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たった一夜の冒険譚

掲載日:2026/10/29

 夜空の下、知らない誰かの腕の中で、東の果てを眺めやる。

 そんな記憶。


 大きな岩山の麓に佇んでいるのは、遠く離れた私たちの都。その日はお祭りの日だったのでしょうか、岩肌に築かれたお城と城下町が、冷たい月明かりを跳ね除けるような、温かい光に包まれていたのを覚えています。


「あのお城は、光に入れてもらえないの?」


 私は、王城の隣、しばらく離れた山頂に佇む、大きな塔のような建物を指差して、なんでもない疑問を投げかけました。

 幻想的な光景に感動することもできたはずなのに、その時の私は、何かが引っかかって、首をかしげてしまったのです。


「あそこには、今は誰もいないんだよ」

「今はってことは、いつかは誰か帰ってくるの?」


 普通に考えれば、廃虚かなにかだと納得してしまえるところを、私は揚げ足取りみたいに続けてしまって。

 困ったような苦笑いが、後ろから聞こえました。


「いいや、そうはさせないさ」


 呟くように小さく、何か決意に満ちたような声と共に、私の頭を撫でてくれた、鉄の小手。

 あの、鎧姿の男性は、一体何者だったのでしょうか。


          ◆◇◆◇◆


「おい、いい加減にしろ!」


 青々とした緑の茂る草っぱら。てっぺんに、大きなリンゴの木のある丘。普段は静かな場所ですが、今日は珍しく騒がしいです。


 閉じていた目を開いて、丘のふもとを見下ろしてみると、こちらへ向けて、二人分の人影が向かってきていることがわかりました。

 逃げている方は赤い服の子供。追いかけているのは、鉄のケトルハットと厚手のコートを身につけている……ああ、あの人ですね。


 行く先は丁度、私の方みたいです。なにやら競争している様子ですし、もしかしたら、木陰に寝そべる私には気付いていないのでしょうか。


「ってうわ!? 居たのかよ、白髪《しらが》女」

「居て悪かったですね」


 赤い服の子供が驚いた様子でこちらを見ています。白髪女。正しい呼称ですね。私の髪は真っ白ですし、肌も雪みたいに白いですから。

 もっとも、私の姿を見て、あからさまに嫌な顔をされると、こちらとしてはいい気分ではないのですが。


 この子の名前は……なんでしたっけ。向こうは私を覚えているのに、こちらが覚えていないのは失礼かと思いましたが、人の顔を見てうわという方がよっぽど失礼ですから大丈夫でしょう。


「今日は大人しく帰るので、気にしないでください」

「えっ、ちょっと」

「捕まえたぞ!」


 男の子の脇に後ろから腕を通し、そう叫んだのは見慣れた人影。目が合って、こちらは呆れたような顔。流石に、彼の名前くらいは覚えています。同い年の幼馴染ですし、なにかと厄介になることが多いですからね。


