ける為に行動するのか。
いや考えるまでもあるまい。その答えはもう出ていて、それを認める自分になる為にも彼女は今この場所にいるのだ。
「とは思いつつ、もう少し高校生活も楽しみたかったんだけどね」
それは紛れも無い本心だった。
いや、まだ遅くは無い。今更引き返すというのは無しにしてもこれから何が起こるのかはまだ不確定。今後の行く末がどうなるかなど分かりはしない。
「と言っても結果がどうなるかだけは察しはついてるんだけどね」
そう嘯いて彼女の足は階段に足を掛けた。塵と埃に塗れた薄暗階段に。それが自分にとっての十三階段であるのを承知しながらも、だからこそ一歩一歩ゆっくりと。六階を登りきると、風子の前には屋上の扉があった。割れた窓から灰色の空が見えた。
そうして卒業式の前の日に決めた決意は、今ここに実を結ぼうとしていた。
その日、風子は街中に出ていた。とあるモノを探しに。それが何なのかも分からずここにいる。
人なのか、物なのか。場所なのか、手段なのか。行動には何の指針も無く、目的とするものの情報も無い。けれど風子には『それ』がここにあるという確信があった。
そう告げているのだ。直感が。
ここに辿り着くまでにいくつかの場所を渡り歩いた。北は海辺の近くまで、西は山奥まで。結果だけを見れば何の手がかりも得られはせず、ただでさえ少ない時間を浪費しただけに過ぎない。
それでもそれが無為だとは思わない。全ては今日の為にあった。力を抑える事もなく全力を持ってしてこの場所に至ったのだからその行動が間違いな訳がない。
では力を抑える、とはどういう事だろう。表現としては妥当な言葉であるが、日常的に行うという事は椿野 風子にとってどういう事か。
一言で言ってしまえばそれは感受性を抑えるということに他ならない。
その能力がどの程度のものか。それはまだやった事もないしやろうと思わないが、風子がその気になればダウジングなどで埋蔵金などを探し当てるのも可能な程のもの。
肌で大地の息吹を感じ、流れる風の音を聞く。全ての事には道理がある。何かがあるのなら必ず生まれる違和感。その違和感をただの気のせいだと切って捨てない。ただそれだけの事。
その能力を勉学に生かすなら文章上に宿る思いを感じる。または状況から判断して得た答えの成否を知る。スポーツに生かすなら自分の肉体を把握し、最善に動かす。それは時に未来予知にも似た能力を発揮し、風子を支え時に苛んできた。
類まれなる第六感。それを理解する知力と、支配する精神力。これこそ人間離れした風子の全力である。
「気分は大航海時代のコロンブスとでも言うべきかな」
屋上の扉を開けた風子の感想はそんな所だった。思えば彼女は何かあると直ぐに空に近い場所に来ていた。
「それでも一度も虹を見れた事は無いんだよな。なぁ、あんたは虹を見たことはあるかい?」
「えぇ、何度もあるわよ」
実際耳に言葉が届いているわけではない。これも錯覚と思えば、そう断じてしまいそうな声である。
「そうかい。名乗るのがまだだったね。あたしの名前は椿野 風子。花の女子高生さ」
その言葉に反応するように風子の前に薄らぼんやりと光が見えた。それが人の形をするのにはそう時間が掛からなかった。
「私の名前はメルシェル。一応は天使よ」
そうしてそれは風子の前に現れた。まるでミケランジェロの彫刻の如き黄金率で出来た整った顔。神々しさと暖かさを兼ね備えた声。そしてこの場に似つかわしくない甲冑を着た女性。
太陽の如く煌く黄金の髪がふわりと肩に掛かった時、風子はその背にある翼に目がいった。
「天使か、まぁ宇宙人よりは当たりかなぁ」
その言葉に閉じられていた目が開く。蒼く煌くその瞳はサファイアの様な輝きをしていた。
「あら? 天使に会えたのに不満なのかしら?」
責めるような言葉とは裏腹にその顔からは一切の表情が読み取れない。ある程度相手の表情から感情を察する能力は持ち合わせていたが、いくら能力が高いといえど所詮常識の中に生きてきた風子に取ってメルシェルはそれぐらいに規格外の存在である。
