榊原 空也Ⅴ
3/3
「何しているの早く逃げなさい」
ギン、と剣と剣がぶつかる音がする。それは目の前で行われている実際の戦闘。明らかに場違いな空也は、一瞬、判断に困るも、確かに足手まといでしかない事に気がつき後ろへ駆ける。
「けど何処へ行けば!」
場所は三十メートル×四十メートルの立方体。隅にいようともあの速さではあまり変わらない。ならばいっそ表へ。そう考え出口に向かう。
しかし辺りに扉は見つからない。ここが記憶で出来ているというのなら確かにある筈の場所に扉が無い。パニックにならないように冷静に壁際まで下がりもう一度辺りを見回す。天使と死神の剣戟は場所を映画館の中心、座席の中へと変えていた。天井や、映写室を見ても薄暗く、何も見つからない。
「くそ、どうすれば良いんだ……」
その時、スクリーンの先に見つけた一つの人影。今まで一度だって見間違うことは無い。忘れた事も無い。それは……。
「せ、先輩ッ」
椿野 風子その人だった。故人の筈のその人は空也が最後に見た姿のままに、記憶と何一つ遜色なくそこに居る。
「先輩ッ」
空也は声を荒げて叫ぶ。
「……」
椿野 風子は答えない。
「風子先輩ッ」
あの時の、あの姿のままで黙っている。
「俺です。空也です」
ひらりと身を翻し椿野 風子は去っていく。
「待っ、待ってくれ」
急ぎ空也は追いかける。その背を、あの頃と同じように。
「何をやっているのよッ!」
メルシェルが叫ぶ。しかし空也はそれを無視して風子を追った。
スクリーンの前に立つ空也。映写機は動いていないのに画面には風子の姿があった。かまわず空也は思いをぶつける。
「先輩は、何時しか大きくなって皆に歌を聞かせるのが夢だと語ったのに、なんで……」
風子は答えない。
「教えてくれ、教えてくれよ先輩。先輩の夢は、俺達が追いかけた夢は何処に消えたんだよ」
「……」
無言の風子を前に空也は手を伸ばす。
「止めなさい。死者は何も語らないわ」
風子の背を掴もうとした空也は、メルシェルからの叱責で手が竦んだ。
「……死者」
そう、そうだ。確かに先輩は死んだ。だからどうした。ここは夢の中だ。このまままた何も出来ずに居るのか? また失うのか? また逃がすのか?
「ちっ、危ない。けれども!!」
横では天使が死神と交戦している。その最中、天使は空也に向けて声を荒げる。
「誰かの死を恨むな。自分の命を恥じるな。椿野 風子は死んだ。榊原 空也は生きてる。それが現実だッ!!」
何故風子は自分を見捨てて死んだのか。何故自分は風子が死んでいるのに生きているのか。そうだ、それが許せなかったんだ。
「面を上げて前を向け。貴方はまだ生きている。だから掴め。明日という光をッ!!」
聞きたい事があった。聞いて欲しい事があった。それよりもただ一緒に居て欲しかった。
けれどその願いは叶わない。だからこの悲しい答は既に空也の中で出されていた。
「先輩……」
その問いに彼女は答えない。
「先輩……」
死者は何も答えない。それは絶対の理。生命の法則。
「くそっ、どうすれば良いんだよ」
「前を向いて懸命に進みなさい。それが生きるって事でしょ」
メルシェルの言葉に空也は苦悶の表情を浮かべる。そして空也は風子に向けて言葉を紡いだ。
「俺、分からないよ。どうして先輩が死んだのか」
風子の後姿が立ち止まった。
「でも分かった。分かった気はするよ。例えどんな事情や理由があったとしてももう先輩は居ないんだね」
その言葉に風子はこちらを向いた。その顔は黒く塗りつぶされている。そんな姿になった風子にも空也は言葉を続ける。
「そうだ。俺も頑張ってみる。頑張って進んでみるよ」
黒い影の中。じっと見つめる風子の視線を空也は感じた。
「もう先輩は居なくてもそれでもこの世界は続いていくから。残った俺は俺の道を生きてみる。そうさアイツみたいに俺も胸を張って……」
だから、と空也はぽつりと零して言葉を続けた。
「……さよなら先輩」
ガシャン、と大きな音がして風子の姿は消えた。
最後に黒く塗りつぶされた顔が笑顔だったような気がしたのは空也の想いからなのか。ただ事実として風子の影は消えて空也は立ち止まった。
響くのはカラカラという映写機の音。それが椿野 風子の姿を映し出していたのだろうか。
映写機が止まると巨大な画面は消えた。すると空也は大きな穴の前にいた。とても暗い穴。漆黒を更に黒く染めた様に深く暗い穴。もしもう一歩足を踏み出していたらどうなっていたか。空也は唾を飲み込んだ。
そうして天使の一声もあり九死に一生を得た空也だったが、しかしメルシェルの方は危険な状況に追い込まれていた。命を削りあう戦場において他者に気を配るという不覚。
