その零【始まりを告げる風】
???の章
――奇妙だ。
もしその光景を見た者があれば、きっと誰もがそう思ったことだろう。
そこは、誰もいない島だった。
かの名高き四大部族が一角、“獣人族”が治める大国より遥か南の海にぽつんと浮かぶ、そこ――絶海の孤島“メレスザイレ”。
今でこそ知る者も少ないが、かつては罪人の流刑地として使用され、誰一人として生きて帰った者がいないとされるそこは、別名“終焉の地”とも呼ばれ、世界中のありとあらゆる山賊海賊を震え上がらせた土地であった。
切り立った岩々に囲まれ、草木のない荒涼たる大地が広がるだけのひどく殺風景な島で、辺りは恐ろしい程の静寂に包まれている。立ち込める雲が更に雰囲気を暗くしていて、人のいなくなった現在ではもはやどこにも生き物の気配が感じられない。
そこは空虚な空間、まるで島全体が死んでいるようだった。ある物といえば、精々そこらに転がっている先住民達の名残らしき白骨の残骸くらいである。
寂しい場所だ。そこはあまりにも寂しい場所だった。
そこには、生命がなかった。なに一つとして存在しない。そこにはただ、“無”だけがあるのであった。
だからこそ、それは異常だったのだ。
そこに、そんな場所に、たった一人で少年(?)がいるのは……。
「~~♪~♪」
夜も深い頃である。
その少年はそこでたった一人、いかにも楽しげな鼻歌を響かせながら、なにかの作業に没頭していた。
それはとても奇妙な光景だった。
当然である。なにせ見た目から言ってまだ十代かそこらの少年が、こんな時間、こんな場所にいるのだ。どう見ても普通ではない。とはいえ、彼が奇妙なのはなにもそれだけのせいではなかった。まずなによりも奇妙なのは、彼の見た目なのだ。
彼はどこまでも奇抜を貫いた容姿をしていた。
まず、その顔。顔立ちは整っているものの、まるで明暗を分けたようにきっかりと左右で色の違う髪と、それと同様に左右で色の違う瞳などは明らかに妖しげであり、とても真っ当な手合いには見えない。さらには、まるで手品師が着ているような黒い衣装を身に纏い、頭にはシルクハット、手にステッキを持ったその姿は、もはや世界から逸脱していると言ってもいい程の異彩を放っている。それでいて浮かべる表情や仕草はその場の雰囲気にはまるでそぐわない無邪気な子供のそれなのだから、おかしい、としか言いようがない。
まさに異質。とてもこの世のものとは思えない。およそ亡霊か、妖怪変化の類だと言われても納得できるだろう。
彼は誠、どこまでも面妖な少年であった。
妖しいといえば……。
彼がしている“作業”というのもまた、妖しいのであった。
「ふふっ」
と、彼は時折そんな微笑を浮かべながら手に持ったステッキを振るっていた。まるで踊るように。そうして、なにやら地面に描いているのだった。
傍から見れば子供が落書きをして遊んでいるように見える光景である。しかし、到底そう思うことはできないだろう。何故なら彼の描いているそれが、どこか幾何学的で不可思議な、得体の知れない紋様だったからだ。
そんなものがあちらこちら、いたる所に描かれているのだ。知らない者が見れば奇人狂人の仕業と思っても仕方がない。ともすれば不気味さすら感じるだろう。
そんな、見る者の正気度を削りかねないような光景を生み出している少年だったが、一体なんのつもりでこのようなことをしているのか、全くもって謎であった。
無論、分かる者がいるはずもないのだが……。
ともあれ、
「よ~し、完了、っと……」
少年はまた一つ、その複雑怪奇な紋様を描き上げていた。
とはいっても、どうやらその一つが最後であったらしく、彼はそれからぴたりと手を止めると、「うんうん!」と満足げに頷き、額の汗を(かいてはいなかったが……)拭ってから、近くにあった手頃な岩にちょっと休憩と言わんばかりに腰を掛けた。
……時間にして一、二分程そうしていただろうか。
「さ~て、これで準備はオッケーかな……あとは――――おや?」