「お疲れ様です、ルダン」

「アニー、お前もか……」

「その子と違って、私は逃げたりしませんよ、帰れと言うなら帰ります」


 私がそう言い放つと、ルダンはケトルハットの鍔を押さえながら、あからさまなため息をつきます。

 私たちの街を見守る衛兵さんは、今日も今日とてお疲れのようです。無駄に仕事を増やすのも、申し訳ないですし、私はここらでお暇しましょう。


「あっ、待てよ白髪女!」


 待ちません。眠気は飛んでしまいましたし、待つ理由がありません。私は、男の子とルダンに背を向けて歩き出します。

 ああそうだ、大事なことを伝え忘れていましたね。


「熟したリンゴは食べちゃったので、固いのしか残っていませんよ」


 私は、芯だけになったリンゴをつまみ、ゆらゆらと見せびらかします。


「くっそー、また先越された!」


 悔しそうな声を背中に浴びて、満足しながら家路に着こうとしたところでのことでした。


「アニー」

「ん」


 ふと名前を呼ばれて、私は立ち止まってしまいました。

 ルダンに呼び止められるのが、珍しかったからでしょうか。彼はいつも疲れてしますし、あまり饒舌な方ではないはずですが。


「お前は目立つだろう、街の外に出るのは危ないぞ」

「…………」


 そう。あなたも私の外見が気になるんですね。

 まあ、別に普通のことですが。答えてしまえば、今後気ままにやりづらくなってしまうので、私は無言で背を向けます。


 なんだか、良い気分がそがれてしまいました。

 今日はもう、帰りましょう。


          ◆◇◆◇◆


 天高くそびえる山岳の先、西の果てにある王国。

 その更に端の端、海岸沿いにあるのが、私たちの住む街です。


 大通りを外れれば、すぐに平原か、輝く水平線が見えるくらいには田舎の街。漁港の方は賑やかなものですが、私の家のある、街のはずれは静かなものでした。


「ただいまー」


 レンガ造りの壁と屋根。その中心にある、ドアの取っ手に手を添えて、無意識で帰りのあいさつをしながら、中に入ります。


「おかえり、アニー。早かったわね」


 動きに合わせてゆらゆら揺れる、白くて長い、奇麗な髪。

 玄関を抜けて作業部屋を覗くと、お母さんは部屋の中心にある大釜をかき混ぜながら出迎えてくれました。

 肌の色まで含めて、私に受け継がれたものではありますが、改めて見てみると、やっぱり街のみんなとは違います。


「どうしたの?」

「ううん、なんでも」


 顔に出てましたか。

 問い詰められても困りますし、ごまかすべきでしょう。


「また街の子に何か言われたの」

「違うよ、大丈夫。お母さんも疲れてるだろうし、なんでもないの」


 私は無理やり部屋へ向かおうとしましたが、次の瞬間には、両肩に手を添えられていました。

 慣れた手つきで反転させられ、お母さんの顔が目の前に迫ります。


「アニー。無理にとは言わないけど、不安なことがあったら何でも言って。お母さん、どんなに疲れてても、力になれるから」

「……わかった」


 優しい声。きっと疲れているお母さんにここまで言わせておいてなんですが、別にそこまで大した悩みでもないので、少し気まずいです。

 でも、別に大したことじゃないなら、言ってしまってもいいような気がしてきました。


「今日、年下の子に白髪女って言われて、確かにみんなとは違うなって思っただけ」

「あー、なるほど。それは確かにそうねぇ……」


 お母さんは考え込むように、顎に手を当てて目を閉じていますが、本当に大したことではないのです。別に、私はみんなと同じになりたいとは思いませんし、どちらかと言えば一人でいるのが好きですし。


「ああ、でもお母さんが知ってる限り、アニーのその髪。結構人気らしいわよ?」

「そ、そうなの?」

「うん、サラサラで雪みたいで奇麗って、女の子はもちろん、男の子からも!」

「ええ……」


 そういえば、お母さんは顔が広いんでしたっけ。街の集会みたいなものにも、律儀に毎回行っていますし、こないだなんてちょっとしたお祭りを取り仕切る、役員みたいなのにもなっていたような気がします。


「アニーは口調が丁寧だから、それにコロッときちゃう子もいるって話よ? こないだなんて、いつもの赤い服着てる男の子が……」

「あー聞きたくない聞きたくない」


 それ以上聞くと、外に出たくなくなります。私の口調が丁寧なのは、他人と距離を置きたいからです。私は一人が好きなんです。一人で原っぱに寝転がって、昼寝してるのが好きなんです。


「まあ、そこまで首を突っ込んだら野暮だけど、いつかいい人見つかると良いわね」

「十四歳に何言ってるの」


 私はまだ十四歳。成人まであと四年もあります。相手を見つけるのなんて、それからでも遅くないでしょうに。


「成人になってから相手を探すと苦労するらしいわよー」

「そうなの?」

「うん!」


 あっしまった、思考を読まれた。考えていたことの答えをぶら下げられて、ついつい答えてしまった。こうなると、お母さんの話は長そうです。


「お母さんなんて、お父さんに見つけてもらうまで二十年もかかったんだから」

「……お父さん」


 何気なく飛び出した語句に詰まってふと、思い出します。

 そういえば、お父さん、十五の誕生日までには帰ってくるって話だったけど、今どこで何してるのかな。


「あっ……えっとね、お父さんはね」

「えっ? ああいや、大丈夫。気にしてないから」


 ああ、また思ったことが口に出てしまったみたいです。お母さんは見るからに焦って、目を泳がせています。


「そ、そう?」

「うん。じゃあ私、部屋に戻ってるから」


 大丈夫。私は何も聞いてません。聞いてないんです。

 だから、お父さんはそのうち帰ってくるし、お母さんはそれを待ってるだけなんです。

 お父さんが、しばらく姿を見せないのには……きっと理由があるんです。


 自分にそう言い聞かせて、私は足早に、自分の部屋へ戻りました。


          ◆◇◆◇◆


 七日後に、十五歳の誕生日を控えて。私は今、夜の草原にいます。


 家出ではありません。

 ただ、お母さんが寝ている間に外に出て、たまにこうして寝転がって、夜の空を眺めているだけ。

 その空の下にある草原と、東に見える山脈を、眺めているだけなのです。


 現状に不満があるわけではありません。

 ただ、最近特に、お母さんは私のために頑張りすぎているような気がするのです。薬師の仕事で、漁村を歩き回っているのはもちろん、家にいる時も、ほとんど作業部屋にこもりっぱなしです。

 まるで何か、焦っているみたいに。


「お父さん、帰ってこないのかな」


 夜空の果てを眺めながら、私は呟いてしまいます。

 お父さんが私の、十五歳の誕生日には帰ってくるという話は、お母さんから聞いたものです。私は、お父さんの顔を見たこともありません。

 私が生まれた時にはすでに、どこかに行ってしまっていたのか。私が物心つく前に、どこかに行ってしまったのか。

 それさえも私は、わからないのです。


「お母さんは、頑張りすぎだよ」


 私は一度身を起こして、髪を指で整えながら、姿勢を変えます。

 私が仕事の手伝いをすると言っても、何故かお母さんは許してくれません。

 そりゃあ、ご飯くらいなら手伝えもします。

 実際、朝ごはんと夕ご飯は、お母さんと一緒に作っていますし、昼ご飯はそもそも自分で済ませていますから。


 それでも、お母さんは昼ご飯を取る時間がないほど、働き詰めの生活を送っています。忙しくしているときは、作業部屋に入らないでとも言われていますし、なにをそんなに苦労して作っているのか、教えてもくれません。