死神の天高く剣を構えると雷撃の如き一撃が天使を襲った。
その刹那、空也は叫んだ。
「頑張れメルシェル!!」
キンと、ぶつかる剣と剣、済んでの所でメルシェルは耐えた。
「任せなさいな!」
そう言ってメルシェルは翼をひらめかせる。
その顔は満面の笑顔だった。
「我が翼は弱きを守る盾にして悪しきを屠る剣なり。さぁそろそろこっちもフィナーレよ」
自らの命の証を散らしてメルシェルは叫ぶ。散った羽が死神を中心に渦巻く。
「これで終わり!!」
その言葉を皮切りに一つ一つが純白の剣と化して襲い掛かる疾風迅雷の攻撃。壮大さと残酷さを兼ね備えた天使の持つ必殺の技。死神は避ける事も守る事も許されず、数十の剣に貫かれた。
剣による竜巻。その結果は無残なものだった。甲冑は跡形も無く崩れ、崩れ落ちた先が地面に触れた瞬間に塵とも分からぬものとなっていく。
そうしてもう1つの戦いも決着がついた。残されたのは傷だらけの天使と一人前の男の顔をした少年だった。
「貴方の中にあった椿野 風子の残滓は消えた。これで私の役目はお終いね」
気がつけば最初にあった小さく汚れた少女の姿がそこにはあった。そして天使は肩幅より少し小さな翼を羽ばたかせ宙へ浮いた。
「お、おい待てよ」
「うん?」
今にも飛び立とうという天使に空也は声を掛ける。
「もう行くのか」
メルシェルは振りむく。
「えっ、泣いてるの?」
「煩い、もう行くのかって聞いてんだよ」
涙を拭いながら空也は叫んだ。
「羽は風に舞い飛ぶ。ならば同じ場所に在り続ける道理はないわ」
「わけわかんねぇ……」
「もっともだわ。まぬけな詩人の癖が移ったのかもしれないわね」
何時しか薄汚れた映画館だったその場所は、青空の下に広がる草原になっていた。
「大体何なんだこれは、どうして俺は襲われたんだ」
「ないしょ。人生知らない方が良い事も多いわよ」
「じゃあ、なんでお前は俺を助けてくれたんだ? なんで傷ついてまで……」
見ればメルシェルの翼はまた少し短くなっていた。彼女の命とも言える翼。残された最後の双翼。彼女の命。
涙を堪えながら尋ねる空也に「ま、それ位は良いか」とメルシェルは言葉を続けた。
「それが私だからね」
きっぱりと何の躊躇いもなく天使は語る。
「天使は夢を見ない。ただ従順に使命を人々を守るという使命を全うし消えていく」
それはどこか寂しそうな顔だった。
「夢を見たいと願ったけれど私は天使。そういう風には作られていない。そんな夢をみる事が出来ない私に出来るただ一つの事。それが誰かの夢を守る事。その為に神の楔である天の輪を砕いてしまった。もうどの道何時か消えるのだから。せめて終わりまでだれかの夢を見続けたい」
それは痛ましい願い。苦行を自ら進んで受けるその姿、その健気さを誰が止められるものか。
「そこまでしなきゃいけないのかよッ!」
それでも叫ばずに入られなかった。泣かずに入られなかった。こんな悲しい事に、それでも後悔はないという彼女を前にどうして誰も彼女を救わないのか。
「もっともね。だけど、これが私が見れる唯一の夢なの」
満面の笑みで微笑む天使。その笑顔の前にもうこれ以上空也は何も言葉を持ち合わせてはいなかった。
人間ではありえない完全なる自己犠牲。傷つく事を恐れず報われる事も求めない。その在り方は、例え光輪が無く翼が消え翼が汚れていようとも彼女は天使なのだ。
悲しいまでに天使なのだ。
「ならなんで俺なんだ。俺には夢は無い。目標も目的も理想とする姿ももう何処にもないんだ」
「分かってないわね。貴方の命そのものが私の夢なのよ」
それは天使の唯一つの矜持。
「だから忘れないで。この後貴方は傷つき挫折し目標は夢半ばで破れるかもしれない。それでも貴方は生きていて。生きていてくれればもうそれだけでそれは尊い私の夢となるの」
祈りに似た願いを告げるメルシェルに空也は言葉が出ない。
「私を忘れてもそれだけは忘れないでね」
言いたい事はあった。その理不尽な在り方に疑問すらもあった。けれどまだ少年である空也にそれを声にするだけの言葉は一つもない。止まらない涙だけが彼に出来る唯一の反論だった。
「じゃあ、さようなら」
別れは何時でも突然で、唐突だった。空也は言葉を返す暇も無く天使は空へ飛び立つと消えていった。
帰る、訳ではないのだろう。この地上に彼女に戻るべき場所は無いのだから。もし帰ることが許された場所があるならそれはきっと戦場だ。幾千の年月を超えて未だ抜け出せぬ牢獄。戦いが終わればまた次の戦場へ。傷付き死にいく人間を探し、その運命に抗う。その為に今日も天使は舞うのだろう。その命が尽きるまで。