そんな呟きと共におもむろに立ち上がろうとしていた少年は、その瞬間、ぴたりと動きを止めた。
そして、
「やあ! これは珍しいお客さんだ」
そんなことを言いながら、彼は後ろを振り返った。
答える声はない。
当然といえば当然だろう。そもそもこのような場所に人が来るはずはないのだ。もう何十年とこの地に足を踏み入れた者はいない。今日この日、ここに一人の少年がいるというだけでもすでに異常だというのに、どうしてそこにもう一人の人間がいるなどと思えようか。常識的に考えて、それはあり得ないことだった。
だが……。
そんな常識は、今宵の、この場所にはどうやら存在していないらしい。
何故ならば、振り返った少年の視線の先――そこに、一人の少女がいたからだ。
一体いつからそこにいたのか。少年の背後に聳え立っていた岩山、その頂上に彼女は腰を掛けていた。
背格好から言えば、歳の頃は少年と同じか、僅かに上といったくらいだろう。月光に輝く純白の髪とその端整な顔立ちから、後数年もすれば花のような乙女になりそうな印象を受ける。だが、どうにも酷く虚ろな目をしていて、その表情には全くと言っていい程に感情が感じられない。少年とはまた違った意味で妖しい雰囲気のある少女である。
「おーい!」
はつらつとした声が辺りに響く。声の主は誰あろう、少年である。見れば大きく手を振って少女のことを呼んでいた。
「…………」
呼ばれた少女は無言のまま少年を一瞥すると、腰掛けていた岩山(それなりに高さがあったのだが……)からふわりと飛び立ち、少年の傍らへと立った。
「ごきげんようミレイちゃん! いや~何年ぶりかな? 久しぶりに顔を見たけど、相変わらず元気そうでなによりだよ」
「…………」
“ミレイ”――そう呼ばれた少女は、無言のまま少年には目もくれずに、眼前に広がる異様な光景をじっと眺めていた。
「ふふ、そんな所も相変わらずだね」
少年は、そんな彼女を面白そうに眺めてそう言った。
「いや~それにしても……」
と、少年はミレイと目線を同じくして言う。
「正直驚いたよ、まさか君が来るとは思ってなかったからね。そんなに“これ”が気になったのかい?」
「…………」
ミレイの回答は沈黙である。
彼女は依然として、少年の声など一切聞こえていないと言わんばかりに口を噤んでいるのであった。
しかし、そんな様子にも少年にはなにか察する所があったらしい。
彼は、
「ふむ、成程……」
と誰ともなしに呟くと、なにやら思案顔でおもむろに歩き出し、自身が描いた無数のそれの中でもひと際大きいものの前に立って、
「うーん……まあでも、それはそうか。なにせ“これ”は君にとって――ううん、というよりも、この世界に生きとし生ける全ての人たちにとって、それはもう自分の命が懸かってると言ってもいいくらいに重要なものだしね。そんなの、気にするなっていう方が無理な話だ。うんうん、そうだね。そう考えれば、君の気持ちも理解できる。今日、君が“これ”を見に来たことも、まあ納得がいく。そりゃあ、誰だって自分の命は大事だろうしね。ただ――」
一瞬の間。
「あんまり君らしくはないけど」
そう言って、少年はくっくと笑った。
「…………」
対して、ミレイの方は相変わらずである。相変わらず、何を考えているのか分からない表情で目の前の景色を眺めていた。
――まるで人形だ。
と、もしそこに人がいれば思ったかもしれない。それほどまでに徹底した静けさを、彼女は保ち続けているのであった。
「さて……」
と、少年。
「まあ、それはいいや。なにはともあれ、せっかく君が来てくれたことだし……そろそろ始めちゃおっか」
そう言うやいなや彼はくるりと方向転換し、ミレイに背を向けた。そして、そのまま一歩踏み出して大きな紋様の中に描かれた小さな円の上に立つと、
「どれどれ……」
これが最終確認だとでもいうように眼前に広がる光景を一望し、異常がないと見るや「ふぅ……」と、軽く息を吐き出しながら両の手を前に突き出すような構えをとった。
それから、
「ちょっと下がっててね」