「私、なんか寂しいよ」


 頭を片腕で抱えるようにして、横を向きながら、私は、ぼやきます。

 ただ元気に暮らしているだけでいい。そんなお母さんの気持ちを、否定するつもりはありません。私は、一人が好きなのも本当ですし、この白い髪を、恨めしく思ったこともありません。


 でも、そんな風に思えているのは。この白い髪を誇りに思えているのは、ほかでもない、お母さんのおかげです。お母さんが私のそばに居てくれているから、私も楽しく生きられているだけなのです。


「居なくなったり、しないよね」


 どうせ、いなくなるまでは分からないので、考える意味がないとも思います。お母さんと離れることになったら、その時考えればいいとも思います。

 それでもやっぱり不安はありますし、今の、他に誰も頼れる人がいない状態は、怖くて、とても寂しいです。

 そして、私を支えてくれているお母さんを、支えてくれている人がいないというのは、もっともっと、寂しいです。


「お父さん、帰ってこないかな……」


 さっきと同じようで、少しだけ違うぼやき。

 頭の後ろに両手を回して、少しだけ身を反りながら、リンゴの木の葉を眺めます。

 お父さんが帰ってくれば、今のこの気持ちも、全て無くしてしまえるでしょうか? 答えはわかりません。


 確かなことは、この、ひんやりと冷たくて、海を望むことのできる草原の、小高い丘のリンゴの木の下に、私がいるということ。もし、一人になったら、こんな風に冷たい日々が待っているのでしょうか?


「……くしゅん!」


 寒い。身体を駆け巡った寒気にくしゃみをして、目を強く閉じて、開いて、私は反射的に身を起こします。


 そうして、鼻をこすりながら、遠くの方に……

 丘から見える東の山脈のてっぺんに、一際高くそびえた岩山へと、目の焦点を合わせた――その時でした。


「えっ?」


 岩山の頂点からほのかな妖しい光が現れ、夜空へ向けて飛び出します。


 視界に入ったその光景が、私の目に焼き付いて。


 私は、その、妖しい光を目で追いました。


 ずっとずっと、目で追っているとこちら側の空へ向けて、大きな光が迫ってきていることがわかりました。


 そして、夜空を飛ぶ大きな光から、いくつもの光の球が分離して、地上へ向けて、降ってきていることにも気付きました。

 無数の光は、ゆらゆらと揺れながらゆっくりと降り注いで、丘から見下ろせる港町、故郷の方へ、落ちようとしているような気がしました。


「……っ! 帰ろう」


 幻想的な光景に、感動することもできたのだと思います。不安のなかに現れた、常軌を逸した奇跡に、思いをはせることもできたのだと思います。ですが、それ以上に、どうしようもなく、私の頭を埋め尽くしたのは。


「お母さん……!」


 お母さんに、何かあるかもしれないという、強い焦燥感だったのです。


          ◆◇◆◇◆


 街の皆々がことごとく空を見上げていました。

 もう深夜だと言うのに、ほとんどの家が明かりを付けて、ある人はランタンを持ち出して、ある人は窓から身を乗り出して、空から降り注ぐ、無数の光の球を待ち構えていました。


「お母さん!」


 私は、そんな人混みの中にお母さんの姿を見つけました。お母さんは街の中を走り回って、自慢の白い髪を左右に振りながら辺りを見回していたからすぐにわかりました。


「アニー!」


 私の名前を呼ぶ声で、私たちは互いに駆け寄ります。

 私が胸に飛び込むと、お母さんは酷く安堵した様子で、私の背中を抱きしめ返してくれました。


「……お母さん?」


 同時に私は、お母さんから尋常ではない焦りのようなものを感じ取りました。私を抱きしめるお母さんの胸の鼓動は、長時間全力で走り回った後の様に、早鐘を打ち続けていたのです。


「アニー、家に戻るわよ。急いで」

「う、うん」


 どうしてそんなに焦っているのか、尋ねる前に、私はお母さんに手を引かれて、言う通りにしました。

 とりあえず、お母さんは無事でしたが、相変わらず落ち着かない気持ちは変わりません。一体、何が起こっているのでしょうか?