ここは慎重に事を済ますべきか、と普通なら考えるのかな。風子の頭にはそんな事が過ぎった。
「いや悪魔とかの方が交渉しやすいとは思ってたんだけどね。まぁでも話が通じるようで何より。とりあえずよろしく」
そう言って風子は手を出した。
「交渉って何かしら?」
「その前にまずは握手だろ」
差し出された細い腕の前でなるほど、と天使は思索する。
まず私に触れる事で私が本当にここに居るのか、触れるものなのか確認する。その上、こちらは手甲をつけている。マナーとして見れば握手するのに一度武装解除すべきだろう。それを見越してこちらが手を返さなければ交渉の余地がないと判断する。そして今出した案のどれかを考えたのか、または何も考えなかったのかで相手の思考能力を判断する、といった具合か。
無論これはそこまでこの少女が考えているという発想の元でのことだが。
しかし、あくまで自分の目的は交渉であると最初に口に出している辺りから色々と策略を練っているのかもしれない。
「抜け目無いのか臆病なのか、それともただ握手から始めるという交渉術なのかしら。まぁ良いわ」
いずれにしても気にする事は無い。
天使にとってそこにどれだけの罠や思惑があれ、差し出された手を払う考えは無いのだ。
ぽんっと音を立てて、風子よりも長身の美しい女性は、みすぼらしい格好をした少女へと姿を変えた。
「くぁ~……。おっとごめんごめん仕事の後なものでね。では、よろしく~」
大きな欠伸の後に握り返された手。その瞬間風子の頭に古びた映画の様な映像が脳内を走る。
「こちらこそよろしく」
一瞬で気を持ち直し確りと手の感触を確かめる。風子の率直な感想は、ただの普通の女の子の手だった。
もう一度天使と名乗る少女を風子は観察する。確かに先がくすんでいる翼や汚れた服などが少女をみすぼらしく見せているのは事実だったが、小柄な身体に流れるような金色の髪。綿の様な頬など人形の様な愛らしさを持った美少女である。
先ほどの姿もそうだが、確かにこの姿でも人間離れした容姿は天使と言われれば納得してしまうものがある。
しかしそれだけである。風子が求めた何か、それが目の前の少女なのかは分からない。
「で、自己紹介も終わった事だし交渉を始めましょうか?」
逡巡している風子を前にメルシェルと名乗る天使は頭を掻きながらそんな言葉を口にした。
しかし愛らしい容姿といえど威厳と風格を無くした姿ではある。流石の風子も少し困惑する。
「う~ん、なんだか小さい女の子に相談するってのも微妙な気分だな。ねぇさっきのカッコいい方になってよ」
「別に良いけど貴方は見掛けで判断するタイプの人なのかな?」
メルシェルはそう笑顔で問いかける。
「そうだな、その通りだ。失礼した」
そうして風子は事の発端から丁寧に話し出した。二年前に見た夢。日に日に感じる死の影。そしてそれが自分の後輩にまで及びそうな事を。
天使は眠そうな目をしながらも確りと相槌を打ちながら話を聞いていた。
「以上、お話終了。ご清聴ありがとうございました」
言って風子は大げさに頭を下げた。その様子にさして興味を示さず、天使メルシェルは語りだす。
「なるほどね。それで貴女はその夢の中の問題を解決してもらう交渉をしにきた訳ね」
そういう事。と風子は頷いてから、
「では早速報酬の交渉から始めようか」
と切り出した。
「いや別にいいわよ。私天使だし」
メルシェルは、そう言って興味のなさそうな顔をしている。
しかし、風子にとってそれは大切な交渉事だった。なんせ事が解決した後に貴女の親しい人の命を貰うなどと言われれば元も子もないのだから。
「そういうなって金、銀、宝石の類なら用意できるぜ。後はそうだね、この身体とかかな。事が上手くいくならこの命を持ってっても良い」
その言葉に天使は呆れた風に返した。
「心配性ね。悪魔の類じゃないと言っているのに……。大体こんなに愛くるしい悪魔なんていないでしょ」