ミレイにそう促すと、彼はまるで瞑想でもするかのように瞳を閉じて、完全にその動きを止めた。
途端に、辺りは静けさに包まれる。それまでそこにあったどこか冗談めいた雰囲気が一変した。
これから一体何が始まるというのか、まるで見当のつかない状況である。
ただ、どことなく重苦しい空気が辺りに充満していく。
「…………」
一方でミレイの様子に変わりはない。彼女はただ静かに、眉一つ動かぬ無表情のまま、そのどこか緊張感漂う光景を見守っていた。
そうして、そのままゆっくりと時間が流れていく。
……どれほどそうしていただろうか、
「――あ、そうだ!」
突然、少年が素っ頓狂な声を上げた。
「いや~しまったな。僕としたことが、うっかりしてたよ」
そう言って彼は被っていた帽子を脱ぐと、その中に手を突っ込んでなにやらがさごそとやり始め、
「はい、ミレイちゃん、パス!」
一体どうやったのか、当たり前のように取り出したその物体を、ミレイの方へと投げ渡した。
「……?」
殆ど反射的に受け取った彼女は、手に握られたそれを見て一瞬首を傾げたかと思うと、少年に対して問い掛けるような視線を送るのだった。
当然といえる反応。
実際、それは奇妙な物体だった。
見た目からの印象は、どうやら眼鏡の類のようである。だが、明らかに普通ではない。全体的に尖ったデザインはともかくとして、一体どんな素材を使っているのか、レンズの色が夜空のように黒いそれは、少なくとも一般に流通している物とはまるで雰囲気が違った。
得体が知れない、一言で表すならまさにそういう表現がしっくりくるだろう。
ならば、そんな物を一体なんのつもりで、何故今渡してきたのか。ミレイには当然それを知る権利がある。
そして少年は、平然とその視線に応えたのだった。
「黒の魔晶石を使って作った眼鏡型の“魔道具”だよ。強い光から身を守れるんだ。えっと……ほら、“これ”って起動した時の光が結構激しいから。そういうの、あった方がいいんじゃないかなー、ってさ」
「…………」
「あ、もちろん品質は保証するよ? なんたって、僕が作ったんだからね!」
「…………」
「まあ、サイズはちょっと大きいかもしれないけど。もともと僕用に作った眼鏡を改良した物だし……と言っても、そんなに気になる程じゃないと思うから大丈夫大丈夫!」
なにやら意味の分からぬことをふふんと鼻を鳴らして得意げに語る少年。つい先程までの厳かとも言える雰囲気が嘘であったかのように明るい表情で彼は、ミレイに自らが作成したというやや奇抜なデザインのそれを勧めた。それを受けて、ミレイは再び手に持ったそれへと視線を落とす。
「…………」
そして――そのまま投げ捨てた。
「ちょッ!?」
それを慌てて追いかけ、キャッチする少年。
「ふぅ……危なかった――って、ミレイちゃん!? 酷いよいきなり! これ、作るの結構大変だったんだから!」
彼は手に持った物が壊れていないことを確認すると、すぐさまミレイの方へと向き直ってやかましく喚き始めた。だが、ミレイはそんな彼を意にも介さない様子でちらりと一瞥するのみであった。
少年は小さく溜め息を吐いた。
「やれやれ…………もしかして、いまだに信用されてないのかな、僕って?」
誰ともなく呟かれたその問いに対し、ミレイはすぐさまこくりと頷いた。
「即答ッ!? ……うぅ、傷付くなぁ。僕ってそんなに胡散臭く見える?」
またも即答である。
「そんな、酷い! ――い、いや、ちょっと待ってよ。いくら僕でも、こんな大事な場面でそんな悪ふざけはしないよ? ……そりゃまあ、ちょっと、これまでには“色々”あったかもしれないけど……」
「…………」
瞬間、氷のように冷たい表情(相変わらずの無表情なのであるが)で見つめてくるミレイ。どうやら前科があるらしき少年は必死に弁明するも、その信用を回復することはかなり難しいようだ。……もともと回復するだけの信用があったかも怪しいが。
ともあれ、一向に埒の明きそうにないやり取りである。
「ああもう、分かった! 分かったよ! いいもん! ミレイちゃんが着けないっていうんなら、僕が着けるから!」
