その参【魔王と魔王】
「……なんの、冗談だ?」
“救世主”。告げられた言葉を咀嚼し、だが理解できなかった儂は、絞り出すような声でそう言った。
「冗談なんかじゃないよ。大袈裟な話でもない。至って真面目に切実に、僕は君に頼んでる。それが、君がここにいることの意味――存在理由だからね」
またしても、マクネロは言う。
だが、付いていけない。こいつは一体、何を……?
「ま、待て! 話が見えん! そもそもそんな義理など儂には……」
「ないって? いやいや、そんなことはないんじゃない?」
「なに?」
上目遣いのままでこちらを見るマクネロと視線がかち合う。
「君は、さっき言ったね。『恩を売った』って。……その通りだよ。僕は、君に恩を売った。勿論、そうなることを狙った訳じゃないし、望んだ訳でもない。けど実際、僕は死の淵に立った君を助けて、大きな貸しを作った……それに、間違いはないよね?」
「そ、それは……」
返す言葉がない。完全に、会話の主導権を握られている。そのことを自覚しながらも、儂はなんの反論もできなかった。
いや、恩着せがましいと笑うこともできよう。だが、それをすることは流石に気が咎めた。
なにも、間違っていないからだ。
事実として、儂はこの少年に命を助けられている。それも、儂にとっては最良とも言えるような方法で。
(恩人……いや、恩神か)
皺が消え、張りの戻った掌を見て、儂は思った。
(与えて、それを以て人を従わせるか……まさに神、上に立つ者のやり口よな……だが――)
――道理である。と思うのだ。
改めて考えてみれば、儂とて同じだった。儂も、そうして、数多の人間を従えてきたのだから。
「勿論、拒否権はある。もし君が断ったとしても、僕はそれを責めることも、止めることもしないよ。ここで君が帰りたいと望むなら、それを叶えるしか、僕らにはしようがない……」
「…………」
そんなことを言う。
「で、あるか……」
儂はぽつりと呟き、目の前の少年少女にそれぞれ目向ける。
――卑怯だ。
そう、思った。
断ってもいい? 帰ってもいいだと?
ふざけるな! もはや、そうはいかぬ。それを言われたら、儂は問うしかないのだ。
「……仮に、だ」
「ん?」
疑問を切り出す。
きっと、それを知ってしまえば、もう後には引き返せないだろう。
そんなことは、分かっている。
マクネロの言うとおりだ。儂と言う人間は、この信長は……ただ“それ”のみ。それのみが存在理由なのだから。
故に、聞く。儂を求める声に、決して、耳を塞ぎはしない。
「儂がそうすると言ったら、どうなる?」
「この世界が終わる……かもね。少なくとも、幸せなことにはならない。それは確かだと思うよ?」
「…………」
先程までの明るさはどこへやら、暗澹とした表情で言うマクネロ。そして意外にも、それを肯定するように、ミレイもまた小さく頷いた。
分かり易い。一変した空気が、なによりも雄弁に事の重大さを伝えてきた。
(世界が終わる……か)
想像を絶する回答。だが、神を名乗る者をしてここまで言わせるのだ。「あり得ない」と、一笑に付すことのできる話ではない。
「だからこそ、僕は君に、何度だって頭を下げる……お願いだ、ノブナガ君。どうか僕らを……僕らの世界を――助けて」
「っ……!」
思わず、絶句した。
真っ直ぐな瞳で懇願するマクネロの顔が、その瞬間、よく知る少年のものと重なったのだ。
(蘭……)
――儂は、どうすればよい?
