その参【魔王と森】
「暗いな……」
この森――“スウィンゼル大森林”(という地名らしい)に足を踏み入れた者が必ず漏らす言葉があるとすれば、おそらくそれだろう。
密集した木々が傘のように枝葉を広げて貪欲に陽の光を求め、それ故、日中だというのに辺りは薄暗い。海が近いせいか空気の湿度も高く、それが余計に漂う雰囲気を不気味にさせていた。
そこかしこからなにかの気配を感じるのは、果たして気のせいなのかどうか……。
とはいえ、
「…………」
前を歩く少女はそんなことを気にする様子もない。
生い茂る雑草の中から的確に獣道を探し当て、時には魔術を使って道を切り開きながら奥へと進んでいくミレイの後に、儂は淡々と着いていった。
「大したものだ」
「……?……」
「いやなに。この暗さ、森の中で歩みに迷いがない。マクネロがお前に案内を頼んだのも頷ける、とな」
経験上、森の中の行軍はなかなかに骨が折れる。
なにせ迷いやすい。
似たような景色が続くため方向感覚が狂い、気付いたら同じ道をぐるぐる回っていたなど、ざらにある話だ。ましてここは異世界、知らない土地である。儂一人では、絶対にここまで順調に進めなかったであろう。
「……馴れてるから……」
「ふっ、そいつは心強い」
そんな会話をしながら、何事もなく儂らは歩を進めていった。
極めて順調。最初こそは不気味に思えたが、至って平和な旅路であった。
そうして、どれ程が経った頃か、
「…………」
突然だった。
ふと、ミレイの足が止まったのだ。
「どうした?」
「……静かに……」
追いついて声をかける儂を手で制すミレイ。
休憩、という雰囲気ではない。
異常事態。それを察した儂は黙って指示に従い、状況の把握に努めた。
(なにか……いる?)
見えた訳ではない。聞こえた訳でもない。それでもそう感じたのは、“匂い”がしたからだ。
どこからかは判然としない。だが、充満する青臭さの中に混じって確かに香るこれは――
「――獣、か……?」
小声での質問に、頷くだけで応答するミレイ。その手には、いつの間にか小振りの剣が握られていた。
それを見て、即座に儂は刀の鯉口を切り、周囲を警戒する。
その刹那――
「……来る……」
――“それら”は正面から、一斉に飛びかかってきた。
「ハッ! 奇襲は無理と察したか、獣風情が!」
罵倒し、抜刀する。そうしながら視界で捉えたのは、野犬のような、おぞましい獣の群れ。
数は……十はいるだろうか。闇に紛れるような漆黒の体毛と、浮いた肋が特徴的な獣だ。
それが牙を、爪を怒らせ、ただ本能のままに迫り来る。
だが、
「ひい、ふう、みい…………ふむ、ちと多いな」
「…………」
その脅威を前にして、こちら側の対処は冷静だった。
「いけるか?」
「……問題ない……」
「よろしい! ならば、討て!」
指示はそれだけ、策はいらない。向けられる殺気に真っ向から受けて立つ。
先陣を切るのはミレイ。剣を片手に疾風の如き速さで、彼女は荒ぶる敵陣に切り込む。
そして――
「ガルアアアアアアッ!!」
――散る。
近寄った相手を小娘と侮った哀れな者共は、襲いかかった側からその刃にかかり、次々と命を散らしていく。
「ククク、やりおるわ」
縦横無尽な獣の攻撃全てを紙一重で躱し、生じた隙を確実に突くミレイ。
横に、縦に、斜めに剣を振るう。その度に獣達の首が、胴体が裂かれ、辺りに血と臓物が散乱していく。
(蘭丸の奴とどっちが強いかのう?)