いつか空へと帰る日まで。
目が覚めると、そこは何時もの部屋、何時もの場所。
何も変わっていない。何も。
憧れた先輩はどこにも居ないし、自分が見た夢はもうどこにもない。
外を見ればそこに広がるのは青空ではなく、暗い夜の空。
ここは現実。何も変わらない現実。
ふと手の中に違和感を覚え見てみる。そこには一枚の羽があった。
純白ではない。薄汚れ傷付いている。けれどそれはどこまでも無垢で純真だ。
何も変わっていない。そう何も変わってない。
あの頃先輩が追いかけた夢も、一緒に見た夢も。まだこの胸に燻る情熱も何一つ変わっていない。
天を見上げ、夜空に羽を飛ばす。
「さようならメルシェル」
羽は風に舞い夜の町へと飛んでいくと姿を消した。
そうして彼女と少年のたった一度の邂逅は終わりを告げた。
叶わなかった夢は何の為にあったのだろう。
努力して、頑張っても結局夢が叶わないなんて事は当たり前で。
自分の意思か、他人の影響か、それとも時間切れか。一握りを除き皆、挫折する。
頂は高く、狭い。その道中に幾つもの夢の残骸が積まれている。
どうして夢を追うのだろう。
辿り着く人間は一握り。頂に辿り着く可能性なんて無いに等しい。
どうして夢を見るのだろう。
生まれた瞬間から人は不平等だ。
財力が、才能が、環境が、時代が、違う。
描く夢の形すら違うのに。
なのに何故夢を見ることは平等なのだろう。
あぁそうか、生きるという事は夢を見ることなんだ。
30/3
「忘れ物は無い? 今日はオーディションなんでしょ」
「もう心配性だな、母さんは。必要な物はもう向こうに送ってあるから大丈夫だよ。後はコイツだけさ」
「そう、ならいいけど」
「いけね、そろそろ時間だ。そういう話は帰ってからするわ」
靴を履き終えると男は振り向く。
「それじゃあ行ってきます」
そう言って男は駆け足で家を出た。背中には大きなギターケースを背負っていた。
「遅いぞ空也」
目の前には一人の男が居た。胸に十字架を下げた金髪の男。
これで神父を目指しているというのだからこの先はどんな不良神父になるのか不安だ。
「悪い永正。じゃあ頼むわ」
そうして永正の乗った車へと空也は乗った。
道中、あの頃から変わった街並みを見ながら空也は思った。
あの出来事から数年経った。彼は今、使い古し傷んだギターと一曲の歌を引っ提げてオーディションへと向かう。
とても困難な道だった。初めは路上演奏から地道に始めていった。無視される事も多々あった。酔っ払いに絡まれる事も。それに日本人離れした体格や顔付きなどで揶揄される事もあったが、それでも彼は挫けず歌い続けた。
周りには友がいて家族が居る。そして自分を導いてくれた想い出も。ならば何も辛くはない。嘆く事などありはしない。
歌う唄はいつも一つ。その曲名『空の天使』
それはかつて、一人の少女から託された曲を元にして作られた天使に向けた小夜曲。まだヒットチャートに載る様なものでは無かったが、天使すら嫉妬してしまう歌と巷では評判だ。そして今、その評判を聞き付けプロにならないかと音楽会社から声が掛かったのだった。
車は大きなビルの前で停車した。
「忘れ物は無いよな」
「今さらだよ。大丈夫。何も問題ないさ」
「じゃあ行ってこい」
「あぁ行って来る」
そうして空也は音楽会社へと向かった。今日は大物音楽プロデューサーへ直接曲を聞かせる事が目的だ。
ロビーで受付を済ますとそのまま何もない大きな部屋へと通された。目の前には1人の男。男は黙って頷いた。それが合図なのだろう。
「さて、よろしく頼むぜ」
そう言って背中のギターを取り出す。それはあの頃から変わらない彼の相棒。別にプロになることが目的では無い。それはまだ夢の途中に過ぎない。ただその道こそが男が考え得るただ一つの手段だと思ったからここまで来たのだ。こうなったら行ける所まで行くしかない。そうして夢への扉を開けた。
「榊原 空也、曲名は『空の天使』よろしくお願いします!」
少年は大人になった。身長も随分と伸び、声も低くなった。それでも変わらないただ一つの夢がある。
あれ以来、肌身離さず羽をあしらったブローチを付けていた。それが彼女との再会の約束だ。
たった一つの夢を見る。お前が誰かを救うなら俺はお前を救う。お前が武力で助けるなら俺は音楽で助ける。
お前に夢がないというのなら俺がお前の夢となる。
そうさ。何処にいるのか分からないというなら何処にいても聴けるようにするんだ。
そんな日を夢見て今日も彼は歌う。
この歌声が彼女に届く様にと歌い続けている。