――A・S――不条理な感情 第一章 【1-10】
「はぁ~」知らず、溜めた息を吐き出しながら
志賀は頭を抱えたい気分になった。
一年前に総務に移動になった朝倉が、自分の知らないうちに、
いつの間にやら千尋とも連絡を取り、関係を作っていたとは。
本部や支部で朝倉とはこれまで何度も顔をあわせてるのに、
今までそんなそぶりを少しも見せなかった彼の人の悪さに、
「あの人は、もうね~…」と、つい愚痴めいた言葉をこぼしていた。
千尋が身を小さくして申し訳なさそうにした。
「朝倉さん、墓参りにも来てくださる事があって、そこで何度か
ばったり出会って、お話をしたんですよ」
いや、それも計画的なものに違いないと志賀は思った。
その位のしたたかさはあの男は十分に持ち合わせている、と、
志賀は朝倉の人を食った笑みを思い浮かべていた。
次に会ったら、どうとっちめてみようかと眉を下げ、うんうんと
思案している志賀を見て千尋が小さく笑った。
「あ?」「あ、すみません。志賀さんと朝倉さんて実は
きっといいコンビなんだろうなと思って」
「はい~?」
問い返す語尾が思わず上擦る。自分と朝倉の
どこをどう見たらそんな感想が出てくるのか。
「以前にお会いした時、朝倉さん、志賀さんの事、仕事の
ツメはまだ細かい部分で甘い所があるけど、
先々は期待してるみたいな事、言われてましたし」
「えっ…うそっ…」
思わず、志賀は素で問い返していた。
朝倉はいつも人をはぐらかすようにして、
本心を窺わせない男だった。
それが自分の知らない所で嘘であれ、本心であれ、
そんな評価じみた事を言っている事自体に驚きを感じた。
そんな志賀の顔を見ながら千尋が笑んだ。
「本当ですよ。居酒屋で熱燗の酒を傾けながら
楽しそうに言われてましたよ」「………」
ふわりと笑う千尋から、くつろいだ、柔らかい雰囲気が漂ってくる。
それは適度な湿り気も含んだ心地よさで辺りに沁みていき、
そばに居る自分もそれにそっとまかれて、
気持ちが丸くなるのが分かった。
つられて千尋に笑み返しながら、志賀は
夕刻、千尋とぶつかった親子を思い出した。
今の自分も多分、あの母親と似たような表情を
浮かべているのだろうと志賀は思った。
他愛もない雑談を重ねながら二人は気持ちよく
酒を酌み交わしていった。
途中手洗いに立った志賀が席に戻ってきた時、
千尋が頬杖をつきながら、
優しい視線を斜め横の、二つくらい向こうの席に
向けているのに気がついた。
懐かしむ優しさを口の端に浮かべて、目を細めて見ている。
何を見ているのかとその視線を追うと、そこの席に
若い夫婦が腰掛けた所だった。見ず知らずの相手だったが、
どうやら新婚夫婦らしい。
夫婦である事にまだ慣れてないような、
ままごとみたいなその初々しさに、千尋は目許を優しくしている。
クスリと小さく口許を崩しながら柔らかい面差しを向けていたが、
ふと、その眼差しに寂しさが混ざり、
何かを探し、追うような色になった。
ああ、と志賀は思った。彼は大事な人を想い出しているのだ…と。
その目線と、未だ外されない千尋の指輪を見ながら、
千尋が今もその人を望んでいるのだと解る。
志賀は初めて千尋と出会った時を思い出した。
その事件の最後の瞬間に、
千尋がその人に…彼女に向けた気持ちを思い出し、
志賀はやるせない気持ちになった。
テーブルに戻ってくる志賀の視線に気がついた千尋が志賀に
照れくさそうに笑いかけた。
◇◆◇◆
それに気がついたのは、のれんをくぐって店の外に出て、
二人で駅に向かって歩き出して、しばらくしてからの事だった。
千尋が辺りにチラチラと落ち着かなげな視線を向ける。
立ち止まり、後ろを何度も振り返っては、
納得いかなげな様子を見せる。
気持ち良い酒でくつろいでいたその表情に
困惑が混じり始める――…
そんな千尋の横顔に訝しむ視線を向けながら、
志賀はふと思いついて訊ねていた。
「…あれ?千尋さん、もしかして今、"力"を使ってる?」
「……」
千尋が立ち止まった。眉をしかめながら志賀を振り向く。
「ええ…。せっかく楽しく会食してたのに無粋だとは
思ったのですが、どうにも、その…」
言いながら、戸惑いの混ざった視線を周りにまた巡らせた。
千尋が普段"力"を使いたがらないのを知っている志賀は
驚きながら問い返した。
「え…食事の間も使ってたの?…どうして…?」
「正確には、それ以前から…です。と言うのも…ここ何日か、
奇妙な気配を感じるんです」
「気配…」志賀は眉をひそめた。
「僕を伺う…見張るような気配です。
振り返っても怪しげな人もいないし、様子もない。
けど気配はある…。
しばらくは黙って様子を見てたんですが…
一向にそれが消える様子もないまま、やはり僕を追ってくる…。
正直、いい気分はしなくて。
だから力を使って相手を"探って"たんですが…」
と、言葉を切ると、千尋はふう…と徒労を感じさせる息を吐いた。
「志賀さんと食事してる時は店内に居るのが分かってるからか、
気配もかなり薄く、ほとんど感じない程になってたので、
僕もつい気を弛めて、さほど“力”を使ってなかったのですが
店を出て移動を始めたら、また始まって…。
"触手"をどう伸ばしてもどうしても相手を捕まえられなくて…」
焦りにも似た疲労を顔に浮かべる千尋の言葉に
志賀は驚いていた。
「え…!判らないの?…千尋さんが!?」
"力"を使って対象を追っているのに、千尋が相手の捕獲が
出来ない。そんな事は初めての事だった。
こめかみに指を当て、疲労をほぐす千尋を見ながら、
志賀の頭の中にチカチカと警告の色が瞬く。
千尋にもう少し詳しく話を訊こうとした時だった。
「おや、志賀くんと千尋さんじゃないですか」と声がかかった。
「え?」振り向くと、夜の街の人の流れから外れて、
こちらに寄ってくる影があった。
「係長…」
志賀が思わぬ所で思わぬ相手に出会ったという顔をしていると、
その横で千尋は誰だったっけ?と
軽い酔いに浸った顔で小さく首を傾げ、
次いで記憶の引き出しからその答えを探り当てた顔つきになった。
先日、『A.S』の仕事を彼が手伝った際、
千尋と共に現場に居て、千尋の透視内容を志賀達に伝えて
指示を出していた、志賀にとっては上司にあたる男…。
その男が親しげな表情で二人の側に来たのだった。
続く