「本当にあんたが天使かどうか。それは大した問題じゃない。あたしはあたしの問題が解決出来るならそれで良いのさ」
「ならさっきの話だけれど。貴女は本当に信じているの? そんなオカルトの様な話を。本当にそんな夢の話だけで自分が死んだり後輩が死んだりすると思っているの? ただの妄想といえばそこまでの話でしょ」
「妄想か、そう言われれば返す言葉も無い。ついでにアンタもあたしの妄想でっていうなら中々に笑える状況だ。だけどあたしはあれが現実に何かを及ぼすと確信しているし、もしあれが単なる妄想で全てはあたしの勘違いなら別にそれでも良い。
本当に何も起きなかったのならそれに越した事は無い。だけどもし何か起きてからじゃ手遅れだろ? そうやって気のせいで済ませて見て見ぬ振りをして結果、後悔する位なら恥の一つでもかいた方がずっとマシじゃないか」
風子にしては珍しく熱く思いを語る。そもそも風子は未だに天使も悪魔も死神も信じてはいない。目の前に居る少女も言ってしまえばトリックで突然現れ入れ替わっただけかもしれないのだ。
しかし知性が判断する所とは別に、脳に閃く直感はこれが現実だと告げている。心ではこれが超常のものだと認識はしている。問題は、目の前の少女が信頼できるか否か。
そうは言っても背に腹は代えられない状況の風子は、せめて何か優位性を得ようと似合わない小細工に出ているのだった。
「だったら報酬は貴女が小さな女の子にお願いする屈辱感、とかで良いんじゃないかしら」
そんな風子の様子をどう見ているのかは分からないが、天使メルシェルはあくまで場を和ませるように軽口を叩く。
「引っ張るね」
「貴女の方もね。大体切羽詰ってるのでしょう。貴女の言わんとする事は分かったから無駄話はこれ位で終わりにしなさい」
「りょーかい。申し訳なかったね。ならありがたくその言葉を全面的に信用させていただくよ」
言って頭を下げる風子にメルシェルは少し微笑んだ。
「理解してくれて助かるわ。こちらとしても貴女の懸命さは理解できたしね。そう……だから貴女はあんな辺鄙な場所まで私の後を追いかけていたのね」
今まで風子が無作為に歩き回ったその場所。無意味に思われた行為だったが、実は行く先々、常にメルシェルが居た。最もメルシェルは次の場所へと直ぐに飛び立ってしまった為に殆どすれ違いではあった。しかし結果としてその行為がメルシェルの気を引く事となり、突然の来訪者である風子ながら今メルシェルは自らの姿を現して話をしている。
そこで一つ疑問に思いメルシェルは口にする。
「そういえばどうやって今まで私の後を追いかけられたの? 占いとかダウジングとかかしら?」
「いやいや、ただの勘だよ」
あっけらかんという風子に対し、メルシェルは少し深刻そうな顔をした。
「そう……。占いの方が幾分か救いがあったんだけれどね。折角だし一つ教えてあげる。私がなんで今まで色んな場所に居たのかを」
メルシェルは語る。今までメルシェルと風子が訪れたそこは何処も自殺の名所として名の知れた所ばかりだった。ここにしても幾度鉄条を掛けて封鎖しようともなぜか進入され飛び降り自殺をされる場所だ。
そこに天使が居る理由それは―――。
「悪霊退治が一番語感的には正しいわね。そんなに難しい話じゃないんだけど、偶に死んだのに魂が地に還る事も天使に回収されることも無くその場に残ってしまう場合があるの。自縛霊って言われるやつね。それらは特別知恵を持っているわけではないんだけど、ただ本能的に仲間を求めたり食事が欲しかったりで生きてる人を巻き込みやすいの。私はそういうのを探知しては埋葬してるってわけ」
つまりさっきも戦ったばかりなんだよね、とメルシェルは口にする。
「とは言ってもこれはどっちでも良い話。問題は貴女が何故そんな場所に惹きつけられたのかって方ね」
メルシェルは高らかに宣告した。
「貴女は今、死神に魅入られている」
「そりゃ知っている」
風子は今更何を言っているのか、といった表情をした。