 私たちは道を抜けて、立ち尽くす人々の間を抜けて、街外れへと走ります。

 少しすれば、見慣れた道に出ることができました。道の先には、レンガ造りの、私とお母さんの家があります。


「中に入って。早く」

「わかった」


 質問する隙は無いようなので、今は何も考えず、言う通りにします。


「アニー、お母さんはちょっと物を取ってくるから、ここに居てくれる? 決して窓はのぞき込まないで、ここで待ってて。わかった?」

「え……うん……」


 家についても相変わらず、お母さんは焦っている様子です。それも酷く、今まで見たことが無いほど。

 一度は落ち着いた私の心も、再びざわめいて来てしまいました。何か知っているなら教えてほしいという気持ちと、お母さんの邪魔をしてはいけないという気持ちが入り混じって、結局私は、作業部屋に入っていくお母さんの背中を、見送ることしかできませんでした。


「何が起こってるんだろ……」


 作業部屋の扉が閉まって、私は廊下に立ち尽くします。ここで待っていてとは言われましたが、そのうち足が疲れてきました。流石に、椅子に座るくらいは、してもいいですよね?

 私は居間のほうに向かって、テーブル横の椅子に腰かけます。


 この位置からは丁度、窓が見えます。カーテンは閉まっていないので、見ようと思えば外も見られます。お母さんには窓を覗き込まないでとは言われましたが、近くで見るのでなければ、いいのでしょうか?


 でも、約束の穴を付くようなことをするのも、何だか悪い気がしたので、私はしばらく、テーブルの前に座っていようと……

 思ったところのことでした。


「きゃあああ!!」


 突然の、甲高い悲鳴に、私は肩を跳ねさせます。

 外から聞こえました。それも、窓の付いている、通りの方向から。

 私はその一瞬で反射的に、窓の方を向きました。

 お母さんとの約束を忘れて、窓の外を見てしまいました。


「ガルルルル……」


 窓のすぐ向こう側には、青白く光る、狼の顔が張り付いていました。


「えっ、えっ!?」


 こちらへ向けてうめき声を鳴らす、謎の狼に驚いて、私は椅子から転げ落ちそうになります。なんとか、背もたれ側から倒れてしまいそうになるのをこらえて、私は床に座り込みます。そうして、尻餅を付いて後ずさり窓際の狼から距離を取ろうとします。


 その時でした。


 窓際の狼が、窓をすり抜けてしまいました。半透明でほのかに光る鼻が、目が、頭が、窓の縁を抜けて、そのまま、身体がするりと室内に入ってきてしまいます。


「ひっ……!」


 悲鳴をあげようとしても、息が詰まって声が出せなくなってしまいました。

 喉から響く、か細い呼吸音を聞いて、心拍が上がっていくのを感じます。

 その間にも、狼は私のことを青白く光る瞳で見据えながらのそりのそりと近づいてきます。


 狼に迫られて、私の背中は壁に付いてしまって、ついに後ずさりさえもできなくなってしまいました。廊下の方へ抜けるには、狼の方へ進む必要があって、そうしようとしても足が動きません。


 一体この、不気味な獣はなんなのでしょうか?

 どうして、壁を抜けてきたのでしょうか?

 どうして、こちらを見据えてにじり寄ってくるのでしょうか?


「アニー!」


 叫び声。目の前に光る何かが飛んできて。

 姿勢低く、こちらを見つめていた狼が、背後の壁に飛びのきます。

 直後、陶器のような何かが割れる音。

 目の前に光が……炎が広がっていきます。

 炎は、床の板材を焼きながら、こちらへ向けて迫ってきます。


「こっちへ!」


 張られた声と共に、視界が浮きます。

 脇腹に手をまわされて、後ろに強く引かれます。


「あっ」


 丁度部屋から引きずり出された瞬間。

 先ほどまで、私がいた場所に、炎が広がっていきます。

 炎は壁や天井を焼きながら、部屋中に広がっていきました。


「消さないと、家が」

「ダメ! 早く外に出るわよ!」


 頭上から響いた怒声。つられて見上げたところでやっと、先ほどから聞こえていた声が、お母さんの声だったのだと気付きました。

 お母さんは、先ほどから打って変わって、物々しい格好をしていました。

 胴には厚手のギャンベゾン、左手には松明。自慢の白い長髪は、革製のコイフの中に隠れてしまっています。


「お母さん?」

「アニー、よく聞いて」

「う、うん」


 革手袋のはまった右腕で、私の肩を押さえてこちらを覗き込むお母さん。

 ざわめき続ける心の中も、お母さんの声を聞けば少しだけ落ち着けましたが、結局何が起こっているのか、全くもってわかりません。


「さっきの狼ね、悪霊なの」

「悪霊って……お化け?」

「そうよ。それもただのお化けじゃない。触れた生き物の魂を奪ってしまう、悪い幽霊」


 耳に入った言葉を、そのまま飲み込めはしませんが、この状況で、冗談を言われているとも思えません。だったら、一度無理やりにでも、信じてしまった方がいいのでしょうか。


「悪霊には炎が効くわ。それから……」


 お母さんは首元に右手を突っ込んで、首飾りのような何かを頭の上から外しました。銀の紐の先に、オレンジ色の小瓶のようなものが付いたそれを、軽く握って私に差し出します。


「この首飾りの近くに居れば、悪霊からは見えなくなる」

「えっ、だったらお母さんが」

「ダメよ。私はやらなきゃいけないことがあるの。これはアニーが持っていて」

「わ、わかった」


 簡潔な説明を頭に入れて、どうにか理解しようと試みます。ひとまず、このペンダントがあれば悪霊には襲われないと、そういうことでしょうか。でもだからって、私一人でどうすれば……


