第7話 「おぼろな記憶」
山を抉った光の矢と、空を駆けたアーティーの姿に、村は大騒ぎになっていた。当然騒ぎが村の中だけで納まるはずもなく、村の外にも広く広がっていくわけだが、差し当たってアトラスとイアの二人にとって大変だったのは、夜中に家を抜け出して祭壇の洞窟に潜り込んだのがバレたことだった。その日は丸一日、両親にこっぴどく叱られた。
あの後、アーティーは姿を消した。それこそ文字通り、目の前で景色に溶け込むように消えて行った。ただ、姿を消した後も声はしたので、姿が見えなくなっただけでまだそこにいる筈だと、アトラスは確信している。
そんななので、アーティーと接触したことは今のところ二人だけの秘密だ。アーティーに勧められた通り、「夜通し扉を調べていたけど何もなかった」、「外の異変に気付いて避難していた」、「巨人が下りてくるのは見たけれどその後は知らない」と、アトラスは村の大人たちに説明した。もし本当のことを言っていたなら、アーティーが予想したように更に大きな騒ぎになっていただろう。大人たちの反応を見ながらアトラスは、それでも十分厄介なことになっていると思った。二人への追求はそう簡単には終わらず、アトラスは何となくイアがやって来た時とどこか似ているな、などとぼんやり考えながら話を聞き流した。
憔悴する大人たちの中には、村を離れようとする者までいた。大地を揺るがした光の矢の衝撃が、彼らの心を落ち着かせはしないし、また、頭上を見上げれば巨人が駆けた跡が空に残されている。いつも白く曇っていた空に残された爪痕は深く、その破れ目からのぞく青色は時間の経過とともに次第にくっきりとなり、同時に少しづつ広がっているようだった。その様がまた、天が落ちてくるかのようで、村人たちの心を掻き乱すのだ。何にしてもアトラスとしてはもう心配いらないと伝えてあげたいところだったが、その根拠を明かせない以上、黙っているしかなかった。
二人が洞窟に忍び込んだから、神の怒りに触れたのだ、という向きもあった。しかし、だったら何故その神の怒りで禁域の扉が焼かれたのか?というのも謎だし、また、謎の巨人との繋がりも不明で、分かることなど何一つない。焼け落ちた扉の向こう側も、崩れた土砂ですっかり埋まってしまっていて、村人たちでは手の着けようもない。結局、村の大人たちに出来ることは、怯えて逃げ惑うか、無駄な推論を重ねることくらいしかなく、生産的な結論など出る筈もなかった。
夜も深まってきた頃、ようやく解放された二人は大人たちからの詰問と説教ですっかりくたくただった。ジャケットを脱いでベッドに腰を下ろしたアトラスは、さっきの話を思い出して笑いが堪えられなかった。
「「空が落ちてくる!」だなんて、そんな筈がないのにね」
実際にアーティーと共に雲の上の世界を見て来たアトラスだ。雲の向こうに広がる青い世界が、その隙間から顔を覗かせているに過ぎないということはよく分かっている。例えるならばそれは、波を超えた先、水平線の向こうに何があるかは、実際にそこに足を踏み入れた者であれば現実のものとして受け入れられるのに、そうでない者には不確かな噂話や妄想でしかなく、恐れの対象になってしまうのと同じことだろう。
「でも、昔話だと空を支えている神様がいるって話じゃなかったの?」
イアが言うのは、あの神話の”天蓋の大神”のことだ。アトラスが散々、”天蓋の大神”は今でも世界のどこかで空を支えていると力説するから、イアもそういうものだとおぼろげに思っている。だからこそ、空の破れ目から何か途方もない物が落ちてくることがないとは言い切れないと思っているのだ。事実、光の矢は降ってきて、村の裏山に凄惨な爪痕を残している。
怯える大人たちにはきっと、空から降る矢は神々の怒りに見えたのだろう。天蓋の隙間からのぞくのは青く清浄な神々の住まう天の御国で、それを暴かれた神々が今再び怒りに満ちて裁きの矢を降らせていると言われれば、確かに納得してしまいそうになる。しかし、先に手を出して来たのは向こうの方だし、それに矢を放っていた気味の悪い銀のタマゴの姿をアトラスは見ていて、知っているから、それは違うと言える。あれは、断じて神様なんかではない。
