六歌(2)
「恋歌さーん、おはようございます」
いつもより少し遅い通勤時間。とはいってもタイムカードなんて大層なものなんて存在しない、この超常現象研究所に通勤時間なんて概念が存在しているかは疑わしい。
自分のアパートで簡単な朝食をすませてきたせいで、風見の通学前には間に合わなかった。買い置きの食パンが一個なくなっているのを見るに、あいつもそれなりに社会生活に慣れてきたようだ。
「まあ、恋歌さんは起きてないんだろうなぁ……」
ここ、超常現象研究所の主な業務は個人からの依頼を解決すること。そのお客さんがいつ来るかなんてわかりはしないが、午前中からやってくるってことはあまりなかった。
そのせいか、恋歌さんは何もなければ正午あたりまで布団に包まっていることが多い。夜中までなにやらパソコンをカタカタと触って報告書を書いたりなんてのはよく見る光景だった。最近は、風見がこの家にいるせいで、以前より泊まってお世話なんかをする機会は減ってしまったけど。
自称吸血鬼だけあって、夜行性なんだろうか。
「恋歌さーん、起きて下さい」
屋根裏部屋への、狭くて急な階段を上り恋歌さんの部屋の前まで移動する。
「恋歌さん?」
扉を開けて、勝手に侵入したのに返事がないことを不審に思って、呼びかける。布団に包まれたまま芋虫のように固まる姿だけは確認できたが、反応がない。
「ちょっと、大丈夫ですか?」
布団に手をかけ、引っ剥がす。その下には小刻みに震える恋歌さんのやけに小さな身体があった。僕よりも身長も高くてプロポーションだっていいくせに、膝を丸めて縮こまる姿は小さな女の子にしか見えない。
怯えたような表情でこちらに恋歌さんが顔を向ける。
その瞳は部屋の暗さに負けないほどに真っ赤な、純血のような色をしていた。
「恋歌さん、それ! ……血が、血がほしいんですか?」
恋歌さんの肩を抑えて、語りかける。真っ赤な、日本人どころか、人間離れしたような瞳は。求めるように僕の首筋を見ていた。こんな姿は見たことがない。
いつもと違うと、本能的に理解した。
吸血行為そのものは日常的に行われていた。周期も適当で、気が向いたら吸われるぐらいの、形式だけの行為。自称吸血鬼とは言っても、ただ首筋に噛み付いて犬歯を突き立てるだけ、ニンニクも大丈夫なら十字架だって問題はない。
だから、恋歌さんの言葉を借りるなら、『吸血鬼』なんてのは本当に些細な病気のようなものでしかない。
人とちょっと違う力を持っているだけ、その分だけ、たまに形だけの吸血行為を求めてしまうだけ。
なのに、目の前で震える姿は『人間』の範疇を超えた苦痛のように見えた。
「ゆ、有理、君……?」
小刻みに震える指先が僕の肩へと触れる。
そっと抱きしめるように、ベットの縁に腰掛けながら恋歌さんの背中へと手を回した。
「ぐ、が――、はぁはぁ!」
待ちきれなかったのか、恋歌さんがすぐさま僕の首筋にかぶりつく。
いつもより激しい行為は、痛みを伴う。血を吸うだけではなく、肉まで持っていかれそうな勢いで、僕の首筋は恋歌さんの口の中へと入っていった。
思えば、面と向かって恋歌さんが吸血をする姿なんて見たことはなかった。僕が見るのはいつも彼女の首筋だけ。身体を密着させて至近距離で、好きな人とそうしていられる幸福感の中で、じっとその人の香りに包まれて、その人の身体に顔を埋める。
パジャマの襟から溢れる、恋歌さんの柔らかそうな肩口に顔をあてたまま、僕はそっと目を閉じた。