「街外れの平原、りんごの木のある丘のてっぺん。そこで待っていて」


 ……どうやら、お母さんはそこに後から来てくれるようです。ここは危ないから先に避難しておいてと、そういうことなのでしょう。


「わかった」

「いい子ね。じゃあ、走って!」


 お母さんの激励で、私は街の外へ向けて走り出します。人々の悲鳴や、足音、獣の唸り声の響く中、私は走ります。


「お母さん、大丈夫だよね」


 振り向かず……と言いたいところでしたが、一度だけ振り返ってしまいました。遠くに映った後ろ姿。お母さんは襲われようとしている町の人に、松明を預けたり、自分で振り回したりして、青白く光る獣たちを追い払っていました。

 率先して街の人に呼びかける、その横顔は随分頼もしく見えました。


「……行こう」


 私は松明をもっていませんし、悪霊たちになにかできるわけでもありません。だったら今は、避難するべきです。避難して、お母さんの到着を待つべきなのです。


 私一人じゃ、きっと何もできないんですから。


          ◆◇◆◇◆


 人と人との間を縫って、光る獣を見ないようにして、暗闇の中を進み続けて、息を切らせて。もう走れないとなったところで、それが見えました。


 てっぺんに、一本の木の生えている、小高い丘。お母さんとの約束の場所。リンゴの木のある丘のふもとに、たどり着いたのです。


「こんなところで何してる」

「ひっ……」


 突然、横から声をかけられて、足をもつれされてしまいました。

 疲労の貯まった足腰では、体制を整えることは叶わず、地べたに尻餅をついてしまいます。


「なんだ、アニーかよ」


 意外にも気さくに話しかけてくる、その人影には見覚えがありました。

 左手に松明、右手には抜き身の剣、厚手のロングコートに、何より目立つケトルハット。


「ルダン……どうしてここに」


 こんな時間に、街の外で会うなんて。彼もまた、街から逃げて来たのでしょうか?


「どうしてってそりゃ、見回りだよ」

「見回り?」

「夜の見回り。時間になったから帰ってきただけだ」


 ランタンの光で照らされる、当然といった様子の表情。

 実際のところ、彼にとっては今夜も、何の変哲もない日常の一部に過ぎないのかもしれません。

 つまり、彼は街で何が起こっているのかわかっていないのでしょう。

 彼はあの街中に青白い獣が蔓延っている、異様の風景を知らないのです。


「しかしお前、ほんと懲りないのな」

「いいえ、今日は違います。私は街から逃げてきただけです」


 今日は、いつものように街を抜け出したわけではありません。

 ちゃんとした理由があって、お母さんに言われてここにいるのです。


「いいから、もう帰るぞ。流石に夜は危ない」


 ルダンは右手の剣を鞘に戻し、私に向けて手を差し出してきます。

 この手を握れば、私は街に戻ることになってしまいます。

 お母さんとの約束を破ることになってしまいます。


「……その、ルダン」


 信じてもらえないと思いつつも、説明するべきか悩んでしまいます。

 正直、彼は私を、あまり信用してくれていないように思えます。

 別に彼に限った話ではありませんが、私は、誰とも関わってこなかったから、悪霊が出たとか、約束で逃げてきたとか、あれこれ説明したところで、どうせ無駄かもしれません。


 どうせ、そうなのだったら。

 そう思って、私は真っ直ぐに、彼の姿を見据えます。

 ほのかな光を放つ、松明の炎を見据えます。


「予備の松明、持ってませんか?」


 ごめん、お母さん。私も、やっぱり心配だから。

 約束、破ることになっちゃうけど、一度だけ、街に戻らせて。


          ◆◇◆◇◆


 月明かりが照らす町の中。不気味なほどの明るさと、静けさを割く夜風の音が、光景の異様さを引き立てています。


「なんだよ……これ」


 喉の奥から漏れ出たようなルダンの呟きを耳に入れて、ああ、やっぱりお母さんは正しかったのだと理解できました。

 開きっぱなしのドアの横や、石畳の路上、民家の間の土の上。とにかく、街中いたるところに、寝間着姿の人影が転がっていたのです。


「しっかりしろ、おい」


 ルダンは人影を一つ一つ揺り動かしては、声をかけていますが、ことごとく返事はありません。

 脈を図ったり、呼吸を見たり。いろいろなことを試みては、困惑の表情を浮かべ続けていますが、事態を飲み込めてはいない様子です。


 私だって、全てを理解できているわけではありません。だけど、今やるべきことはわかっています。


「ルダン。私、お母さん探してきます」


 私は右手の松明を握り、決意を固めます。お母さんの服装は、覚えています。いつもとは違った格好ですが、だからこそ見つけやすいはず。


「待てよ、一人だと危ないぞ」

「それは、そうですが」


 でも、ルダンに今から説明していたら、手遅れになってしまうかもしれません。もし、この事態が悪霊の仕業で、お母さんが今も奴らと戦っているかもしれないなら、私は今すぐに駆け付けたいのです。


