――A・S――不条理な感情 第一章 【1-9】
今まで『A・S』に関して千尋と何回か話を交わした事はある。
自分がそれに所属している事を隠す必要はなかった。
最初の出会いの時にそれはもう、わかっていた事なのだから。
しかし、積極的に千尋を『A・S』に係らせようとは思ってはいなかった。
――少なくとも志賀自身はそう考えていた。
『A・S』に対しては千尋を今以上に近づかせる事はせず
適度に距離をとらせ、時間の経過と共にその距離を次第に大きくさせていって、
いつかただの過去へと、
忘却へと押し流してしまえればいいと思っていた。
それなのに…と、思いながら志賀は千尋の手の指輪をちらりと見た。
前回の"仕事"に自分たち以外に、サポートとして"協力者"が
加わる事は知ってはいた。
知ってはいたが、それが誰なのかは直前に近い時まで知らなかった。
最終のブリーフィングでそれが千尋と知った時は驚いた。
千尋との"接触"は自分に任されていたはずだったが、
してみると自分以外にも千尋と接触していた者がいた事になる。
自分の報告が生ぬるくて埒が明かないから、
誰かが自分を飛ばして千尋に接触したのだろうか…?
そう思って、それは誰だろう?と志賀は考えた。
うっすらとその人物の予想がつく気がした。
自分の"仕事場"と、千尋、という組み合わせは
志賀にとって一番見たくない構図の一つだった。
現場で千尋を目にした時は苦いものがこみ上げてくる気がした。
が、実際に仕事となればそうも言ってはいられない。
志賀はそんな感情は面には出さずに淡々と仕事をこなしていきながら、
同時に、なるほど、とも思った。
なるほど、こんな力をサポートとしてもっと使えるようになれば
自分たちの仕事はずいぶんはかどるし、効率も上がる。
と、同時に今後、千尋を『A・S』に係わらせないようにする事が
ますます難しくなっていくだろう、とも思った。
「………」
ふと、箸を動かす手を止めて、志賀は顔を上げた。
前には千尋のほろよいかげんに綻んだ顔がある。
その顔を曇らせる事を覚悟しながら志賀は口を開いた。
「…千尋さん」「はい?」
「訊ねたい事があります」
「…何でしょう…?」
志賀が箸を置き、両の手のひらをテーブルの上であわせて、
正面から向き合うようにした。
千尋もつられるように佇まいを正しながら
その顔にチラリと気まずそうな表情を浮かべた。
「…今回、『A・S』に協力した理由は何ですか?」
志賀は正面から千尋の目を捕らえて訊ねた。
まわりくどい言い方は結局しないで、"正面突破"で
訊ねてくるそのやり方に、志賀らしい、と千尋は苦笑した。
そうやって正面から訊ねられれば、千尋も、もう
小ざかしく誤魔化す事は出来ないな、と思った。
千尋は背筋をまっすぐ伸ばすと
ゆっくりと、言葉を捜すようにして話し始めた。
「…しばらく前からとても困っていた事があって…。
それで今、僕にどうしても必要なモノを
援助してもいい…という申し出があったんです」
「援助…? …『A・S』が…?」「ええ…」千尋はゆっくりと頷いた。
何だろう、といぶかしげに志賀の眉が寄せられた。
千尋はA・Sに貸し借りも、そもそも関係も作りたくないはずだった。
そんな志賀の表情を読んだのか、千尋は
「金です」と、
表情を自嘲気味にやや歪めた。
「……」志賀が軽く目を瞠っていると、
千尋はちらりと自分の手の指輪を見て、小さく息をこぼした。
「…妻の…」そう言って逡巡を見せて、千尋は次の言葉を押し出した。
「妻の母が…。僕にとっては義理の母にあたる人ですが…。
大きな病を…心臓の病気を今、わずらっていて…」
「……」
「その治療には移植手術が必要なんです。
でも悠長にドナーが現れるのを待っている余裕もない状況で…。
それでもアメリカの病院で手術が出来る事にはなったのですが…
その費用として億前後の金が必要となって…
どうしたものかと途方にくれていたんです」
千尋はやや俯きながら苦しげに言葉を続けた。
「…妻は一人娘でしたし、妻の父も既に
他界されていたから、僕も何とか力になりたかったのですが
さすがに金額が大きすぎてどうにもならなくて手詰まりだった時に
…声をかけられたんです。
資金も渡米のための準備も、『A・S』が全面的に協力しても良い、
手厚い手配をしよう…と。
そのかわりに、僕の"力"を『A・S』に貸して欲しい、
『A・S』の協力者になって欲しい…と。
そういう申し出があったんです」
「…そんな事が…」志賀は驚き、小さくうめいた。
彼の義理の母が病にある事は知ってはいた。
しかし、そこまでの状況だとは掴んでいなかった…。
その自分のうかつさに歯ぎしりしたくなる。
「正直、かなり悩みました。
けど、もう悩んでる時間さえ惜しくて…」
千尋は顔に苦悩を浮かべながら言葉を続けた。
「だからこの、『A・S』からの申し出を受ける事にしたんです。
…志賀さんに、何も話さなかった事については、
申し訳なくて…心苦しく思っています。」
そう言って千尋は志賀にすまなそうに頭を下げた。
『A・S』関係者でもあり、友人でもある志賀に『A・S』絡みの話を
何もしていなかった事をすまなく思っている事は、
その顔に浮かぶ表情が物語っていて、志賀としてもそれ以上、
問いただす気持ちにはなれなかった。
「あ、いや…」
志賀はうろたえ、苦さを噛み締めながら問うた。
「その協力…っていうのは、どのくらいの期間…?
まさか、無期限…」
「いえ、朝倉さんは、とりあえず一年…。
出来れば2、3年をと…」
「…朝倉さん?…総務の朝倉さんっ…!?
話をもってきたのは、朝倉さんだったの?…やっぱり!?」
出てきた名前に、予想してはいたが、志賀は驚きと共に、
やはりという思いを感じながら身を前に乗り出していた。
千尋は志賀のそんな内心に気がつく風もなく、淡々とうなずき、
「ええ。今は総務なんですか?
初めて会った時は、もっと違う部署でしたよね…。
今、おいくつでしたっけ。何だかあまり歳を取らない印象の人ですよね。
朝倉さんって…」と、苦笑した。
自身も笑うと学生のように見える千尋の顔を見ながら、
志賀もああ、そうだなあ、と内心で肯定した。
志賀より六歳以上は年上であるはずの朝倉は30代ではあったはずだが、
パッと見、20代にしか見えないし、
何年たってもその印象は変わらなかった。
「朝倉さん、一年前に総務に移動になったから…。
そっかあ、やっぱり朝倉さんかあ…」
ふー…と小さなため息と共に志賀は内心でしおたれた。
自分以外に千尋に接触してくる者がいるとしたら、
朝倉ではないかと思ってはいた。その予想は当たった。
朝倉は移動前までは志賀と同じ部署に所属していた。
志賀と同じく、作戦の実行と遂行を
目的とする部署である『情報作戦部、機動課』に属していた。
そして、当時志賀の属するチームの、彼は班長だった。
しかし一年前に朝倉は最前線を去り、総務へ移動となったのだ。
そういえば、と、志賀は思い返した。
三年前のあの事件、あの時に…。
朝倉も共にいた。
そう、自分と共に、彼もすべてを見ていたのだった…と。
続く