あの本能寺で、儂を生かすために無謀な戦いに身を投じた忠臣。ふとよぎったその顔に、人知れず問う。
いや、答えを求めている訳ではない。ただ、あと一押し。もう一押し、背中を押してほしかっただけだ。いつも、そうしてくれたように。
(いや、詮無いことだな……)
無意味、無駄。今更いない者に頼ってどうする。
儂は一体いつから、一人では何も決められない凡愚になり下がったのだ。
「……」
ゆっくりと瞳を閉じ、すぐに開ける。
――“世界の救済”。
馬鹿げている。大それた願いだ。
だが……
「……儂にしか、できぬのか?」
「君にしか、できないね」
「で、あるか……」
そうであるのなら……と、儂は思う。
誰もができぬなら、誰もがやらぬなら、儂がやらねばなるまい。ここが異なる世界であれどこであれ、儂が儂である限り、それだけは、決して違えぬ。これまでも、これからも。
(それに……)
不安な面持ちでこちらを窺うマクネロを一瞥して、儂は思った。
どうせ拾われた命だ。ならば、かつて父に、師に、家臣に、民達に誓ったその生き方に、再び殉じよう。儂を救った恩神のために、今一度、世界を救ってやるとしよう。
「……心は、決まったみたいだね?」
問われた言葉に、儂は頷いて応える。
ああ、決まった。いや、決まっていたのだ。
ここまで聞いて、ここまで知って、ただ帰るなど、儂のような人間には、到底不可能なのだから。
「よかろう……その願い、この信長がしかと聞き届けた」
「……本当に?」
「無論じゃ。儂とて武士の端くれ、二言など、あろう筈もない」
ついに、言った。言ってしまった。これでもはや、後には引き返せない。
だが、それでいい。
「そっ、か……そっか! ありがとう、本当に!」
「ふん……まあ、な。なにせ神たる存在が人に願ったのだ。ならば、叶えてやらねばなるまいて」
いまだ半信半疑なことだが、少なくとも人知を超えた存在に頼られたのだ。そう考えれば、悪い気はしない。地面に頭を擦りつけるような勢いで礼を述べるマクネロを前に、儂はそんなことを思った。
「だが、勘違いはするな。お前の隷属になった訳ではない。借りは返す、それだけのことだ」
誰かに従うつもりなど、毛頭ない。儂が従うはただ一人。儂は、儂の心に従って行動するのみだ。それを暗に伝える。
「うん、それでいいよ……ありがとう、ノブナガ君。君のような人が来てくれて、本当によかった!」
「よせ。仮にも神を名乗るお前に、そんな姿は似合わんわ。それに……な」
「?」
フッと不敵に笑いながら、儂は思う。
――手慣れたものだ。
儂は、ずっと世に泰平をもたらすために生きてきた。ただそのために動き続け、一時も止まりはしなかった。他の何を、犠牲にしても……。ここでも同じようにすればよいというなら……やることは、これまでとそう変わらぬ。
「ククク……礼を言うのはこちらの方だ。どうやら、退屈はしないで済みそうだな」
「そうかい?」
「おうよ!」
終わりに向かう世界を救う。またそんな大それた夢を追って生きられるのだ。実に、愉快なことではないか。
(まあ、一度はしくじったが……な)
最後の最後で不覚を取る。あれほど、悔しいことはなかった。
しかし、だからこそ同じ轍は踏まぬ。そう固く心に決め、そして儂は言い放った。
「まあ任せおけい。世の安寧は、この信長が保証してやろうぞ!」
異世界だかなんだか知らないが、儂は儂のやり方で、この世界を救ってやる。天下布武。一度成そうとして叶わなかったそれを、今度こそは、必ず成し遂げて見せよう。
血が湧きたつような感覚を覚えながら立ち上がり、儂は目の前の少年に手を差し伸べた。
***
「……で、どういうことだ?」
「ん?」
マクネロの手を取って立たせながら、儂は問うた。
「世界が終わるという話だ。何故、そんな馬鹿げたことになっている?」
明らかに、尋常ではない。
この世界の常識は知る由もないが、しかし、そうそう世界が滅ぶようなことなどあり得まい。一体、何がどうすればそのようなことが起きるというのか。そしてそれは、本当に一人の人間がどうにかできる話なのか。
この世界を救うと決めた以上、それを知る権利が、儂にはある。
「そう、だね……それも、話しておかなくちゃ」
土に汚れた膝を払いつつ言うマクネロ。
「けど、ちょっと場所を変えて話そうか。そろそろ夜が明ける。その前に、ここを出たいからさ」
「ふむ……まあ、よかろう」
突然の提案。だがもっともな話だ。確かに、このような場所に長居したいものではない。
「…………」
肯定の意を示した儂を見るや、まずミレイが静かに立ち上がる。それを見届けたマクネロは、指をパチンと鳴らして、座っていた椅子や机の類を瞬時に消し去った。
もはや、驚くべき光景でもない。儂はその事象に目もくれず、どこへともなく歩き出した少年少女の後を追った。
「どうやってここを出る? 当てはあるのか?」
「うん大丈夫、こっちに舟を用意してあるよ。とりあえず、それに乗ってメレスザイレから北へ。“地帝領”を目指そうかなって」
「……で、あるか」
正直なところ、言っている意味は半分も理解できない。
当然だ。ここは異世界。どんな国があるかも、そもそもここがどこなのかも、儂には現状把握する術がないのだから。
(まずは、地理の把握じゃな)
初歩中の初歩。まずは、知る。国を、人を、文化を、歴史を。全ては、そこから始まるのだ。そしてその一環として、儂は知らなければならない。今、この世界に、一体何が起こっているのかを。
そう思った矢先、不意に前を歩くミレイの動きが止まる。
それに合わせて儂も歩みを止めてみれば、いつの間にか、眼前には大海原が迫っていた。
「――到着、っと」
砂浜ではなく、小さな断崖が永遠に続くかと思われる荒々しい海岸線。その一角の、唯一人工的な施しがあったらしい場所。岩山をそのまま削って階段状にしたかのようなそこを眺めて、マクネロが呟いた。
(船着き場……か?)
