――A・S――不条理な感情 第二章 【1】
ふわりふわりと意識が漂う。
身も心も寄る辺なく流されていくその感覚に千尋は抗えずにいた。
自分は今、何をしているのだろう…?…と、意識の片隅にそんな問いが
浮かぶものの、それは一つ所に留まれないまま、問いの形になる前に、
泡沫のように意識の表面に浮かんでは流され、消えていく。
それでも、意識が浮上しようとあがく。
柔らかな光が穏やかに満ちているリビング。
キッチンから調理器具を用意する物音が聞こえ、優しい声が届く。
ーー裕也くん、今晩何食べたい?
『そうだなぁ。ブリの照り焼きなんて好きだよ』
ーーうーん、そっかあ…。照り焼きかあ。
いいけど、それはちょっとまだ準備不足かなあ…。
『そうなの?じゃあ、ポトフとか…』
ーーポトフ…。ポトフ。うん、ごめん無理。
きっぱり言われてぷっと千尋が吹き出す。
『よし、君が今作れるレパートリーでいいよ。何を作ってくれる?』
彼女への柔らかい愛情に胸が浸されて笑みがこぼれる。
そんな他愛無いやりとりが幸せを作っていた。
ずっとそんな日が続くと思っていた。…確証もなしに…。
そんな日々がたった半年で終わるなんて、思ってもいなかったのだ…。
胸の内をそんな想いと共に寂しさが満たす。
結婚生活はたった半年だった。けれど大事な半年だった。
と、千尋は胸を揺らす寂寥と共に思う。
三年前のあの日の朝が、彼女の笑顔を見た最後になった。
夜は外で一緒に食事しようと約束した。
約束して、笑い合って、仕事に出た。
それが最後に見た彼女の笑顔になった…。
そしてあの時…と、千尋はあの日、あの瞬間の記憶を辿ろうとして、
その時の自分の記憶がおぼつかない事を思い出した。
最期の…彼女の最期に関する記憶がどうしてもはっきりしない。思い出せないのだ。
どうしてだろう…と思う。
とても大事な事なのに、どうして思い出せないのだろう…。
三年前、事件の後、意識を病院でとり戻した時から、それはもう思い出せなくなっていた。
その事を考えるたび、千尋は自分がひどく薄情者になった気がして辛くなる。
君は、もういないーーー…
どこにも、いない…。
ひたひたと声にならない悲しみが胸を浸す。
大事な人を失った悲しみと喪失感。
心の奥深くにぽっかりと出来た大きな穴を埋める方法もわからないまま、ただ時だけが過ぎていく。
過ぎていく『時』も、自分に戸惑い続ける自分も持て余しているのだと、
少しずつ浮上していく意識と共に、
寂しさが吹き抜けていく心で千尋はそんな事を思っていた。
「ああ、見つけた、朝倉さんっ!」
志賀は昼時のカフェの、出口からやや奥の席に朝倉の姿を見つけると、同じテーブルの向かいの席にどっかりと腰を下ろした。
「ん?」
声をかけられた朝倉が、テーブル上に広げた書類に走らせていたペンの動きを休めて志賀を見た。
「ああ、志賀か。久しぶりだな。どうした?おまえがこっちに来るのも珍し
いな。何かあったのか?」
志賀を見ながら朝倉がふっと唇の端に小さく笑みを乗せる。
それを見ながらこの人は本当は三十路を過ぎているのに、
どうしていつまでも二十代後半にしか見えず、若々しいのか、と見当違いに恨めしい気分になる。
朝倉は今は総務だが、一年前までは志賀と同じ部署にいた。
情報作戦部機動課という、作戦の実行を担う荒事専門の部署で彼は、
志賀の属するグループの班長でもあった。
総務に移動になった朝倉は、サラリーマンな自分を演出するのが楽しいらしく、スーツに身を包むのをお気に入りのスタイルにして、今もスーツ姿で、すまして足を組んでいる。
彼の無駄と無理のない采配を、志賀は心中で認めていたのだが
「…てっきり、『現場』一筋の人だと思ってたら、
事務方への配置転換の辞令にほいほい喜んじゃうんだもんなあ…」
目の前にその顔を見て、ついポロリとグチがこぼれると、朝倉が
「後進に道を譲るのが可能性の開花につながると思ってな。
…何だ、そんなグチを言うために俺を探してたのか?」と揶揄するように軽く笑った。
