第2話 「虚言の綻び」
朝、目を覚ますと隣のベッドにイアの姿はなかった。アトラスの寝惚けた目に映ったのは空っぽのベッドの上、キチンと畳まれた毛布とその上にちょこんと納まっている枕だけだった。
慌てて飛び起きたアトラスに扉越しに声がかけられる。
「アトラース。そろそろ起きたー?」
普段と何ら変わらないイアの声に、アトラスは胸を撫で下ろした。
「うん。今起きたー」
元気に返事を返してアトラスはベッドから飛び降りた。
その日のアトラスは朝からずっと上の空だった。心配した母親には、「昨日、ちょっと寝付けなくて……」と寝不足を装っておいたが、お昼を過ぎてもそれは治らなかった。
治る筈もない。アトラスは一日中、この朝に気付いてしまったことについて考えていた。朝の一コマがアトラスに思い出させた一つの事実と、それに付随する幾つかの懸念がアトラスの頭から離れなかった。
霞みがかった空の向こうから弱々しい光を放つお日様の下、ぼんやりとしているアトラスにイアが声を掛けた。
「アトラス、少しお昼寝でもしたら?」
「えっ?いや、ううん。平気だよ」
目を閉じてゆっくりと考えてみるのも案外、悪くはないのかもしれない。しかし目を閉じてしまうと何だか寄る辺を見失ってしまいそうで、アトラスは怖かった。
不安が、口からこぼれてしまう。
「イアは、何処にも行かないよね?」
呟いてからしまった、と慌ててイアの方を見ると、彼女は少し困ったような顔で微笑んでいた。何かに怯える弟を、どうやって宥めたものかと思案する、思い遣りのある姉の微笑みだった。
だが、イエスともノーとも、答えは返ってこない。
ここで隠したり誤魔化したりしても余計に心配させるだけだ。何よりも沈黙が気まずくてアトラスは、こぼれてしまった不安を改めて口にする。
「その、僕らは、ずっと一緒に居られるよね?イアは一人で何処かに行っちゃったりしないよね?」
「アトラスは、私のことを心配してくれているのね」
確かにその通りだ。でも、ただ単にイアがふらりといなくなってしまうのが心配なのではなくて、もっと深い意味で心配しているのだということをアトラスは伝えたくて、でも言えなかった。
「大丈夫、約束するわ」
イアがそっと手を差し出す。緩く握った手からすらりと伸びる、細くて白い小指。アトラスはそれに自分の小指を絡める。
「私たちは、ずっと一緒だよ」
イアは嘘なんか吐かないと思ってはいても、アトラスにはその約束が守られないのではないかという、そんな予感があった。何故かあの空のように、弱々しく、そして白々しく思えて仕方がなかった。
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かつて人類が地の隅々にまで満ち溢れていた時代。
栄華を極めた人類は天にある神々の領土にまで足を踏み入れようとしていた。しかしそれをよしとしない神々は無数の矢を地上へと間断なく降らせた。降り注ぐ矢の雨に射たれ、毎日多くの人間が命を落とし、人類の数は激減した。
その様を見た神の一柱は思った。これはやり過ぎだ、と。
その神は矢を通さない鎧を身に纏い、数名の従者と共に矢を放つ神々に抗った。七日七晩かけて地の隅から隅までを覆う天蓋を張り、神々の矢が地上に届くことはなくなり、人類は大きく数を減らしながらも辛うじて絶滅を免れた――――
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「アトラスはまだ寝ないの?」
「……うん」
小さな灯りの中、イアの声にアトラスは本から目を離さぬまま答えた。
昔からアトラスは英雄譚が大好きだった。誰かのために戦う彼らの姿に、強く憧れている。彼らの勇姿から自分も勇気を分けて貰える気がする。
