二歌(2)
事の始まりは僕が大学のテスト前に、必死こいて食堂で勉強していた所からだったりする。
夏の訪れの迫る春の終盤、期末テストだけで評価するのは可哀想だと、生徒思いな先生方の配慮によって中間テストなるものが行われる。
バイト、と称して恋歌さんのところに入り浸っている僕にとっては、とてつもなく重大な単位という壁。この単位ポイントを貯めないと卒業できないように、大学のシステムは出来上がっているわけで……。
「やばい、まじやばい」
中間テストが行われる授業まで残り3時間。時間は充分あるくせに、覚えることはまだまだたくさん。
この日のためにとある通販サイトで購入した先生制作の教科書という名の哲学書は、分厚さだけで内容がさっぱり入ってこない。少なくても僕には合っていないシロモノだった。
「どうしよう、どうしよう」
要点を押さえ、勉強してはいるものの、不安は消えてはくれない。危なく独り言を呟き始めている時点で、僕にしては相当に焦っていると判断できた。
早朝の食堂は空いているが、さすがに中間テストの前だからか、チラホラと生徒の姿が見えた。周りの連中も似たようなものらしく、彼らの焦った様子がさらに僕の心配を加速させる。
こんな事なら普段から真面目に授業に出て、勉強していればよかったとまでは言わないが、テスト一週間前から対策に乗り出すべきだった……。
なんて、できもしない反省を繰り返しながら、テキストを消化していく。
「……あの、有理君? もしかしてお困りです?」
「え、ああ、草薙さん?」
そんな僕に話しかけてきたのは、クラスメイトの草薙さんだった。
ふわふわっとした髪型のままに、どことなくふるふわっとした雰囲気の女の子。そんな大学生らしい女の子が、僕にどんな用事なのだろう。
残念ながら、大学に真面目に通っているとは言い難い僕は学科からは浮き気味だというのに。
「あ、あたしの名前ちゃんと覚えててくれたんだね! 美香、嬉しいな!」
「いや、まあ一応同じ学科だしさ」
感極まったのか、一人称を自分の名前にしながら喜びを表現する姿は、素直に可愛いと思えた。
僕の一般的な感性はなんとか維持できているらしい。女性の好みなんてのは、恋歌さんのせいでめちゃくちゃに歪んでしまっただろうけれど。
「だって、有理君あんまり大学来てないしさー、この不真面目さんめ!」
草薙さんは食堂の奥、窓側に腰掛けた僕の隣に座り込むと、ペラペラと話題を膨らませていく。
この前の休日に友達とカラオケに行っただの、
この前の飲み会で行ったあの店がよかっただの、
この前のバイトの時店長がうざかっただの、
話が進みすぎて一周したのか、話がこの前の休日に戻り始めたその直後、草薙さんはやっと必死でテキストに貼りつく僕の姿に気づいてくれたらしい。
「あー、なりほどね! 哲学のテスト対策ってやつか」
「そうなんだよね。正直、草薙さんと話してる余裕、ないかも。頭の中、ソクラテスとかプラトンで一杯」
僕としてもクラスメイトを邪険に扱いたくはなかったが、しょうがない。それぐらい単位というのは重いのだ。
「ふっふっふ、じゃっじゃじゃーん、これ、何かわかるかなー?」
そんな僕の訴えなどなかったかのように、草薙さんは可愛らしく自分で効果音をつけながら、何かを取り出した。
「これ、先輩とか友達から貰ったの、あたしなりにまとめてみたんだけど……」
そこに現れたのは、哲学のノートっぽいものだった。見た感じ丁寧に、かつ色分けされてまとめられており、過去問対策っまで網羅されている。
「そ、それ!」
「だめー!」
ガッ! とほぼ無意識で突き出した右手は、草薙さんによって防がれた。行き場を失った僕の右手が虚しく宙にとどまり続ける。
「えーっと、あたしのお願い聞いてくれたら、見せてあげてもいいかなーなんて」
「なに、なに? 今ならなんか大抵のことにうんといいそうだよ、僕」
思えば、この時点で僕は正常な判断能力を失っていた。
完全な安請け合い。恋歌さんに相談もせずに依頼を受託。結果、僕の手に負えない内容だったために恋歌さんに泣きつくハメになってしまったのだった。