第一章 【1-7】
そろそろ街が夕闇に包まれる頃だった。
時刻は六時50分を指そうとしている。待ち合わせは7時にしていた。
彼が今、居るのは待ち合わせにも良く使われるデパートの
入り口付近だった。
その入り口の辺りは、イベントにも使われる小さな広場となっており、
広場は行き交う人々や、
待ち合わせにやってきた人たちのざわめきで賑やかしかった。
志賀はその広場の、端の目立たない位置を取っていたが、
視線をチラリと腕時計に落とし、
広場と歩道の境目付近まで移動すると、左右の歩道に視線を巡らせた。
と、左の道を千尋がこちらに歩いてくるのを見つけて
表情を緩ませた。約二週間ぶりの再会だった。
前回『A・S』の仕事を手伝ってもらった際に、
今日の約束を取り付けておいたのだ。
表向きは手伝ってもらった礼をしたいのと、
美味しい創作和食の店を見つけたのでどうかと言って誘ったが、
千尋に尋ねたい事もあっての事だった。
千尋の方も、それを感じ取ったらしく、
やや気まずげにしつつも、会食を承諾した。
何を訊ねられるか薄々察し、
バツの悪そうだった顔を思い出して、志賀はクスリと笑った。
自分より幾らか年上ではあったが、
隠し事は自分より下手そうだなと思い出していた。
こちらに歩いてくる千尋を見ながら、志賀はおや?と思った。
千尋がこちらに気がついている様子はまだない。
だが、その顔に薄く疲労の色が浮かんでいるのがうかがえた。
仕事関係の疲れだろうかと思いつつ、
志賀は合流するために千尋に近づいていった。
夕刻の、人の移動の多い時間帯だった。
すれ違いざまに母子連れの子供と、千尋が軽くぶつかり、
六歳位の男の子が石畳の歩道にすてんと転んだ。
「あらっ、ナオくん」母親があわててしゃがんで
子供を抱き起こそうとする。
「あ、ごめんね、大丈夫?」
千尋も慌てて、腰を低くして男の子の顔を覗き込み
擦り傷もなさそうなのにホッとして
「ちょっと考え事してて…ごめんね」と笑いかけた。
子供を抱き起こそうとしていた若い母親は
あ…、と小さく目を見張った。
千尋が笑うとその場の空気がふわりと柔らかく緩んだ。
湖面に落とされたかけらの作る小さな水紋が、
大きな輪の連鎖へとゆっくり広がっていくように。
または、なだめ、暖められて部屋をゆったりと循環し、
辺りに柔らかく広がっていった空気が、
気持ちをじんわりと平らかにしていくように。
そんな雰囲気が彼を中心に、
のどかに広がっていくのがわかる…。
「あ…いえ、こちらこそ…」母親は恐縮しつつも、
とっさに相手をリサーチしていた。
見てまず、最近お気に入りの若い俳優を思い出していた。
子供と一緒に見ている特撮ヒーロー番組に出ている主役の俳優。
その番組は子供たちだけでなく、
イケてる顔立ちの俳優の起用で、母親たちにも人気がある。
…その俳優がそっと笑った時の表情とかが特に似てるわね、
と思いつつ、明日、友達に会う時に、
あの俳優に似た人に会ったのよと、話してみようと思った。
話が盛り上がりそうだと考えると楽しくなった。
千尋と挨拶を交わして去っていく母親が
どこか楽しそうな様子なのに志賀は
目ざとく気がついて、小さく笑った。
その姿を目で見送っていると「志賀さん?」と声をかけられた。
視線を返すと、千尋が既に立ち上がってこちらを見ている。
「もう来てたんですか?相変わらず、時間厳守ですね」
「ええ、仕事柄、時間にはうるさくて」
志賀はしたり顔でうなずいた。
千尋は馴染みの顔を見つけて歩み寄って来ながら、
口元をホッとしたように緩めた。
志賀は彼のそんな表情は嫌いではないと思った。
自分が彼にとっての、日常の一部であり、
その生活の範疇に属する、含まれている相手だと解釈されているようで、
悪くないな、と思いながら笑みを返していた。