六歌(10)
女子高に向かうため飛び出していった風見を見送った後、簡単な食事をとり、縁側へと腰掛ける。
恋歌さんは自室で寝込んだままだ。経過も順調とはいえず、発熱や風邪のような症状も確認できた。社長に聞いたところ、今すぐにどうにかなるということはないようだけど、このまま『吸血鬼』が好き勝手に暴れるままというのはあまり良い状況ではないだろう。
「吸血……してもらってないな」
お互いの日課になっていた吸血行為はもちろん行われず、僕の『異常』はなんの制約も受けずに身体の中に仕舞われたままだ。
「自分の異常の原因に目を向けろなんて、難しいことを言ってくれるもんだ」
くすりと、自嘲気味に笑い、そっと自分の胸に手を当てた。
自分の胸に手を当てて考えてみろなんて言う通り、たしかになにか考え事をする時この体勢が一番落ち着くような気がした。
初めて人を殺したあの時の記憶は、今でも鮮明に覚えている。
「オジサンと良いこと、しようか?」
相手はどこにでもいるただのヘンタイだった。
その時僕はたしか知り合いの女の子と遊んでいて、子供ながらに突然近づいてきた笑顔の男が、僕たちに危害を加える存在だと直感でわかった。
僕は当時からフェミニストの痛い子供だったようで、死んでも女の子を守るだなんて、バカげた幻想を抱いていた。
二人っきりの砂場、二人っきりの砂遊び。僕の故郷はかなりの田舎で子供も少ない。その公園で遊ぶのは僕とその時一緒にいた女の子ぐらいのもので、誰も助けには来てくれない。
「大人しく、してくれるよね?」
だから、少しばかりシワの刻まれ始めた中年の男が懐からバタフライナイフを取り出した時、僕は子供ながらに死ぬんだとわかってしまった。
言いなりになって、いわゆるイタズラを受け入れればなにも死ななくともすんだかもしれない。けれど、近くに女の子もいるし、僕はおそらくそいつの言いなりになるという選択肢を最初っから持てなかったのだ。
「ヤダ……」
抵抗の意思を表現するために、女の子の前に庇うように立つ。後ろで縮こまる女の子が心配そうに僕の服の裾をぎゅっと掴んでいるのがわかる。
とたん表情を厳しくした男が震える手を振りかざし、ナイフの切先をこちらに向ける。なんとも沸点の低い、短絡的な犯行だ。最初っからあんなイカレタ大人を刺激するべきではなかったのかもしれない。性犯罪ぐらいで我慢していれば、殺人事件に発展する可能性もなかったはずだ。
子供と大人には差があって、当時の僕はナイフをもった男に勝てるはずもなく、ただ一方的に殺されようとしていた。
けれど、どうしても死にたくなかった。
死ぬとわかっていても抵抗して、敵わないとわかっていても抵抗して、それでも僕は殺されるという事実を拒否したかった。
だったら答えは簡単だと、どこか遠いところから返答がやってくる。
殺される前に殺せばいいのだと。
最初に突き出したのは右腕だ。力一杯振りかぶり、自分の精一杯の速さで振り抜いた右ストレートが男の腹へと直撃する。
男はニタリと、面白いおもちゃを発見したような顔で僕に笑いかけた。効いてなどいなかった、土台子供の小さな身体で大人の男を傷つけるなんて無理な話だった。
子供が男にダメージを負わせるほど殴る。という『結果』が最初から用意されていない。
必至にその可能性を模索した。テレビや漫画で見たことのある急所を思い出し、何度も何度も拳を打ち込む。あるはずもない可能性を探り、あるはずもない結果を手繰り寄せる。
やがて、自分が何発も不自然に男に拳を入れていることに気づいた。やけに胸が苦しくて、耳の奥できぃきぃと異音が響いている。
まるで、時間が止まったかのような感覚。
その時はよく原理を理解していなかったが、それがきっと僕の初めての『異能』だったのだ。
あるはずのない『結果』を手繰り寄せるには、あるはずのない『過程』を捏造する必要がある。おそらく『過程』をすっとばし、『結果』だけを生み出す能力。
本来起こりえない事象を起こすために、異常をきたして辿り着いた僕の『異能』だった。
子供の拳が何度も男にそそがれる。過程は必要なく、ただ急所を殴ったという結果だけが残る。本来なら無事に辿り着けるはずもない道程は、その道程そのものをショートカットすることで不可能ではなくなったのだ。
それでも、子供の力では大人を倒すのは容易くない。
きっと僕は止まった時間の流れの中で、何度も、何度も拳を打ち込んだのだろう。角度や強さや場所を変え、できるだけ男を追い詰めるために……。
しかし、子供というのは残酷なもので、ふと途中であることに気づいた。
なにも、拳で愚直に殴って男を殺す必要なんてない。もっと簡単に相手を殺ることはできないかと。
考えた瞬間。うっすらと答えへの道が見えてくる。
その、わずかに見えた打開策に向けて必至に手を伸ばした。ただ、僕は自分の身を守りたかっただけのはずなのに、いつしか、僕は男を殺すことだけを考えていたのだ。
やがて、伸ばした手が何か柔らかなものを掴む感触がした。
限界まで必至に伸ばした右腕が苦しくて、僕は必至でその掴んだものを握り、砕いた。
それがきっと、僕の初めての殺人。
人を殺した感触だった。
10を超えてきましたが、まだまだ終わりそうにありません。六歌は長くなりそうですね……。