「でも事態は貴女が考えてるより悲惨よ。悪いけどさっき貴女と握手した時に魂の様子を確認させてもらったわ」
風子が小賢しい策を弄していた時、メルシェルの方はそれを逆に利用していたのだった。
「確かに貴女は素晴らしいセンスを持ってるわ。貴女が何らかの手段を用いていたのならまだその線もあった。けれど本来ならありえないのよ。貴女の様な人が私に辿り着くなんて」
そこで一言区切ると天使は遠くを見た。
「私は死霊埋葬とか、死神潰しを中心的にやってるの。完全な戦闘タイプね。で、結果死神達から追われる立場な訳。本来貴女にとって考えれば私は貴女の悩みを解決するのに最適ではない。けれど死神に近づきすぎた貴女は、その因子に引き寄せられて私にめぐり合ってしまった」
だからもう貴女は……、そう続けるメルシェルに風子は言葉を遮る。
「結論の前に、あたしの症状をもうちょっと説明してくれないか?」
「えぇそうね、もう少し現状を理解したほうが良いわよね」
言ってこほん、と咳をしてメルシェルは語りだす。
「簡単に言ってしまえば貴女はとても優秀な人間なの」
「そりゃ知ってるさ」
「そうですか。いえ、自身でも感じる所があるのかもしれないわね。貴女の優秀さ。それに所以するのが全知の欠片よ」
「全知の欠片?」
「貴女も何度か体感していると思うわ。この先何が起こりどこで何をすればどうなるのか。それを直感的に知識の湖から拾う力」
「知識の泉ねぇ」
「アカシックレコードとでも言うべきかな。この地上に誕生する知性が生まれる場所にして帰る場所。そこにアクセスする力を全知の欠片というわ」
「それって凄いのか?」
「単なる人間が彷徨っている天使を直感で見つけられたのだから凄いと思わない?」
「そうなのかなぁ。だが欠片なんだろ」
「当たり前よ。例えばこの先に何が起こるかが全て分かる人間が居てその人間は何をすると思う?」
それは……、と風子は考える程の事でも無いか。
「何もしない、か。そりゃそうだよな。この後何が起こるか分かっているのに何かする方がおかしいわ」
もし未来が変えられるなら変わった未来すら見える、そんなものは何も価値が無い。
「完全なる全知は神の領域よ。そもそも人間の脳に入りきる情報量じゃないしそれで生きられる人間なんて居ないわ」
「で、その欠片が私の中にあると」
「そうね、それ自体は本来多少なりとも誰しもの中にあるのだけれど、その中でも貴女は特別多くの因子を持っている。普通に暮らすのが困難な程にね」
「それで何であたしが死ぬのさ」
「それは人に過ぎた力だからよ。多かれ少なかれ異常を抱えている人は居てもその度が過ぎればそれはもう人間じゃないもの。明らかでしょ。過去も未来もある程度見通せるなんておかしいって。まぁ産まれる時の魂に異常があったっていう話だから貴女そのものに非は無いだけに悲惨な話なのだけどね」
「じゃあ何で今更殺されるのかね」
「逆よ。まだ見つかっていないわ。ただ貴女が自身の力で先を見越してしまっただけよ」
「それが二年前に見た悪夢って事か」
「その通り。貴女自身がもっと本格的に力を使って居ればもうとっくに事態は終わっていたわ。アンコントローラブルな点が逆に救いとなっていたのかもしれないわね」
「そうか。それであたしはこの後、死神に襲われると」
「そう遠くない未来に必ずね。何せそう自分で未来を見たのだから」
なるほどね、と風子は頷いた。
「そしてこれが事態の全容だけれど、まだ気になる点はあるかしら」
メルシェルの問いに風子はいや大丈夫、と声を出してから唸った。
「うーん、理解はしたが、しかしなぁ。謎は謎のままの方が美しいって言葉があったけど。いやこちらが勝手に期待したのがいけないのは分かるが、そんな微妙な落ちだとは思わなかった」
なんというかまとまりの無い話だ。それが風子の感想だった。