せっかく似合うと思ったんだけどな~、と、そんなことをぶつぶつと呟きながら少年は、自らが制作したというそのやや奇抜なデザインの物体を自分に装着した。
「どう? 似合ってる?」
「…………」
聞いてくるが、胡散臭さが倍増したようにしか見えない彼のその格好に、ミレイは目もくれない。彼女はただ一点、地面に描かれた紋様だけを、再び見つめ続けているのだった。
「あ、うん。そんなことより早く始めろってね……はぁ、分かったよ」
やれやれせっかちだなぁ、などと言いながら少年はゆっくりと彼女が見つめている紋様の方へと向き直り、元の位置へ戻る。
「でもま実際、“邪魔”が入ると困るしね…………さ~て……それじゃ、今度こそ始めますか」
小さくそんなことを呟き、その直後先程と寸分たがわぬ姿勢で少年は集中し始めた。
瞬間、舞い戻ってきた静寂と共に、再び辺りの雰囲気が重苦しいものへと豹変していく。
……そのまま、僅かな時が流れた。
「…………」
突然――なにかを察してか、羽織っていた外套のフードを深く被るミレイ。
それとほぼ同時に、少年は目を閉じたまま、なにやら小声で呟き始めた。
「大気中の“魔素”を集積変換。魔力充填……完了。術式法陣、展開――」
淡々と紡がれる意味不明な言葉。それに伴い、少年の体が淡く、奇妙な光を放ち始める。
次の瞬間、彼は勢いよく手に持ったステッキを頭上へと掲げた。するとまるで吸い込まれるように、彼を包んでいた光がその一点に集束する。
時が止まったかと思える刹那の静寂。
もはや全ての準備は整った……そう言わんばかりに少年は閉じていた目をカッと見開き、そして――
「さあ! それでは本日のゲストをお呼びしましょう! 『アウターサモン』――起動ッ!!」
まるで劇の開演でも知らせるかのように高々と告げられた言葉と共に、少年は手に持つステッキを勢いよく大地に突き立てた。
瞬間――訪れたのは、輝きの連鎖。
赤、青、緑に橙と。少年の足元、中央の巨大な紋様から始まったそれが、まるで波紋のように全ての紋様へと広がり、辺りを照らしていく。
夜とは思えぬ光景。昼時となんら変わらない程の眩さに、一人肉眼でいるミレイのみが目を細める。
だが、それは序曲にすぎなかった。
やがてそれぞれの紋様から飛び出した光球達が、まるでそれ自体が意志を持っているかのように次々と中心へと集まり、光の池とも言うべきものを形成し始めたのだ。
ありとあらゆる色の光が、そこで渦を描いて混ざり合う。一つ、また一つと光を取り込むごとに渦は膨張し、その輝きを増していく。
『――パチン!』
と、少年が指を鳴らした。
するとそれに呼応するかのように、光は更なる変化を遂げる。
飽和状態。もはや全てを取り込み純白と化した光が、なにかに釣り上げられるように天に昇っていく。それは徐々に徐々にその速度を上げていき、やがて――
「――行っちゃえッ!」
両手を広げて叫ぶ少年。
そうして溢れんばかりの輝きと共に撃ち出された閃光は、さながら飛翔する龍のように勢いよく天に向かい、一直線に雲を貫いた。
そして――降り注ぐ。
雲間から刹那の時を経て帰還した光は、空中でヴェールを脱ぐようにその姿を球体へと変えて、再び元の場所へと飛来する。放たれた矢をも超える速度を以て訪れたそれは、大地が近付くごとに徐々にその速度を落とし、やがて……大地へ到達した。
瞬間――世界は普く白に染まる。
なにかが爆発したかのような閃光と突風に、眼鏡(のような物)を掛けている少年はともかく、ミレイの方は咄嗟に手で顔を覆った。
それと同時に、辺りに描かれた紋様は一つ、また一つと。まるで役目を終えたかのように輝きを失っていく。
世界が徐々にその色を取り戻していくさなか、最後にその場に残ったのは、巻き上げられた砂塵と、なにかを包み込んでいるかのような球状の光だけだった。
「――ふぅ……どうやら成功、だね……大丈夫ミレイちゃん?」
