【炎と消える魔王】
「――お退きをッ! 早く!」
焦りに満ちた声が耳を打つ。
「な、なにを言っている。蘭、お前は……ッ!?」
突如立ち止まり、迫る敵の群れと対峙する若者――“森蘭丸”の言葉に、儂は目を丸くした。
「ここは、お任せあれ…………ですから、“信長様”。どうか、お先に」
静かに、諭すように言われて、理解したくないことを、理解した。
「――クソッ! 分かった! 殿は任せる! だが死ぬなよ! 許さんからな!」
「ええ、勿論……大丈夫です。すぐに追いつきますから」
ちらりと振り返ったその顔は、状況にそぐわぬ柔らかい笑顔だった。
「言ったな? 約束だぞ? 守れよ蘭丸!」
「御意のままに――さあ、行かれよ!」
短い会話。瞬間、促されるままに身を翻し、儂は一人、元来た道を駆ける。
「――クソが! クソがッ! クソがぁ!」
炎に包まれた本能寺、そこからようやく這い出たと思ったら出戻りだ。
既にしっかりと兵を配置して出口を塞いでやがった。用意周到。実に計画的な犯行だ。頭に来る。
寺中に響くような怒号を上げながら、儂は走った。
「ふざけんなッ!」
そんな悪態と共に頭に浮かぶのは、一人の男の姿。
この窮地。蘭丸に叩き起こされて窓の外を見た瞬間、誰が首謀者かはすぐに割れた。
ざっと一万はいた敵の軍勢。それらの掲げる家紋が、全てを物語っていたのだ。
見間違えようもない。あの紋様――あの“桔梗紋”を掲げるは、天下に唯一人――
「――裏切りやがったなぁぁ! “光秀”ぇ!」
何故? 理由は?
是非もなし! どうでもよいわ!
そんなもの、叩きのめした後から幾らでも聞ける。
とにかく、彼奴が儂を殺しに来た。今ある事実はそれだけだ。
「覚悟しろよ? 金柑頭めッ!」
必ず、裏切りの代償を払わせてやる。
その為にはまず、
「死んでたまるかボケェ!」
この場から、生きて逃げおおせる。
それさえできればこの戦、儂の勝ちだ!
「――うつけめ! 覚悟ッ!」
「やかましいッ!」
「ぐはッ!?」
道中、湧いてくる敵を斬っては進み、また斬っては進む。
まったく、このクソ暑い中でご苦労なことだ。
決死隊。ようやるのう奴らも。絶対に儂を殺すという強い意志を感じるわ。
「クハハ……強敵! 流石よ!」
完全に想定外、儂の虚を正確に突いた猛攻と炎により、こちらの手勢はとっくに全滅させられた。
残すは、儂と蘭丸のみ。
「その上……」
こんな状況だ。おそらくだが、二条に置いた信忠も、既に……。
「……ッ……」
戦力差は絶望的、殆ど王手の状態に近い。腹立たしいが、認めざるを得えん。見事だ。我が家臣として、見込んだ男なだけはある。
だが、終わってはいない! まだ……まだだ!
例え儂一人になろうとも、生き残ってくれるわ!
炎を避け、瓦礫を避け、時折出くわす敵兵を斬り伏せながら、どれほど走っただろうか。
「ふむ……?」
そこで立ち止まることができたのは、ただの勘だ。
――何かがおかしい。
頭によぎる違和感。
炎に包まれた本能寺の喧騒の中、敵兵の動きに妙な統制があることに気付いたのだ。
これは、まさか……誘導されている?
「ッ……罠か!?」
その瞬間、足元に僅かな揺れを感じた。瓦礫の下から、微かに聞こえる低い響き。儂は反射的に身を翻し、後方に飛び退く。
直後、
「うおッ!?」
地面が爆ぜた。
仕掛けられた火薬が炸裂し、爆煙と炎が一気に吹き上がる。耳を劈く轟音と共に、熱風が顔を叩いた。
「チィッ! やってくれる!」
光秀め、寺全体を焼き払うだけでなく、こんな仕掛けまで……寺の中にいる奴らは、この為か!
逃げ道を塞ぎ、確実に儂を仕留めるつもりだな。だが、甘い! 儂がそう簡単に死ぬとでも思ったか?
煙の中から飛び出してきた敵兵が、槍を構えて襲い掛かる。
「舐めるな、うつけがぁッ!」
一閃。抜き打ちに斬り上げ、そいつの喉を掻き切る。血飛沫が舞い、儂の頬を濡らした。
「邪魔だッ! どけぇ!」
次々と湧いてくる敵を斬り捨てながら、頭を全力で回転させる。このまま出口を目指しても、奴らの包囲網に嵌まるだけだ。
なら、どうする?