ただ、アーティーの活躍で敵の攻撃を食い止められたことに間違いはなく、そういう意味ではアーティーが“天蓋の大神”に重なる。アトラスにとってそれは、何だか自分が英雄譚の一端に足を踏み入れてしまったようで、誇らしいようでいて、でもそれと同じくらい気恥ずかしくて、こそばゆい。そこでアトラスは、イアに自分が見てきた物を熱く語ってしまうのだった。理解の及ばない不思議なアーティーの中の世界。圧倒的で一方的だったアーティーの戦いっぷり。そして雲の上に広がる壮大な世界と、そこにいた気味の悪い銀のタマゴ。照れ臭さを誤魔化すためだったのが、あの広大な景色を思い出した辺りからアトラスの弁は更に勢いを増していった。
初めはイアも熱心に聞いていたが、アトラスがふと我に帰った時には、どこか上の空だった。一人で勝手に盛り上がっていたことに気付いてしまったら、熱弁も続けられない。
「どうしたの、イア?」
声を掛けると何でもないと首を振るけど、その顔は全然晴れない。確かに今日は色々とあって、ひどく疲れた一日だった。でもイアの様子は疲れとかそんなものではなく、放心ーー心ここにあらず、といった感じだった。
「本当に大丈夫?」
心配して顔を覗き込むと、目を逸らされた。俯いたまましばらくもごもごとしていたイアだったが、その口からようやく、言葉がこぼれだす。
「あの、空がね」
イアの言葉に耳を傾けたまま、黙って頷く。イアがおそるおそる訊ねる。
「あの青い空に見覚えがあるって言ったら、ヘン?」
アトラスは動揺を隠そうと必死に努めたが、それはヘンな話だった。
空は濁った白色をしていることが多く、青いものではない。雨雲が広がるか、夜ともなれば、灰色から限り無く黒に近くもなるが、青くなるものではない。精々、夜の一番深い時分、朝の間際に濃厚な群青色になるくらいだ。昼間空に見えていたような、河の水よりも澄み渡って透き通った青色を空の色と認めるのは、村中の誰にとっても難しいことだろう。それなのに、今、イアはそんな空を見たことがあると言うのだ。それはちょっと普通のことではない。
でも口に出してそう告げる訳にもいかないアトラスは、イアに聞き返した。
「見たことがあるって、僕と会う前のこと?」
「分からないけど、多分……」
躊躇いがちに答えるイアの声は、消え入りそうになっていた。不確かな記憶が不安なのか、それともその記憶が指し示すものを恐れるのか。
ただ、いずれにしてもアトラスは直感的にイアの記憶が正しいと感じている。それは、もしそうだったなら、あの遺跡やアーティーが、或いはあんまり考えたくはないけどひょっとしたら例の銀のタマゴが、イアの出自と何処かで繋がるかもしれないという期待に押された、ということもあった。
だからアトラスは、兎に角それを確かめるべきだと思っていた。その為にはーー
「明日にでも、アーティーを探しに行こう?アーティーならきっと、何か知ってるよ」
「えっ?……でも……」
諭すように優しく提案するアトラスに、でもイアはうんとは答えなかった。それもそうだ。勝手をしてこってりと叱られたのは、ついさっきのことだ。
「大丈夫だよ。ひょっとしたらまた、叱られちゃうかもしれないけど……でも、元々そうするつもりだったんだ」
元々、というのは嘘だったが、イアのことを抜きにしてもアトラスにはアーティーに会いたい理由があった。会って聞きたいことがあった。その理由を打ち明けた時のアトラスの瞳は輝きに満ちていた。
「アーティーが本当に“天蓋の大神”なのか、聞いて確かめないと。でないと、気になって夜も眠れそうにないよ」
イアが笑って頷いてくれたおかげで、アトラスの心配は一つ減った。
あとは、今朝のことを思い返した興奮で本当に眠れないんじゃないか?と心配していたのだが、存外疲れが溜まっていたようだ。
アトラスは翌朝もまた、寝坊してしまうのだった。
第2章に入ってまずは、その後の村の反応がメインになってます。無事は無事ですが、見たことも聞いたこともない事態に慌てふためく村の大人たち。ってのをもう少しキチンと描けたら良かったのですが、視点は基本アトラス寄りに設定してるので、やや物足りないですね。
そして、作中世界の最大のポイントである、「青空のない世界」これも、第1章では十分描けていなかったと思います。現在、多少加筆・改稿していますが、それでも章の大半が夜だったり、洞窟内だったりで、そもそも空を描写できる箇所が極端に少なかったという……
この「青空のない世界」で「青空の記憶を持つ少女」イアちゃんの今後にどうぞ、ご期待下さい。