眼鏡を外して再び帽子の中に納めながら、少年は問い掛ける。余程眩しかったのだろう、ミレイはいまだに外套を深く被り、片手で顔を覆っていた。
「だから言ったのに……いくら君でも、あれだけの光は体に毒だよ?」
「…………」
ミレイに返答の意志はない。いや寧ろ、そのような余裕がないようであった。
そんな彼女を見て、溜め息交じりに肩をすくめる少年。
「やれやれ……ま、いいや。それより……」
気を取り直して、といった様子で彼はミレイから視線を外し、自身がやったことの成果を確認する。
「さて、と」
手で砂煙を払いながらおもむろに歩き出す少年。その向かう先には、相変わらず光の繭らしきものが輝いている。彼は、軽い足取りでそれに近付く。後に付き従うように、ようやく立ち直ったらしい(まだフードを深く被ってはいたが……)ミレイが続いた。
一歩、また一歩と。そうして至近距離まで近付いた所で、二人は足を止める。
そして、
「さあ、ご対面!」
そう言うと少年は、なんの迷いも遠慮もなくその光に向かって手を伸ばし、それに触れた。
すると――泡が弾けるように一瞬で光は消失し、そこに包まれていた空間が、その全容を露わにした。
「……ふふっ、ようこそ!」
まるで誰かに話しかけるかのようにそんなことを言う少年。
いや、それは事実、話しかけていた。
何故なら、彼の向けたその視線の先――先程まで誰もいなかった筈のそこに、一人の男の姿があったからだ。
何者であろう、およそ計り知れないその男。顔を見れば皺が深く、頭髪にも白髪が目立つ。歳の頃は五十か、その手前といった所だろうか。少なくとも、若くは見えない。
だが、それとは裏腹に体の方は屈強そのもの。黒い布地に赤の拵え、派手な色の衣服から覗く筋骨は、体の動きを阻害しない程度に張りがあり、そのために本来よりも背が高いように錯覚される。よく整えられた口髭が特徴的で、その面構えはまさに老練の将といった風情であった。
そんな人物が、どこからともなく出現したのだ。
普通の価値観を持っていれば、それはあまりにも非常識で、異常な現象であるに違いない。
だが、それに動ずるような常識的な者は、この場に存在しなかった。
常に表情を崩さぬミレイはもとより、寧ろ少年などは、まるで面白い見世物でも見るかのように満面の笑みで、老人の方に歩み寄っていた。
しかし、程なく、
「……あれ?」
そう少年が零したのも無理はない。
その老人、見るからに様子がおかしいのだ。
有り体に言えば、“瀕死”なのである。
かろうじて生きてはいるようだが、どうやら意識がないらしく顔面は蒼白。仰向けに倒れた格好のまま、その場からピクリとも動かない。またどういう訳か全身に大火傷を負っていて、皮膚が焼け爛れ、中には半ば炭化してしまっている部分もある。着ている衣服もぼろぼろであり、裂け、破れ、焦げ付き、血によって赤黒く染まったそれは、もはや原形を留めていない。更には、それ以外の裂傷や打撲痕などもそこかしこに見受けられ、特にその下半身は、まるで巨人にでも握り潰されたかのように酷い有り様であった。
「うひゃ~……これは酷いね。ドラゴンとでも戦ってきたみたいだよ……一体何があったのやら……」
「…………」
虫の息。その老人の状態は、明らかに尋常ではなかった。
「いやはや。ここまでは、ちょっと想定外……まあとりあえず、治してあげないとね」
言いながら少年はその場にしゃがみ込み、老人に掌を向けて構える。
しかし、その手には何もない。手ぶらである。どうやら薬の類を使おうという訳ではないようだ。
ならばどうするというのか、その答えは、間もなく明らかになった。
「けど、うーん……ちゃんと治るかな、これ?」
「…………」
不安げな呟き。
だが放っておく訳にもいかないと、少年は即座に言葉を紡いだ。
「癒やせ――『リジェネレイト』!」
その直後である。
突如として、少年の手に光が灯った。
優しく、淡く輝く燈火の如き光。一見して清浄さを感じさせるそれをもって、彼はそっと、老人の傷口を照らし始めた。