決まってる。逆手を取るしかねえ! 光秀がこれ以上何を企んでいようと、生きてここを抜け出し、隠れて機を伺い、奴の首を取る。それが儂の答えだ。
「――ッ、こっちか!」
炎の合間を縫い、衝撃で崩れかけた廊下の奥に目をやる。そこに、僅かに開いた隙間が見えた。本能寺の裏手、普段は使わぬ小さな通用口だ。あそこなら、敵の目をかいくぐれるかもしれん。
決断は一瞬。躊躇う暇などない。儂は瓦礫を飛び越え、燃え盛る梁の下をくぐり抜け、全力でその方へと駆けた。
「ハァ……ハァ……!」
息が上がる。熱気で肺が焼けるようだ。それでも足を止めれば終わりだ。背後からは、敵の喊声が近づいてくる。
「見つけたぞ! 信長だッ!」
「殺せ! 逃がすな!」
追っ手が迫る。だが、通用口はもう目の前だ。あと少し――
「――ッ!?」
その時、影が動いた。通用口の前に立ち塞がる人影。一人の武将が、静かに刀を構えている。顔に浮かぶのは冷徹な笑み。見慣れた顔だ。
「貴様……光秀ッ!」
奴が、そこにいた。金柑頭が、まるで儂を待っていたかのように、悠然と佇んでいる。
「信長様。お逃げになるおつもりでしたか?」
静かな声。だが、その奥に滾る殺意を感じる。光秀の目が、獲物を捉えた獣のように鋭く光っていた。
「わざわざ自らおいでなさるとはな……探す手間が省けたわ!
「最後はこの手で……それが、一番確実に思いましたので」
そうだな。お前は、そういう男だった。
「ふざけやがって! やはり、貴様がこの謀反の首謀者か!」
「首謀者……いかにも」
なにも悪びれることなく言ってのける光秀。
「この天下を握るには、貴方はあまりにも無秩序過ぎました。私はただ、秩序をもたらすために動いただけにございます」
「戯言を!」
刀を抜き、一気に間合いを詰める。
「蘭殿と分断され孤立無援……貴方を守る者はもはやありませぬ」
光秀もまた、静かに刀を構え直した。
「――さあ、信長様。ここで全てを終わらせましょう」
炎が轟々と燃え盛る中、二人の刃が交錯する。火花が散り、金属音が響き渡った。儂の怒りと、光秀の冷酷な意志がぶつかり合う。
「死ねぇッ! 光秀!」
「それはこちらの台詞でございます、殿!」
一進一退。互いに一歩も引かぬ斬り合いが続く。
「――ッ!」
刀が火花を散らし、光秀の刃が儂の脇腹を浅く掠めた。熱い痛みが走るが、そんなものに構っている暇はない。すぐに体勢を立て直し、反撃に転じる。
「貴様、それで儂を仕留められると思うたか!」
叫びと共に渾身の一撃を放つ。光秀が後退しつつそれを防ぐが、その顔に僅かな動揺が浮かんだのを確かに見た。奴も疲れている。この炎と混乱の中、長くは保たん。
「信長様、貴方の野望もここまでです……!」
光秀が低く呟き、再び間合いを詰めてくる。冷静さを装いつつも、その動きには焦りが滲み始めていた。奴の背後では、本能寺の屋根が崩れ落ち、炎が天を突くように燃え上がっている。時間がないのは、お互い様だ。
「黙れ! 貴様の首を取るまで死んでたまるか!」
一太刀、また一太刀。互いの刀が唸りを上げ、刃が交錯するたびに火花が飛び散る。だが、儂の息は次第に荒くなり、全身を包む熱と疲労が足を重くしていた。
「――ッ!?」
突如、二人の間を割るように燃える瓦礫が降り注ぐ。互いに後退。炎が視界を塞ぐ――
「――ぐあッ!?」
次の瞬間、炎の向こうから光秀の刀が突き立てられる。躱せない。左肩に鋭い痛みが走り、血が噴き出す。膝が僅かに揺れるが、歯を食いしばって踏ん張る。
「終わりです、殿!」
光秀が冷たく言い放ち、最後の一撃を放つ。その刃が、儂の胸を貫くべく迫る。
「まだだ!」
咄嗟に刀を振り上げ、渾身の力でそれを弾く。だが、その動きが僅かに遅かった。光秀の刀は儂の胸を掠め、脇腹に深い傷を刻んだ。血が溢れ、視界が一瞬揺らぐ。
「ハァ……ハァ……!」
膝が地面に落ちる。刀を支えに何とか立ち上がろうとするが、体が言うことを聞かぬ。光秀が一歩下がり、静かに刀を収める。
「これで……私の役目は果たせました。貴方の時代は、ここで終わりです」
「ふざ……けるな……!」
声を絞り出すが、力が入らぬ。炎の中、周囲の音が遠ざかり、視界が暗くなっていく。
「ここは、もはや保ちませぬ……おさらばです。信長様」
「待て……待ち、やがれ……!」
降り注ぐ瓦礫が激しさを増す中、立ち去る光秀の背中を、儂は見つめることしかできなかった。
一人残され、立ち上がる力もない。崩壊から逃れる術は、もはやなし。
(死ぬ、のか? 儂は……こんな所で……)
人生五十年、その終わりがこれとは……傑作だ。
実に、面白い。
そして、くだらぬ。
(すまんな……)
訪れる最期の時、頭に浮かぶのは、蘭丸が別れ際に見せた笑顔だった。
果たせぬ約束に、胸が締め付けられる。
「守れよ……蘭。お前は……まもれ…………」
その言葉を最後に、儂の意識は闇に消えた。
ー完ー
じゃねえぞ!
ここからが本編だ!
これより、信長の野望は再び始まる……。
※誤字、脱字、その他不明瞭な点に関しましては、感想欄にお願いします。