三歌(8)
「あらあら、急がないと恋歌が大声では言えない、所謂成人同人漫画のような事になってしまうかもしれないわよ」
社長の、独特のイントネーションがこの時ばかりはうざったい。
地下駐車場から、ビルの一階へと続くコンクリートの階段を、息をきらせて上って行く。
「わたしわ思うのだわ。男の子が一番力を発揮できるのわ、案外こういう状況なのでわないかとね」
足りない筋力や速度は、心臓を、身体の細胞を、全宇宙の時間を、すべて止めることで補っていく。いや、本当に止められたかなんて知る由もないけれど、僕ができるのは結果を導きだすまでの過程をすっ飛ばすだけなのだ。
何でもいいから、少しでも早く、恋歌さんの所に向かいたい。
もう一段上ろうと足を踏み出す。そして記憶が飛び、奇妙な感覚のまま、気づいた時には先程より一段上の段に足を降ろし終えた自分がいる。意識と結果のズレ。
目的を意識し、行動することによって得られるはずの結果。過程を飛ばし、そこにダイレクトに到達するような、奇妙な感覚だけを重ね続ける。
それはある意味、今やったような、階段を一段飛ばしで駆け上がるような方法なのだろう。
「時間を止めている。というのわ、いささか早計なのかもしれないのだけれど、そう現すのがわかりやすいのだわね」
「おかげで、僕は二十歳も間近になって、小学生並みの身体能力ですよ」
「噂に聞くところによると、あそこもつるっつるなんだったわよね?」
「うわぁあああああああああああああん。こんな時に、凹む情報を喋り出さないでくださいよ」
半ば、ヤケになりながら叫んでやった。いったい、どこのどんな噂を聞いたのか……とてつもなく不安になる。
大丈夫、最近は恋歌さんの吸血行為による、異能の一時的な封印のおかげで、成長というのが戻ってきた。
身長だって、徐々にだけど伸び始めている。ギリギリ150mしかない僕の身体も、きっと気づけば160ぐらいにはなるはずだ。だから、なにも焦ることはない。
階段を上りきり、事務所前の廊下を見渡す。
二人、黒スーツの男が倒れているのを確認して、その奥で恋歌さんが、銃を持った剃り込み頭の巨漢に、掴まれているのが……。
それを意識し、認識しきったとき、気づくと僕は、その男のことをぶん殴っていた。
もちろん、一発では足りない、僕程度の攻撃力じゃあ、一度や二度叩いただけでは足りないのだ。恋歌さんに教わった合気道や、太極拳の知識をフル動員しつつ、殴り、叩き、押す、という結果だけを残し、身体の急所とやらを執拗に狙い続けた。
やがて、男が倒れ伏すのを確認して、呼吸を再開。
新鮮な酸素が身体に循環し始め、徐々に感覚が元に戻って行くのを感じた。
「あれま、戦ってる相手が突然倒れるなんてオカルトってのは、中々奇妙なものね」
「だ、大丈夫ですか、れ、恋歌さん」
階段を全力疾走。その後能力を使って即戦闘開始。
ぜーはーぜーはー、と情けなく肩で息をするには十分すぎるほどの運動だった。
「有理君の方がとても大丈夫には見えないけど……。とりあえずありがとう、おかげで怪我しなくてすんだわ」
銃で武装したそっち方面のプロに対して、1対3の戦闘をこなしてしまうのだから、僕がいなくても、きっと恋歌さんは怪我なんてしなかったのだろう。
案外、僕が先程必死こいて倒した剃り込みの男は、恋歌さんが合気道的に相手の力を利用して綺麗に投げ捨てる、一歩手前だったのかもしれない。
けど、それでも真っ先に、恋歌さんのことは僕が助けたいというのは、男として当然の、ある意味どうしようもない欲求だった。
「ごくろさまだわ。……こいつらわただのヤクザかなんかだわね。金で雇われた……囮? 違うわね、邪魔されないようにアッチも手を打ってたってところかしら。おかげで裏をかかれて地下以外の侵入経路からやられるとわ。してやられたのだわ」
ゆっくりと、事務所のドアが開き、社長が姿を現した。ぴっちりと着こなされた藍色のスーツ姿が眩しい。
社長は、廊下に転がる、怖い顔のお兄さんたちを物色し終えると、楽しそうに笑いながら、僕たちにアイコンタクトを飛ばす。あれは今から何か楽しいことがあるから、期待してなさいという顔だ。
「工藤の方も、終わったようだし、そろそろ依頼完遂といきたいのだわね」
和風に結わえられた髪の毛に、深々と突き刺さった一本のかんざし。先端に付けられた金色の装飾を揺らしながら、社長が優雅に歩き出す。
その姿を見て、僕はやっと事が終わったのだと安心するのだった。