すると信じられないことに、光に触れた先から、たちまち老人の傷が治っていく。裂傷も、火傷も、打撲痕も。老人の体を侵していたあらゆる傷が見る見る内に癒され、その肌を正常な色に戻す。
それはさながら、奇跡のようであった。
だが、少年が行っているそれが奇跡の類などではないことは、この世界に住む者なら誰もが知る所であろう。
それは――“治癒術”と呼ばれる、魔術の一種であった。空気中に存在する魔素というエネルギー物質を体内の特殊な器官で魔力へと変換し、それを様々な形で行使する技術。巧拙、個人差はあれど、この世界に住まう人間なら誰でも扱うことのできるありふれたものだった。
とはいえ、この“治癒術”に関してはやや事情が違う。
他者、もしくは自身の傷を癒やし、完治させるというそれは、本来ならばごく一部の人類――“耳長族”と呼ばれる種族(その中でも限られた者)にのみ伝わる秘術であり、誰でも、おいそれと扱えるような代物ではないのだ。
ならば、である。
そんなものを至極当たり前のように行使しているこの少年は、一体何者なのか? それは、当然生まれるべき疑問であろう。
しかしながら、今はそんなこと気にしていられる状況ではない。
よって、閑話休題――。
さて少年は、老人の頭頂部から足の先まで、全身を撫ぜるようにして光を当て続けていた。やがて光が弱まり、その限界を迎えるまで、手を動かし続けて治療に努めていた。
が、しかし、
「ふぅ……駄目、か……」
完治には至らない。
先程より幾分か傷は塞がっている。血色も良くなっている。が、それ以上のことはない。
原因は明白である。あまりにも深すぎたのだ、傷が。それ故に、少年の手から光が消え去り、その効力を失っても尚、依然として老人が意識を取り戻すことはなかった。
その結果に、少年は目に見えて落胆した。
「やっぱり。治癒術じゃここまでの怪我は…………ん~、まずいな、どうしよう……早くしなきゃ死んじゃうよこの人」
そうこうしている内に段々と老人の呼吸音が小さくなる。相変わらず重傷である下半身からも血が流れ出て、止まる気配がない。もはや、一刻の猶予もないことは明らかだった。
「ああやばい、やばいよ~! これじゃあ“呼んだ”意味がない!」
目も当てられぬ程に慌てふためく少年。
――何か成す術はないか?
彼は必死にそれを思索するが、しかし焦燥からか、何も良い案は浮かばないようだ。
と、そんな時だった――
「……“アレ”を……」
突如として響く、鈴のような声。
少年のものではない。
その主はなんと、これまで頑なに口を閉ざし続けていた少女――ミレイであった。
「えっ!? あっ……み、ミレイちゃん?」
目を丸くする少年。
無理もない反応である。なにせ今までが今までだ。それ自体はとても小さくか細い声ではあったが、彼にしてみれば、動かないと思っていたものが突然動き出したかのような衝撃を受けたに違いない。
ともあれ、ミレイはそれに構うことなく、更に言う。
「……“アレ”を、使って……」
「うっわ~、久しぶり! 何年ぶりに聞いたかな、君の声。あはは、嬉しい! こんなに嬉しいのは僕、“あの日”以来だよ、ホント!」
いっそ泣き出しそうな程にはしゃぐ少年。その様相は、まさしく今世紀最大の喜びを表しているようだった。
しかし、驚喜してばかりもいられない。
その間にも側で死にかけている老人の状況を思い出した彼は、軽く咳払いを挟んでから、改めてミレイが言った言葉を反芻した。
「えっと、それで…………“アレ”って……もしかして“アレ”のこと? んー……なるほど。そりゃまあ確かに、“アレ”を使えばこの人を生かすことはできるかもしれないけど……いや、でもいいのかな、勝手に? 後で大変なことになるんじゃ……。それに、“アレ”使ったら僕だってかなり疲れちゃうし。ただでさえ大仕事の後で疲労感マックスなのにさ……」
ミレイが言う“アレ”という言葉に、どうにも歯切れの悪い少年である。
「…………」
そこへすかさず、ミレイの「早くしろ」とでも言いたげな視線が突き刺さる。
それを受けて、少年はややたじろぎながら、再び老人の方へと視線を移した。