「俺も一緒に行く。案内してくれ」

「…………」


 でも、それなら、確かに心強いです。もし、協力してくれるなら、単純に危険も少ないですし、ルダンだって、松明はもっていますから。


「ガルルルル」


 私がそう考え込んだ瞬間、泳がせた視界に、青白い何かが映りました。


 青白い何かは小さく唸り声を上げて、民家の陰がら姿を現しました。

 それは、位置にして、ルダンの背後、数歩ほどの距離に佇む、青白い狼のような獣でした。


「後ろ!」


 次の瞬間、私は言葉を間違えたことを悟りました。


 私の警告を聞いたルダンは、松明をその場に落としながら、腰の鞘に手をかけてしまいました。

 彼が、素早く右手で抜剣すると同時に、狼が彼に飛びかかりました。

 彼が、狼の首筋目掛けて振りぬいた剣は、その青白い体毛を、通り抜けてしまいました。


 ルダンが、目を見開いたのがわかりました。


「ぐおおっ!」


 間一髪のところで、彼は横向きに転がって狼の突撃を避けます。ガキンと剣が石畳を打つ音。

 彼は、右手に握った剣を取り落としてしまったのです。


「なんだ? 右手が」


 彼はすぐさま膝立ちになって、左手で右腕を握ります。その手首は力なくだらんと垂れ下がり、指と指の間は開いていました。

 そして、ルダンとすれ違った狼は、既にもう一度、彼の方へ向き直っていました。


「ルダン!」


 無意識のうちに、私の身体はルダンへ向かって進んでいました。

 右手に持った松明を狼へ向け投げつけて、私は身体を飛び込ませます。

 狼が大袈裟に飛びのいて、ルダンから視界を外したのがわかりました。


「なにを」

「いいから!」


 私はルダンの右手を握り、彼の身体を持ち上げます。

 彼のコートをぎゅっと抱きしめて、胸を突き出して密着させます。

 厚手のコートは思ったよりも固く、少しだけひんやりとしましたが、気にすることではありません。問題は、後ろの狼の方です。


「おい……」

「喋らないで」


 私は小声で、ルダンの発言を遮ります。

 飛びのいた狼が、一瞬こちらを見て。訝しげな表情を浮かべたのがわかりました。それから、私が投げつけた松明と、ルダンが落とした松明を交互に見て、首をかしげるようにしています。


 私たちがしばらく息をひそめていると、狼は辺りを一通り見回し終えた狼は、私たちのいる場所から離れていきました。

 私は、素直に息をひそめてくれたルダンに心の中で感謝しながら、彼から離れて胸をなでおろします。


「どういうことだ?」

「お母さんがくれた首飾りのおかげ。でも詳しいことは分からない」

「そ、そうなのか」


 ひとまず首飾りの効力は本当であるらしいということと、やつらに普通の武器は効かないということは確かめられたわけですが。私だって、今起こっている事態を完全に把握できているわけではありません。


