プロローグ
首筋が疼いた。
大学からの帰り道、何も考えず、ただただ無心で歩く。
ふと顔をあげると、前方に一人の女性が待ち構えていた。
いや、正確には待ち構えていたかなんて知りようもないけれど、直感的にそんな感想を抱いてしまった。
雑居ビルに囲まれたどこにでもある街道での出来事。なのに、どこか現実離れしたようにふわふわと身体が浮いていきそうになる。
「……ねぇ、君」
長く、綺麗に伸びた黒髪。その中からのぞく整った顔立ちが妖艶な空気を纏ってこちらを射ぬく。
それだけで僕は動けなくなっていた。首筋が汗ばみ、敏感になった感覚がジンジンと自己主張を始める。
「……ねぇ、ねぇ君」
本来なら高く澄んだ綺麗な声も、今となっては僕の耳を浸食する捕食者の囁きでしかなかった。なんとか動かせるのは指先だけで、懸命にぐーとぱーを繰り返す。
「……ちょうだい、ほしいの」
女性は近づき、成熟した大人の色香を放ちながら、僕の頬に手を当てた。
それだけで僕はビクつき痙攣して、彼女の瞳から視線を逸らせない。こんな世界は知りはしない、きっと彼女は僕が歩んできた19年の人生とは似ても似つかない世界の住人だ。
「……いた、だきます」
最初に感じたのは痛み。
そしてじわりと広がる甘い香り。
血と、女と、異世界感とでも言えばいいのか、どうしようもない違和感が僕の中へと広がり続ける。
彼女は、僕の首筋に顔を埋めたまま妖艶に笑っているようだった。
見なくてもわかる。
それぐらい今の僕は敏感で、過敏で、感覚的になっていた。
やがて彼女は満足し、首筋に宛てがっていた柔らかな唇を離すと、顔をあげ至近距離でこちらを見つめてくる。
それだけで、理由はいらない。
おそらく僕はすでに、この時点で、彼女に捕らえられていた。
まあ、簡単に……至極極端で俗物的で、なんの余韻もなく、一般的な解釈をするならば、きっと僕はこの時彼女に、恋をしたのだった。