切れ長の目とやや薄めの唇が朝倉にクールな印象を与えているが、
笑うとその硬質な印象がいくらか薄らぎ、より若くみえる。
しかし、それに騙されたら痛い目を見る、と志賀は思う。
「朝倉さんに尋ねたい事があってこっちに来たんですよ。
…それ会社の仕事ですか?」
言いながら朝倉の手許の書類にチラリと目線を向けた。
「ん、そう」
朝倉がすました顔でコーヒーカップを口許に運ぶ。
この場合『会社』というのは、朝倉が所属する貿易会社を指し、
その会社の入っているオフィスビルの一階にこのカフェはあった。
それは一見普通の貿易会社だが、実はA.Sの、
世間一般に向けての『顔』と『看板』としての役割も持つ会社で、
表向きは貿易会社を装いつつ、同時にA.Sの日本における
事務方や裏方として、A.Sの『仕事』をサポートするという、A.Sの後方支
援の役割も持つ会社だった。
なので志賀の所属する実戦部隊用の施設はここにはない。
訓練や作戦ミーティング用の施設等はもっと別の場所にあり、
志賀も普段はそちらを使う事が多く、こちらにはそう頻繁に足を運ぶわけではない。
「メールで伺いますって入れておいたのに、意外とじっとしない人ですよね、朝倉さんて」
「フットワークがいいと言ってくれ」
志賀のグチを軽く流すと朝倉は「で?」と、視線をこちらに向けた。
心中を見透かすようなその視線がこちらの用件を問うてくる。
「…千尋さんの事です」
やってきたカフェ店員にコーヒーをオーダーして、志賀は小さく息をこぼした。
「…聞きましたよ、朝倉さんが千尋さんをA.Sに勧誘したんですってね」
「井戸端の耳年増か」
「違います、千尋さん本人から伺いました。いつの間にそんな約束を取り付けてたんですか。
千尋さんとの接触は俺が担当の仕事なのに全く知りませんでしたよ」
「お前の仕事は、事件の関係者である千尋裕也の身辺も含めての追跡調査。
俺のしたのは、彼の能力を見込んでのスカウト。
仕事の内容はかぶらない。
こっちも仕事だし、必要だと思ったからこその接触だ。
そもそも、言えばお前が渋い顔するのもわかってたしな」
「…そりゃまあ…。やはりそう見えますか…。」
「見え見えだな。千尋さんは事件の目撃者であり被害者でもあるが、
あんな形で我々と関わった以上、もうA.Sと無関係とはいかないだろう。
何年かは彼と定期的に接触しての、その様子や状況のチェックは必要だし、それを抜きにしても、
あの人が値の高い"能力者"である事も、もう知れているんだから、どのみち放置してはもらえないさ」
「そうですね。あの人みたいな能力者の協力があれば、
『仕事』の能率もぐんと上がる…。
どこだって、そりゃ欲しいでしょうけど…」
先日の千尋の協力による『仕事』を思い出して志賀はぼやき、だからこそ、これ以上、『こちら』に関わらせないで、そっとしておいてやりたかったのだとも思う。
「しかし朝倉さん、あの人によく、協力を承諾させられましたよねえ…。
A.Sの事なんて嫌っていたはずなのに…」
「ん?困ってたようだから、力になれないかと思ってな」
食えない顔でさらりと応えながら、
朝倉がふっ…と、何かを思い返す顔になる。
「それにあの人はな…。
いつまでも何かを憎み続ける事が難しいタイプの人だからな…」
「……」
「憎まなければと思いつつも、でも憎む事に疲れてしまうんだ。
吹っ切れてるわけでもないけどな…。だから俺の話も聞いてくれた。
残ったものは嫌でも生きていかなきゃならないけど、
でも、そうしたら…憎むばかりじゃ、やっぱり辛いじゃないか…」
言いながら、朝倉は時間を巻き戻した先を思い出すような顔をした。
そんな朝倉を黙って見返しながら、志賀は自分同様、
この人も三年前の事件でやはり千尋に関わった一人だったと思い返していた。
続く
超、久しぶりの更新になりました。
こんな調子ですが、少しずつ追加していくつもりですので、良かったらまたお付き合い下さい。m(__)m