「わかってるのは、突然、街にさっきみたいな悪霊が現れて、私たちを襲い始めたってこと」

「そんな……何で言ってくれなかったんだ」

「信じてくれないと思ったから」


 私なら、街が危険な状態にあるなんて言われても、帰りたくないから嘘を付いているのだと思ってしまいます。

 だったら説明するだけ無駄だと思うのは、普通のことではないでしょうか。


「信じるさ、幼馴染だろ」

「……そう」


 幼馴染だからって、それが理由になるのでしょうか。

 別に、毎日顔を合わせているわけでもないのに。

 私にはわかりませんが、ひとまず、それはいいのです。


「それより右手、大丈夫?」

「そうだ、ちょっと変なんだ。肘から下が動かないっていうか、感覚がないっていうか」


 そう言うルダンは相変わらず、右腕をだらりと垂れ下げています。

 肩は平気なようですが、言う通り、身体に異常をきたしているようです。


「ひょっとして、さっきの悪霊の仕業?」

「まさか……って言いたいところだけど、そうかもしれない」


 彼は悔しげに口角を歪めつつ、その右腕を揺らしています。

 先ほどの悪霊がルダンの右腕をかすめたから、その部分が動かなくなったと、そういうことなのでしょうか。

 流石に確かめようがありませんが、もしそうだとするなら……彼に無理はさせられません。


「できるだけ私から離れないで。それから、やつらには炎が効くらしいから、次、もし襲われそうになったら松明を使って」

「わかった。悪いな」

「いい。私一人じゃ、何もできないから」


 私は足元の松明を拾って、ルダンの左手に手渡します。

 私一人でできることなんて限られていますから、人数が多いに越したことはありません。

 少なくともお母さんと合流するまでは、彼に一緒にいてもらったほうが良いはずです。


「なあ、アニー」

「なに」


 私が少し離れた場所にある、自分の分の松明を拾っていると、ルダンが口元に微笑を浮かべていました。

 なんでしょう、この状況で面白いことがあるのでしょうか。


「いや、いつもより親しみやすい口調のままでいいのかと思ってな」

「口調? ……あ」


 言われて気付きます。他人を相手にしているというのに、いつの間にか、敬語が崩れてしまっていました。


「ありがとうございます。うっかりしていました」

「言わなきゃよかったな」

「行きましょう。お母さんを探さないと」


 からかうような彼の言葉には、反応してやりません。

 あくまで彼と私は他人同士。必要以上のコミュニケーションをとるより、お母さんを見つける方が先決です。


          ◆◇◆◇◆


 できる限り離れないように、動かなくなった彼の右手を握りながら、お母さんの家へ向かいます。


 首飾りの効果は、手をつなぐだけでも発揮されるようで、道中、鉢合わせた悪霊が、私やルダンに気付くことはありませんでした。


 どうにも不思議なのは、私たちが松明を持っていても、奴らがこちらに気付かなかったこと。

 光の加減で分かりそうなものですが、目で見ているわけではないのでしょうか。


 なんにせよ暗い道を明かり無しで歩かなくていい分、こちらに良いことしかないので、一旦は気にしないことにします。


 そして、予想通りではありますが、家にお母さんはいませんでした。

 かつて私の家のあった場所には、残り火だけありました。


 他の民家と間隔を取れていたおかげか、付近に燃え広がっていたり、誰かが火災に巻き込まれた様子は無かったのが幸いですが、もはや、ここにお母さんの面影を求めるだけむだだということは、嫌でもわかってしまいました。


 そんな光景の近くにも、道中にも。

 街の中いたるところには、意識の無い多数の人影が横たわっています。


「ひどいな……まだ息はあるみたいだけど」

「まるで抜け殻ですね」

「もし戻す方法がなかったら、このまま衰弱死まっしぐらだ」


 ……不穏なことを聞いてしまいました。

 もし、彼の右腕のように、悪霊に触れられた箇所が動かせなくなってしまうのなら、有り得ない話ではないのかもしれませんが。


 ともあれ今は最悪の想像をするよりも、まだ無事な人を見つけるべきでしょう。


「止まれ」

「え、はい」


 隣から来た突然の静止。見ると、ルダンはその場で目を瞑って、黙り込んでいます。耳を済ませているのでしょうか?

 私には何も聞こえませんが、声をかければ邪魔になるでしょう。


「声が聞こえる。広場の方だ」

「声……どんな声ですか」

「怒声。というか、勇ましい声だな。戦ってるのか?」


 何と戦っていそうかなんて、尋ねる必要はないでしょう。

 奴らは露骨に松明を嫌がっていますから、それに気づいた人々が、まだ抵抗を試みていてもおかしくありません。


 いえ、あるいはそこが、私の目的地である可能性もあります。


「お母さんかもしれないです」

「合流しよう。助けないと」


 私たちは意思を同じくして、広場の方へ走ります。

 付近の建物が、民家から商店、屋台などに移り変わっていくにつれ、私にもその音が聞こえるようになってきました。


「あと少しよ、奴らはもう少ないわ!」


 そして、その声は確かに聞き覚えがあるものでした。

 いつもの優しい口調とは打って変わって、迫力のこめられた指揮の声。

 いつもとは違っても、私を一番安心させてくれる声が、遠くに見えた数人の人影の中から、聞こえました。


「お母さん!」

「っ、おい!」


 私はルダンの右腕を引き、広場へ向けて飛び出します。

 本当は、離してでも近付きたいけれど、そうすればどうなるかってことくらい、わかっています。

 だからあくまで、声を伝えるだけ、私がここにいることを、お母さんに伝えたいだけなのです。


「アニー……?」


 厚手のギャンベゾンに、革製のコイフ。

 私の声で振り返ったその顔は、確かにお母さんに違いありません。

 右手には松明、左手は無手で、二頭の青白い狼を相手取っていたのです。


 にもかかわらず、私はお母さんの気を引いてしまったのです。

 そして当然のように、狼は一瞬の隙を突こうとしていました。


「危ない!」


 私が叫ぶより前に、お母さんは上半身を引き、その動きだけで、狼の飛びかかりを避けていました。


 それだけではありません。狼の姿を横目で捉えたかと思うと、右手を突き出して進路上に松明を置き、やつを炎の中へ飛び込ませたのです。

 松明に触れた狼は音程の外れた悲鳴を上げながら、炎に包まれて消えてしまいました。


「次で最後よ!」


 お母さんが号令をかけたところで、残りの人影が最後の悪霊に詰め寄りました。あるものは振りかざし、あるものは投げつけ、人数分の松明に襲われた狼は、嘆くように声を上げて消え去りました。