そして、熟考する。
とはいえ、答え自体は初めから決まっていたに違いない。彼は一息、ふっと息を吐き出すと、すぐに渋々といった様子で意を決した。
「ホント、君には敵わないな……分かった、使う。使うよ! 使うしかないんでしょ? そりゃあ、僕だってこの人に死なれちゃったら困るし……でも、後で怒られたりしたら、その時は責任とってよ、ミレイちゃん――ッ!」
そう言うやいなや、何を思ったか少年は、手に持ったステッキを頭上へと放り投げた。
回転しつつ宙を舞うステッキ。やがて滞空時間の限界を迎えたそれは、当然の如く星の引力に引き寄せられ、再び少年の元へ戻ってくる。だが次の瞬間、自然の摂理に従い彼の手元に帰ってきた“それ”は、ステッキではなかった。
――“盾”である。
それも、ただの盾ではない。形は日輪の如き真円。色は鈍い金。外周を囲んで無数の文字らしき紋様が刻まれ、その中心からは長短様々に、稲妻のような形をした針が四方八方に伸びている。そんな、風変わりな盾だ。
一体如何ような術を使ったか、少年が宙高く放り投げたステッキは、空中で瞬時にその形を変えて、彼の腕に収まったのである。
面妖な光景。だがその場にいる誰も、それを気にする様子はない。
次の瞬間――少年は正座の体勢をとり、そのまま子供の看病でもするかのように、盾が取り付いている方の腕をそっと老人の額に置く。そして大きく息を吸い込むと、おもむろに――唱えた。
「我が名によって、ここに汝の戒めを解く……。理の反逆者よ……古き盟約に従い、我が意を果たせ……! “神格兵器”開放――『ユダ=リベリオン』!!」
不可解な文言。だがそれ対して、少年の手元にある盾は顕著な反応を示す。
最初に変化を現したのは、そこに刻まれた無数の紋様である。少年が厳かに紡いだ言葉に呼応したそれらは、まるで血が通い始めたかの如くに、次々と七色の光彩を放ち始めた。
とはいえ、そこに注がれたのは血液などではない。
――魔力である。
量の程は知れないが、少年が周囲の魔素から抽出して注いだそれは、満遍なく盾の内部を伝導し、その動力源となったのだ。
水を得た魚。そうして、盾は駆動する。
胎児の産声のように大袈裟な程の金属音を上げながら、そこにある無数の針の内の一つが勢いよく回転を始め、空を切った。それに伴い一体どのような仕組みか、虚空に円形の光陣が形成される。針が一周するに従って生まれたそれは、打ち上げられた花火のように少年の頭上近くまで昇ると、そこで更に円を広げて、不可思議な紋様へと変貌を遂げた。
七色に輝く幾何学模様。地面に描かれているものとやや酷似しているそれが現出したことを視認した少年は、
「よし、オッケー……っと。そうそう、ついでに……」
満足げにそう呟きながら、開いている方の手で何かを描くように老人の胸を撫ぜた。すると一瞬――その場所が淡い輝きを放ち、そして、染み入るように消えた。
それと、ほぼ同時だった。
「……!」
突如として、起こる。
始めは湧き水の如く滾々と、次の瞬間には間欠泉のように。大量の光が、事の成り行きを見守っていたミレイの足元から噴き出したのだ。
「――ミレイちゃん!」
不意に起きた事象。それを見て咄嗟に叫ぶ少年。
しかしそれでも、ミレイは顔色一つ変えることもない。足元の異常をいち早く察知した彼女は、噴出した光が足に触れる寸前――その場から目にも止まらぬ速度で跳び下がって事無きを得た。
直後、光は流動する。
まるで一匹の大蛇のように少年の周囲を這い始めたそれは、やがて勢いを急速に増し、その姿を小さな竜巻とも呼べる形に変えていった。
「……“魔荒嵐”……」
ぽつりと呟いたのは、意外なことにミレイである。
ちょうど、少年と老人の姿を覆い隠すように。絶え間なく色を変えながらゆっくりと立ち上るそれは、属性を含まない、純粋なる魔力の螺旋。触れる者をただ吹き飛ばそうとする力の具現だった。