分からない事は恐怖であり、知らない事は魅力である。陰陽道やブードゥーの呪いとかの方がもっと現実味を感じられたのかもしれない。魂、死神、天使、超能力。漫画にしても設定過多で統一感が無い。だからと言ってどうする事も出来ないのだが。
「それでも貴女はもう理解している筈。貴女の幸福は全知を受け入れられる才気があった事ね。けれどそもそも事の発端を考えればそれがそのまま貴女の不幸に繋がっているのだけれど」
悲しそうに告げるメルシェル。
なら、と風子はメルシェルに話しかける。
「あたしが幸か不幸かってのはとりあえず置いといて。とりあえずあたしに死神の倒し方を教えてくれ」
「あら、あたしに倒して欲しいって言わないの?」
他人に迷惑を掛ける事に躊躇しない風子だが、他人に面倒を押し付けて頼りきるのはまた別の話なのだ。
「自分の運命ぐらい自分で解決するさ」
自分の尻は自分で拭く、そう言わんばかりの発言。どこから来る自信なのかメルシェルは判断できなかったが、そういう人種なのだろう。
もしかしたら対処法を教えれば風子なら倒してしまうかもしれない。天使の目から見て風子はその位に優れた人間だと分かる。
「そもそもそれで本当に解決すれば悲惨なんて言わないわ」
「なんでさ」
「貴女はきっと一度や二度は倒せると思うわ。別にその点は代わりに私が倒しても同じ。でもその度に起こる不幸を必ず周りを巻き込むわ」
周り、と言われ風子は空也の顔を思い出した。
「被害が出るね、まぁ大なり小なりしょうがない気もするが」
「そうかな。貴女には一人も大切な人が居ないのかしら? と言っても多分貴女に一番近い人は、もう無理だろうけれど」
風子はちょっと待てとメルシェルに詰め寄る。
「あたしが狙われる理由や夢の中に現れるのは大体分かったけどクゥ君は関係ないだろう」
風子の件は、しょうがないと言える。そういう巡り会わせだったと言えばそこまでだ。だが榊原 空也がこの件に関与する点は一切無い。
あの子は普通の、優しい子だ。
断じて死神が空也を襲う理由など無いはずなのだ。
「後輩君の話はね。貴女と一緒に居すぎたのが原因よ。人と人は繋がっている。それは肉体的な事では無くて精神的な所でもね。お互いに同じ夢を見たりするじゃない。そういう風に人と人は目に見えない繋がりがあるの。決して貴女の力は感染したりする訳じゃないけれどそれでも魂の匂いというものが他についてしまう事はあるのよ」
「それでクゥ君が襲われる、と」
「残念な事にね。もうこれは貴女が例え死のうとも関係のない話よ。貴女に近付き貴女と共にあるその後輩君は必ず死神の標的になるわ」
事故に巻き込まれた哀れな被害者、それが榊原 空也であった。
「どうすればクゥ君は助かるんだい?」
「……自分が、とは聞かないのね」
「それはもう覚悟しているからね」
嘘偽りの無いその言葉に、メルシェルはため息を漏らす。
「一応、貴女は助かるわ。死神が襲ってくるその瞬間を狙えって来た所を叩く。その後は何処かの山にでも篭りなさい。そうして人に見つからずに過ごせば生きてはいけるわ」
「くっくっく。それは凄い。正にハッピーエンドだ。で、その問題点は?」
目は笑わずに風子は問う。
「……後輩君が確実に救えないという点ね。まず次の死神が行動を始めたら先に襲われるのはその少年だもの」
「そうか、それはあたしが生きている限り繋がりがあるって事かい?」
えぇ、とメルシェルは同意した。
「なら悪いがクゥ君を守ってくれ」
「……貴女今能力を使ったわね」
「はは、ご名答。そうさ。あたしが死んであたしとの繋がりが薄れれば死神の襲撃も一度こっきりだろ。ついでにクゥ君の中にあるあたしとの繋がりも消しといてくれれば後は問題ない」
「二人で山に篭るってのはどう?」
「それじゃあ駄目だね。何時襲われるか分からない日々、二人きりってのは刺激的だがそんなものはクゥ君には辛過ぎる世界になっちまう」
平穏とは間逆の、刺激的と言う言葉では足りない残酷な世界。そんなものは風子の守りたい榊原 空也の世界とは相容れない。
「後、まぁ一応聞いておくけど他に助かる方法はないのかい?」
