晴天(2)
「おぉ、ここか」
今ようやく、何かに気づいたように声を上げる。
「目的地だ。着いたぞ」
短い言葉がゆっくりと頭の中を回る。
つまり、このおじいさんに用があったのだと、光彰は理解した。
「じいさんにちょっと聞きたいことがあってな」
老人はゆっくりとその佇まいを直し、不躾な質問に応じた。
「お主に聞かれることなどない。さっさと行くがいい。だが、静かにな」
言葉に含められているのは、よそ者を拒絶する力であったろうか。
後ろにある、古い木造家屋というモノがその力をさらに強めているようにも思えた。
木の板を何枚も貼り付けた壁が、太陽の光を跳ね返している。
「昔の事を聞きたいだけなんだが・・・」
「ならん」
「金はない。見てのとおり何もしでかしはしない」
危険人物でないと言いたいのかもしれない。
「その出で立ちでよくいいおる。鏡でしかと自分を確かめてこい」
老人は静かに言った。
「川の水でならOKだ。いつもどおりの自分だったぜ」
「その金の髪ともどもか。身なりを偽っても何もいいことはないぞ」
言葉が行き交う中で、光彰は立ち尽くしていた。
彼は、ワタルが何を聞こうというのかは全く分かっていない。
「こりゃ地毛だ。何も偽っちゃあ、ない」
ただ、「昔」と言う言葉と、今の自分が無関係でないのだろう事は想像がついた。
「ならば、見たままがお主ということになる。不審人物なのは変わらんであろう」
ワタルが自分をここに連れてきたのは偶然だと言う。
「不審人物って、どの辺が不審なんだよ」
本当に偶然だったのかはわからない。
「通じない会話をこれ以上続けても無意味だ。立ち去りなさい」
でも、何もせず傍観者でいるわけにはいかない。
「お願いします」
だから、この一言ともに頭を下げた。他の言葉なんて思いつきもしなかった。
本来ならば、いつも控えめな少年らしからぬ言動である。
老人は、ゆっくりと少年を見、次に怪しい風体の男を見た。
「お願いします」
金髪の男も頭を下げた。らしからぬのはこの男もであろう。見慣れぬ髪がよく目立った。
場面は変わり、畳敷きのおそらくは応接間へと移る。
茶はない。老人の一人暮らしであるのか、生活感というものが薄く、静かであった。
二人と一人は正座をして向かい合っていた。
光彰の左にワタルは座っている。
「それで、何を知りたい?昔のことなど、ほとんど覚えてはおらぬぞ」
声は周囲にじわりと溶け込んでいった。家そのものの声を聞いているようでもあった。
「大戦時の話を。座敷にあげてもらってなんだが、確認がとりたいだけだ」
ワタルは普段の調子を崩さずに話す。
「戦争でこの町は焼かれた。違うか?」
聞きなれた言葉の奥に、聞きなれない響きがあった。
小学五年生にとって、いや、現代人にとって戦争とは、決して繰り返してはならず、しかし、実際に知ることができないモノである。
それでも、今も過去に触れようとする人は数多くいる。
「戦争か」
ゆっくりとした言葉だった。
「わしは兵隊として、外に行っておったからな。何が起きたのかは知らぬ。だが、帰ってみれば何もなかったのは、よう覚えておる」
焼け野原だったと言う。戦争が苛烈になるにつれて、本土への空襲も増えた。B29という戦略爆撃機が地を焼いた。軍施設だけでなく、爆弾は標的を選ばず、落とされた。戦争の惨禍とは言え、人間のやった事である。
「何もなかった。戦地に赴いて、この命の所在でさえ分からぬという状態であったのに、万に一つで国に帰れば、そこには何もなかったよ」
今にも増して、空気が重い。老人はこの空気を吸って今まで生きてきたのだと分かった。
「人は忘れっぽいでなぁ。この頭には、何も残ってはない。残っているとすれば、号令さえあれば、全てを忘れて飛び出す事ぐらいでなぁ」
号令と言った。軍というものは、個人というものを意識してはなりたたない。ただ、よい軍隊とは、号令一つで死地に赴くことである。そこに個人の良心の呵責など、入る余地はない。ひとたび、怒号が響き渡れば、後は人ではない人になる。
「引き金も何度も引いた。罪を重ねて、なお帰る場所があるなんて思う方がどうかしていたのかもしれんな」
老人は同じ事をずっと考えてきたのだろうか。
「それだけだ。戦争と言えば、それだけだ」
短く重い話だった。
沈黙したまま二人は、言葉の意味を考え続けていた。
やがて、口を開く。
「貴重な話、感謝します」
ワタルは言葉足らずな礼を述べた。
光彰は、何も言えずに来たときと同じく頭を下げた。何も知らないのは、何も変わっていない。
そして、場面は先程の場所に戻る。
晴天である。時間も幾許か過ぎ、少しずつ日も高くなってきた頃、光彰はずっと下を向いていた。
「泣くな。とは、言わぬ」
老人は少年を見て言う。
「今は幸せな時代だといえるのだろう。その中で流す涙なのだから、大切にするといい」
肩が震えている。必死に泣くまいと努めているのだろうか。
「だが、泣いて伏せってしまっては、目の前が見えぬであろう。泣き顔でもいい、顔を上げなさい」
まだ、俯いたままの少年に言葉を重ねる。
「しかと相手の顔を見ておかないと、次は見れぬかもしれないからな」
記憶を紐解けば、まだ古い頃のこの町がよみがえるのかもしれない。
「たまに思う。幽霊でもいいから、わしの目の前に現れてはくれんか、と」
老人が微かに笑った気がした。
「君が泣いてくれるだけで、私はここにいて良かったと思える」
頭の上に手が置かれた。暖かいのは陽射しのせいか。
「達者でな」
短く暖かい言葉であった。
老人は歩み去る。
光彰は顔をあげる。
見れば、老人の後ろ姿が玄関へと消えるところであった。
ガタガタと扉は閉まる。
そして、隣で立ち尽くしていた男が声をかけた。
「すまないな」
まだ、何かの余韻が残っているのだろうか。
「でも、会って聞いた事に間違いはない」
言葉数も少なく、歩き出す。
朝というのはこれほどまでに静かだったのか。
その静けさから、身を引くようにして光彰も歩き出した。
陽の光が暖かい。
書こうとしても、どう触れて良いやら分からなかったため、曖昧に短くなりました。足らぬものが多すぎると痛感しております。
次は暗めにはならない予定です。