当然、意図されたものではない。おそらく周囲の絶え間ない魔力濃度上昇により自然発生的に引き起こされたのであろうその現象は、一般には“魔荒嵐”と呼ばれ知られる、魔術現象の一種なのであった。
「あ~、びっくりした」
言いながらも周囲の様相には戸惑った様子をおくびにも見せない少年。
ちょうど台風の目に当たる位置にいる彼は、そのまま老人の方へ向き直り、引き続き作業に集中するのだった。
「ん~、このままでも問題はなさそうだけど……一応、“壁”は必要かな? でも、今手離せないからな~僕……」
そう言って、少年が意味あり気な視線を送ったのはミレイである。
それを受けて、彼女は「仕方がない」と言わんばかり小さく頷くと、直後、その指先を老人の方へと向け――
「……っ……」
なんの詠唱もせず、その魔術を発現させた。
それは、防御系に属する下級の魔術。一定の範囲内を無属性の魔力壁で覆い、おおよその魔術的攻撃から(程度に個人差はあれ)対象の身を守ることができるという術であった。
「あはっ、ありがとー」
周囲に張られた透明な膜のようなものを確認して、少年は素直に礼を言う。
「ま、僕の為じゃないんだろうけどね……」
自虐的な呟き。だが、おそらくその通りだということは、ミレイの向けるその視線の先に老人の姿以外映っていないことから明らかである。
あからさまな扱いの差に、いささかしゅんとする少年。
ともあれ、それを最後に、彼らの姿は完全に渦の中へと消えていった。
そして……
「…………」
ミレイは一人、その様子をただ呆然と、無感情に眺めていた。
しかし、それも仕方がない。
なにせ人為的なものならばともかく、自然に発生した魔術を止める手段は、実に限られているからである。いかに小規模であっても、そのためにはおそらく、魔力の扱いに秀でた者が数人程度は必要だろう。成す術はなく、ただ終わりを待つことしかできないそれは、誰の意志も介入しない、局地的な災害に等しいものだった。
よって、ミレイにはもはや、その時が訪れるのを静かに待つ以外取れる行動はなかった。
そして、程もなく――
「…………!」
その終わりは、始まりと同じように唐突に訪れた。
突如として、渦が動きを止める。
急速冷凍されて形を保ったまま凍り付いてしまったかのようなそれは、その後一瞬の静寂を経て、絡み合った糸が解れるかの如く上方から光の粒子となって消えていった。
そうして後に残されるのは、二つの影。
「…………」
佇むミレイ。
天に向かう無数の蛍火のようなそれを、眉の一つも動かさずに見送った彼女は、やがて、その視線を後に残された少年らへと向けた。
「――はぁ、はぁ……ふぃ~……これで、もう大丈夫……かな?」
余程消耗したのだろう、息も途切れ途切れにそう言って、少年はその者の顔を覗き込んでいた。
どうやら、作業は滞りなく済んだらしい。
「うん! とりあえず、顔色はいいね、よかったよかった! あー……っと、まあ……体の方は、ちょっとアレだけど……」
どういうことか。そんな意味深な台詞と共に、何かを諦めたように大きく息を吐く少年。
「…………」
その傍らに、いつの間に移動してきたか、ミレイが立つ。そうして彼女は、いまだ目覚めない男の容体が気になるとでもいうように、その顔を眺めた。
「大丈夫だよ、全部うまくいったから。でも、まだ、しばらくは起きないかもね……。ふぅ~、とりあえず疲れたし……お茶でも飲もうっと。ミレイちゃんもどう?」
言いつつ少年は帽子を脱ぎ、そこから当たり前のように二人分のティーカップを取り出した。
それに対して、こくりと頷いて応じるミレイ。
心なしか安心しているような様子の彼女を見届けて少年は、微笑を浮かべながら小休止に都合の良い場所はないかと辺りを一瞥する。そうして、やがて手頃な場所を見つけた彼らは、そこへゆっくりと歩いて行った。
その途上、
「なにはともあれ、遠路はるばるようこそ。僕の……僕達の世界――“エドラ”へ!」
僅かに男の方を振り向いて言う少年。
瞬く星空の下、その声だけが静かに鳴り響く。その傍らを、一陣の風が、何かを告げるように通り過ぎていった。