どうやらそうらしい。
らしいというのは、その場所の経年劣化があまりにも著しく、確信を持つに至らなかったが故だ。儂の知る様式とはかけ離れた作りということも相まって、もしも傍らに舟が浮いてなければ、そこが船着き場とすら思わなかったかもしれない。
ともあれ、
「さ、ミレイちゃんも。皆乗っちゃって」
促されるままそれに乗り込んだミレイの後に続き、儂もまた舟に乗り込んだ。
なんの変哲もない、木製の小舟だ。広さはここにいる人数がちょうど収まる程度で、特に怪しげな装飾も挙動もなく、ただ水面に佇む無機質な物体。強いておかしな点を挙げるなら、鎖や縄で繋ぎ止めてもいないのに舟がその場に停滞していることだが……しかしそれも、マクネロが用意したものなら当然であるような気がするのだった。
「皆乗ったね? んじゃ、しゅっぱ~つ!」
最後に乗り込んだマクネロが声を張り上げる。するとそれに呼応したかの如く、舟はひとりでに動き出した。
「異常なし……ま、この分なら夜が明ける頃には着くかな――っと、ごめんね、話の途中で」
「いや、よい。それよりも……」
「この世界に何が起きてるか、だったね?」
首肯し、先の言葉を促す。
それを受けて、マクネロは一瞬なにかを思案するように瞳を閉じ、そして――
「――でも……なんていうか、本当はもう察してるんじゃないの? ノブナガ君、君ならさ」
「なに?」
腑に落ちぬ言動。
その意図するところが分からず、儂は疑問以外の言葉を口にすることができなかった。
「だって君は……いや、“君も”、かな? そうなんだから」
「それは、どういう――」
――ことだ。そう言おうとして、止まる。
(儂も、だと?)
引っかかる。
この世界の脅威について問うた儂と、それが同じだと、目の前の少年は言った。確信の篭もった声で、言ってのけた。
(馬鹿な! 儂がいつ、世界を滅ぼすような真似をした?)
浮かんだ感情は、拒絶。
それはそうだ。
世に終わりをもたらす、災禍のようなそれ。そんなものと、何一つとして、同じであってたまるか。第六天魔王――いくら神に抗うような、冒涜的な名を名乗ったとて、儂は一度も、世界の滅亡など望んだことなどないのだ。寧ろ、逆。儂の願いは、常に――
(――いや、待て)
瞬間、微かな閃きがあった。
(な、んだ?)
なにかが頭の奥で蠢いているような感覚。
なにかを忘れている。なにかを見落としている。儂の中で、自分自身がそう叫ぶ。
頭が、熱を伴って稼働を始めた。
そうして、程もなく、
(まさか……)
ぶち当たる。一つの答え――その“単語”に。
「……“魔王”……」
「ご名答!」
確信があった訳ではない。なんとなく口に出た言葉。だが、思考の果てに零れ落ちたそれを、マクネロはしかと肯定した。
「そう……それこそが世界を終わらせる者、歩く災厄。君が今こうして、ここにいる理由の全てさ」
言われたそれに、儂の胸はざわめいた。