「もう私より貴女の方が理解しているんじゃないかしら」
「そうだね、やっぱあたしが生きているとどうあってもクゥ君は救われないのか。まぁしょうがないか」
自分が死ぬ事をさも当然のように言う風子。
いやメルシェルも分かっていた。繊細に世界の在り方を感じるこの少女は、既にどうすれば目的を果たせるかを理解していた。そして覚悟の上なのだろう。だからこうして落ち着いていられるのだ。
それでも、その覚悟を認められるメルシェルではない。メルシェルは額に手を当てて困った様に言う。
「確かに死神の目標は確実に榊原 空也という少年に決まるわね。貴女が死ぬ事によって繋がりは薄れてそこと叩けば二度目は消してこない」
ただし、と天使は続ける。
「それを私が行うのか、というのはまだ別の話よ。目の前で死のうとしている命を私が許すと思うの?」
「いいや同じ話さ。最初からあたしはあたしを助けて欲しくて来たわけじゃない。救うべきは空也の命であって別に今更あたしがどうなろうとどっちでも良いんだよ」
頑なに退かない風子。メルシェルは語気を強めて説得する。
「未熟な私を恨むのは構わない。無力な私を蔑むのも良いでしょう。だから諦めなさい。英雄の様に命を掛けて誰かを救うのは人として美しい行為だけれど、それでも命を捨てて誰かを救うのは罪深い事でしかないわ」
「英雄だなんて大げさなもんじゃないさ。これは私の生き様なんだ」
「貴女はそんな言葉で人生を捨てるの? 確かに彼は不幸だわ。けれどそれと貴女とは何も関係ないのよ」
「良いんだよ。欲しかったものはもう見れた。やっとあの空がね」
吹き抜ける風の様に曖昧で、ただ悪戯に事を起こしては去って行くいい加減な少女。そんな少女と違い、まるで曇天の空のような悩みを抱えた少年。それが今や友人を増やし、目的を持ち今を生きている。その心内が青空とまでは言わないがもう土砂降り模様は描かないだろう。それを思えば何の悔いがあろう。
「大体そういうならあんただって同じ穴の狢だろ」
分かった風な表現をする風子にメルシェルは反論する。
「いいえ違う。私は天使よ。人間じゃない」
「ならあたしは先輩さ。そして椿野 風子なんだよ」
一時の沈黙。しかしその決着は早くに済んだ。幾ら助けるかどうかの選択肢がメルシェルにあると言っても結局救われるかどうかの選択肢は風子のものなのだ。一人のか弱い人間が自ら命を投げてまで誰かを救って欲しいと天使に頼む。その願いに天使は答えない訳には行かない。
「止めても無駄、なのかしらね。何が貴女をそこまでさせるの?」
風子は過去を顧みる。
「何が、か……昔、まだ私があんたの身長より一回りも小さい頃にさ、道端で轢かれてくたばってる猫がいてね。それを見たあたしはまぁ、かわいそうだなとは思ったよ。
んで次の日に飼っていたアリア……猫が死んだんだ。飯時だけニャーニャー煩い業突く張りの三毛猫だった。まるまる太って不細工な面だったけどそんなんでもあたしの唯一の家族だった。
だけどね、あたしはそいつの死体を前に泣けなかった。
だってそうだろう。昨日死んでいた猫と今目の前で死んでいる猫。その違いが何処にあるんだって話じゃないか。
確かに唯一の家族だったさ。仕事熱心な両親と変態の兄貴は血は繋がってはいたが本当の意味で家族とは思えなかった。
何せ無関心を過ぎてお互いに顔も把握していない両親と、兄貴は逆にシスコンを拗らせて崇めて奉ってくる気持ち悪い奴だった。
そんな中で唯一の家族と言えるのはそのアリアだけだったのさ。
でもそうは言ってもその二つの死に違いが見つけられなかったあたしは、ならせめてそういう人間になろうと思ったよ。誰にも寄らず、誰をも気にしない人間に。一人ぼっちの完璧な寂しい人間にさ」
まぁ失敗したがね、と風子は笑う。
「凄いひねくれ方ね。全く呆れてしまう。涙を流すのは弔いのため。共に生きて居られたならあった未来を思い泣くの」