中でも神の怒りに触れて絶滅しかかった人類を救ったとする、この”天蓋の大神”の神話がお気に入りだった。大神のその後については他の神に殺されてしまったなど諸説あるが、アトラスはその大神が今も世界の中心で誰にも知られず天蓋の主たる柱を支えているとする説を支持している。その雄々しく堂々と天を衝く姿を思い描くだけで、自分も力強く支えられる気がした。
もう少し読んでいたい気もするけど、もう勇気なら充分もらったし、夜もいい具合に更けてきた。読んでいた本を枕元に置くとアトラスはベッドの端に座り直して、イアに向き合った。
「イアは、僕らが初めて会った日のことを覚えている?」
「……ちょっとだけ」
申し訳なさそうにイアが答えても、アトラスは気にしない。あの日、ただただ泣きじゃくっていたイアがそんなにいろいろと覚えている筈はないだろうと、最初から予想していた。
「じゃぁ、あの扉のことは?」
答える代わりにイアの身体が小さく震えた。
禁域の洞窟のその奥の、謎の扉。不思議な材質でできていて、取手も何もない。人の手では開けることも傷付けることさえも叶わないというその扉のたもとに、あの日、イアはいた。
ということになっている。
一番最初にイアを見付けたアトラスが、大人たちにそう説明したから。
それ自体は嘘ではなかった。ただ、大人たちには伝えていないことがある。
今日の朝、イアのアトラスを呼ぶ声が扉越しに聞こえたのと同じで、あの日のイアの泣き声もまた、あの扉の向こう側から聞こえていた。そう、イアはあの扉の向こう側で泣いていたんだ。
何がどう作用したのかは全然分からないが、アトラスが扉を探っていると、それは唐突に大きく口を開け、そこにはイアが立っていた。突然の遭遇に二人ともお互いに目を見合わせて驚いたが、すぐにイアはまた泣き出してアトラスに飛び付いた。イアを吐き出した禁域の扉は、戸惑うアトラスの目の前で閉じていった。
「あの扉の向こう側から来たことは、覚えている?」
イアは小さく頷いた。それを覚えていたからこそイアは、自分たちとは一枚壁を隔てていると感じて、馴染み切れずにいたのだろうと、アトラスは推察していた。
実際のところ、イアがあの扉の向こう側から来たと知れていたら、その扱いは全く違っただろう。禁域の、開かずの扉の向こうから来た少女となれば、教会やらが放っておく筈がない。幼いアトラスがそこまで考えて事実を隠したわけではなく、単にアトラス本人が目の前で起こった現実を受け入れきれなかっただけであったが、それは結果としてイアがアトラスと共に暮らすことを許した。
あの日のことを忘れたことはないと思っていたアトラスだったが、なんてことはない、その隠し事はアトラス自身にも事実から目を逸らさせていた。
「あの扉の向こうが、気になる?」
答えは分かっていても、訊かないわけにはいかなかった。イアが再び、小さく頷く。
「だったら、行ってみようよ。あの扉も、イアならきっと開けられるよ」
その提案にイアは驚き、戸惑っていたが、アトラスは昼間、イアと指切りした時からずっとそれを考えていたのだ。
イアはあの扉を、その向こう側を気にしている。そこには何があるのか知らないけれど、イアがいつかあの扉の向こうに消えていくのではないのかという不安は、祭壇の前に座る彼女の姿を見る度にいつも抱いていた。そしてイアがあの扉の向こうから来たこと思い出してしまった今、彼女が一人で扉を開けてその向こうに帰ってしまうのでは?という想いは、最早それが確定した未来であるかのように、アトラスの心の真ん中に居座ってしまって譲らなかった。
だったら。彼女が一人で行ってしまうのが心配なら、一緒に行けばいい。そこに何があっても、或いは何もなくても、二人で行けばいい。行って二人で確かめてくればいい。それがアトラスが出した結論だった。実はもう既に用意もしてあった。ベッドの下から麻袋を取り出して見せると、イアは大きく息を吸い込んで、深く頷いた。