ふと思い浮かべた少年に勝るとも劣らぬその動きに、儂は思わず見蕩れてしまった。
「っと、そんな場合ではないな」
意識を引き戻す。
獲物はなにも一人ではないのだ。
見れば、影が二つ。凄惨な仲間の死体を前にして尚衰えぬ殺意をその目に宿し、こちらに牙をむいて迫って来ていた。
「ガルアアアアッ!!」
二匹同時、駆ける勢いのままに大きく口を開けて跳躍したそれらは、そうしてなんの躊躇も容赦もなく、獲物の喉元に食らいつこうとする。
「敵わぬ相手は避けて通る……賢明賢明。だが――」
その牙が届くことはなかった。
「――舐めるな、犬っころ!」
一閃する。
中空で二つの影が並ぶ一瞬、機を見て横薙ぎに振るった刃は、そのまま一匹の頭部を通り抜け、もう一匹の右前足を斬り落とした。
「まず一つ!」
言いながら、討ち漏らした一匹へと意識を向ける。
手負いの獣は着地もままならず、飛びかかった勢いのまま地面を転がり、辺りに血をばら撒いた。
もはや瀕死。しかし、それでもそれは立ち上がり、剥き出しの敵意をこちらに向けてきた。
「クハハ、退かぬか! その意気やよし!」
ならば、滅ぼすまでだ。
慈悲は無用。支えを失っておぼつかない足取りの相手を、儂は容赦なく追い討つ。
「ハァッ!」
一喝の下、振り下ろした義元左文字の斬撃は、避ける暇も与えず獣の体を容易く両断した。
「ふん、相手が悪かったな」
こちとら素人ではない。前線で戦う立場でもなかったが、命のやり取りには慣れている。数十年、戦国を生きたのだ。しかも体は全盛の頃のものとあらば、獣ごときに遅れをとる筈もない。
「さぁて……今度はこちらから行かせてもらうぞ!」
その声が届いたのかどうか、ミレイを包囲していた内の三匹が戦線を離脱し、こちらに迫る。
次は同時ではない。
やや体格の小さいものを先頭に、遅れてもう二匹がやってくる。どうやら時間差で波状攻撃を仕掛ける腹づもりらしい。
が、
「小賢しい!」
その程度で止まる程、儂も甘くはない。
走る勢いに任せ、そのまま最初の一匹と衝突する。
「ガルアアアッ!!」
飛びかかりざま、振り下ろされた獣爪による一撃を横に躱し、すれ違った胴体を叩き切る。血飛沫が舞い、獣はただの肉塊へと変わった。これで一つ。
「次!」
続けて左右から二つの影が迫る。
予期していた通りの攻勢。儂は咄嗟に後ろに飛び退き、それを躱した。直後、真っ直ぐに刀を突き出しながら前進。獣らはそれを察知し、再び左右に別れてその攻撃を躱そうとする。
「甘いわ!」
急遽刀を逆手に持ち替え、そのまま右に飛んだ一匹へ追撃、地面に突き立てるように振り下ろす。獣は対応できない。追い縋る獰猛な刃は、その土手っ腹を縫い付けるように貫いた。
断末魔が響く。だがまだ終わりではない。
刺した刀を引き抜いた瞬間、残る一匹が見計らったように飛びかかってくる。
迫る獣爪。避ける暇はない。
狙いすました鋭い一撃が獲物の喉元を確実に捉える――直前、儂は咄嗟に刀を構え、それを防いだ。
子気味良い金属音が鳴る。そうして受け止めた衝撃に乗るように儂は後ろへ大きく退り、
「折角だ。試させてもらうぞ」
言いながら構え、左手に意識を集中する。
神から授かりし力、実戦で使うのは初めてだ。だが、ここで使いこなせなければ意味はない。
牙を向いて追い縋る獣を見据えながら、儂は機を窺った。
(まだだ……まだ……!)
相手は素早い。普通にやっても避けられるかもしれぬ。だが魔力は有限。そんな愚は犯せない。となれば、ギリギリまで相手を惹きつけ、確実に当たる時を狙うしかない。
そう思い、儂は時を待った。
そして、
(来い……来い……来い――)
――今だ!
「飛べ――『ファイヤーボール』!」
力が流れ、収束し、放出される。
そうして具現した拳大の火球は、丁度構えた左手に食らいつこうとしていた獣の頭部に直撃。そこから燃え広がり、その全身を存分に焼き焦がした。
「ふむ、なかなか……」
悲鳴を上げ、悶えながら絶命していく獣を見下げながら、儂は術の威力にそんな感想を抱いたのだった。
「さて……」
ひとまずこちらの脅威は去った。
そう思いもう一人の少女の方へと視線を向けてみれば、
「……ッ!……」
そちらも、丁度終わったようだった。
「無事か?」
「……ん……」
おびただしい量の死骸が転がる中で静かに頷くミレイ。
多勢に無勢、という言葉は今回に限り当てはまらなかったようだ。近付いて見てみれば、傷どころか返り血すらも殆ど浴びていない。
その姿を作ったであろう凄まじい剣勢を思い、儂は密かに戦慄した。
「……そっちは……?」
「あ、ああ、問題ない」
返り血は多少浴びたが傷はない。魔力にもまだ余裕がありそうだ。
「……休憩は……?」
「いらん。疲れたか?」
首を振るミレイ。
「まあ……どちらにしてもここは血生臭すぎる。他の獣が寄って来ない内に離れるぞ」
「……ん……」
休憩を挟むのはそれからでも遅くはない。今はとにかく、進むのが先決だ。
そう思った矢先、
「……でも……その前に……」
「なんだ?」
言いながら差し出された手。そこに握られていた白布を見て、儂は問うように視線を投げた。
「……血……拭いた方がいい……体に障る……」
「む、そうなのか?」
それは物騒な話だ。なにか、毒の類でも混ざっているのだろうか? 今の所、特に体調の変化は見られないが……とはいえ、そう言われれば無視はできない。
それに、これから行くのは人里だ。ただでさえ歓迎されるか分からないというのに、この格好のままでは少し見栄えが悪かろう。
そういう訳で、儂は手渡された白布を受け取り、体に付いた血を念入りに拭き取った。
「すまん、汚れたな」
「……大丈夫……使い捨てだから……」
「そうか……」
ならばついでと、刀の方も綺麗に拭いておく。
そして、
「……よし、行くか。方角は? 見失ってはおるまいな?」
「……こっち……」
そう言って淀みなく歩き出すミレイ。その後に続いて、儂もまた森の中を進み始めたのだった。