「それも分かってはいたさ。でもそれなら道端で死んだ猫とはただ縁が無かったの一言で済ませれば良かったのか?」
「いいえ、それが分かったならその時二回泣けばよかっただけの話じゃない。きっと貴女の間違いはそこから始まってるのね」
「間違ってるか。中々辛辣な言葉だな。そんな間違いから続いているあたしをあたしは好きだったのに」
「あらごめんなさい。でもその言い回しだと今は違うのかしら?」
「そうだね。少なくとも誰かの為に自分の主義を曲げる程度には変わったよ」
そして今のメルシェルの言葉を理解出来る位には優しくなれた。
「泣くのは今からでも遅くないのよ」
「いや、止めておく。そこまで優しくはなれないよ」
泣けそうではあったが、泣く気は起きなかった。それは今までの自分からのちっぽけな反抗だった。
「しかし誰か、ね。恋人の間違いじゃないの?」
天使のまっすぐな瞳に、少女は声を上げて愉快そうに笑った。
「くっくっく。止めてくれって。あいつはただの後輩だよ」
そして風子は空を見上げる。
「後はまぁ、たった一人の家族さ」
孤介故に孤高だった彼女は、あの日仲間を見つけてしまった。
風子もかつて風変わりの風子などと呼ばれていた。その思い出に特別捕らわれている訳ではないし、自分の名前を嫌いな訳でもないが、空っぽの空也と呼ばれる少年に親近感を感じたのも確かだ。
そんな感情から始まった二人の関係。からかって暇を潰して、飽きたり面倒になったら何時ものように立ち去ればいい、その程度の軽い気持ちからだった筈なのに。
いつからだろう、気弱で頼りない少年をからかうのが楽しくなったのは。
いつからだろう、自分を慕う努力家の後輩の成長を見るのが楽しくなったのは。
いつからだろう、優しくて暖かい心を持った一人の男の子に愛しさを感じるようになったのは。
いつからあたしは、こんなにも弱く、そして強くなったのだろう。
自分の死を受け入れるのは簡単だ。けれど他人の死を受け止めるのは難しい。
誰かの人生を守ると誓う。それは完全なエゴ。身勝手に責任を負うという見苦しさは彼女の求めた人生とは大きくかけ離れている。
それでも、今まで愛していた自分を捨ててでも今ここに居る自分を彼女は愛している。最愛の家族の為に今までの主義もこれからの未来も捨てられる自分を。
「貴女こそ良いの? 出会ったばかりの私を信用しても」
「あたしの力、じゃないな。こればっかりは」
鼻を掻きながら少し照れくさそうに風子は続ける。
「あたしはあんたが気に入った。勘じゃない。全知の力でも無い。メルシェル、あんたは信用出来る。あたしの心がそう囁くのさ」
メルシェルが風子の魂を覗く時に流れ込んだメルシェルの過去。微かな映像だったが、傷つきながらも必死に前を向き続ける姿。そして突然の来訪者にも真摯に耳を傾け相手を気遣い叱責する姿に、風子は尊敬の念すら抱いていた。
頭の片隅に寄せていた、自分が居なくなった後の空也の姿。ここまでお節介ならそれすらも勝手にやってくれそうだ。
「何から何まで世話になりっぱなしだけど、じゃあ頼んだぜ」
そう言って屋上の端へ進んでいく風子。欲しかったのは確証。自分から始まる悪夢。それによって死ぬ空也。その始まりである自分が自殺でもしてしまえば空也が死ぬ事は無いのかもしれない。
最もそれでも空也が死ぬ事実が変えられないのであれば意味は無い。保険を掛けるのは趣味ではないが、一か八かで人の命まで懸けるのは愚か者のする事だ。
故に求めたのだ、確証を。自分が死んでも繋がる希望がある事を。だから問題は無い。砂漠で一粒の金を見つけ出す様に見つけた一筋の希望。後はその希望に未来を託すだけなのだから。
「安心しなさい。貴女の遍く不安は全て払ってあげるわ」
その言葉に、いつも通りの笑顔を浮かべ、風子は宙へ舞った。
それは一陣の風のようだった。
そうして椿野 風子という少女の物語は幕を閉じる。
風の様に気ままに生き、最後は風となった少女。
誰も居なくなった廃ビルの屋上では一陣の風が吹いていた。