「やったぞ!」


 狼を仕留めた男性の声を合図に、歓声が上がります。

 十数人ほどの人々は互いに抱き合い、勝利を喜んでいる様子でした。

 ですが、一人だけは違いました。


 お母さんは、神妙な面持ちでつかつかとこちらへ向けて歩いてきました。


「アニー、なんでここにいるの」

「それは……えっと」

「気持ちはわかるけど、本当に危ないのよ」

「……ごめん」


 よくよく考えてみれば本当に、余計なことをしたと思います。

 先ほどだって、私が声をかけたせいで危うく、お母さんが攻撃を受けてしまうところでした。


 どうせ何も出来ないのなら、戻ってきても同じなのに。


「……でも、無事でよかった」


 俯いて、気持ちが落ち込みそうになったところで、背中に腕を回される感覚。

 見上げてみれば、お母さんが私を抱きしめてくれていました。

 私は、何か言おうとしてみましたが、結局なにも出てこずに、口を噤んでしまいました。


「えっと、アニーのお母さん」

「ルダンくんね」

「はい。今、何が起こっているのか、詳しく聞いても?」


 ああ、そうでした。私たちには結局のところ、情報が足りません。

 この状況で、推測や、実際に見たものを除いて有益と言えそうな情報は、お母さんの言葉だけでしょう。

 少ないとも、最初から火が有効であることを知っていた時点で、お母さんは何かを知っているはずなのです。


「そうね、とはいえいつ襲われるともわからないから……まずは開けた見通しのいい場所で」

「おい、なんだあれは?」


 そうやって、お母さんが私たちの手を引いてくれようとした瞬間、広場の方から声が聞こえました。


 見てみれば広場に残る人々は、ことごとく空を見上げていました。


 つられて見やった空の彼方には、青白く光る流星のような何かが見えました。


 迫るにつれて徐々に、徐々に大きさを増していくその光は、今まさに、この広場の直上へ、迫ってきていました。


「伏せて!」


 お母さんの警告も虚しく、ほとんどの人のは逃げ遅れたまま、流星は広場の中心に落ちました。


 青白い光が爆発するようにはじけて、目の前が真っ白になりました。


「あ……」


 少しして、戻った視界に映ったのは、先ほどと変わらぬ地形の広場。

 しかしながら、先ほどまで立って、声も発していた人々が倒れ伏している、無残な光景でした。


「ふむ、思ったよりも多いな」


 そして流星の着弾地点、広場の中心には、新たな人影がありました。


 それは、まるで王族のように荘厳なマントと、青い宝石と銀細工のあしらわれた、装飾過多な王冠を身につけ、その手の添えられた顎先に、白く長い髭を蓄えたなにか。


 もはや、人影と言っていいのかも分からないほど巨大で、不気味に青白い光を放つそれは、明らかな異物感を放ちながらも、人の言葉を発していました。


「お前が親玉か!」


 なんとか、間一髪のところで直撃を免れた人々は、謎の人物へ向けて勇む声を上げます。


「ダメ! そいつに松明は」


 狼たちの襲撃を乗り越えた人々の中に、怖気づく者はいなかったのです。

 お母さんの警告も虚しく、皆々が松明を掲げて、あるものは投げつけながら、王冠を被ったそれに挑みかかりました。


「煩い」


 その人物はマントの中に右手を添え、勢い良く何かを抜き出したかと思うと、挑む人々に振りかざしました。


 それは、丁度彼の背丈ほどある、抜き身の直剣のように見える何かで、遠目からでもわかるほどに、圧倒的な長さがありました。


 まず、投げつけられた松明が剣に触れて消えました。炎を失ったただの棒は、彼の身体を通り抜けて地面に落ちました。


「一《いち》」


 次に、松明を振り上げた男性が、三歩先から剣の餌食になりました。

 剣に体を通り抜けられた男性は、勢いそのままに膝から崩れ落ちました。


「二」


 王冠の人物はそのまま一歩踏み出して、まだ四歩分は離れていた女性を切り伏せます。


「三、四匹」


 まるでリズムでも取るように、引き下がろうとした二人組が切り伏せられます。まるで魂が抜けたように、皆々が地面に倒れ伏します。


「五匹」


 最後に、先ほど松明を投げつけた男性が、餌食になりました。

 踏み込みを加えた突きを食らって、男性はのけぞりながら倒れ伏しました。


「二人とも、火を消して」


 唖然としていた私の耳に、お母さんの声が響きます。

 ちょうど、ルダンが鉄のカップをかぶせて、松明を消したところでした。

 消火の音は、ほとんど響いてはいません。


 お願い、どうか気付かないで。

 そう願いつつも、心の中には、きっと思い通りにはならないだろうという、確信めいた不安が渦巻いています。


「どうやら、ネズミはもう一匹、残っているようだ」


 その声で、お母さんが息を飲んだのがわかりました。


 両手で強く口元を塞いで、声をあげたい気持ちを抑えて、とにかく息を殺します。今うっかりしゃべったら、全員の位置がバレてしまう。

 もしあいつが、悪霊と同じ何かなら、首飾りのおかげで、私たちの姿は見えていないはず。


 でも、お母さんの方を向いた瞬間、気がついてしまいました。

 お母さんの顔に脂汗が浮かんでいることに。

 謎の人影が、こちらをみてしまっていることに。

 物凄く、嫌な予感がしました。


 瞬間、お母さんの目が、決意に満ちた色に変わりました。

 こちらにむけて、一瞬だけ笑みを浮かべたお母さんの手を、私は掴むことができませんでした。


「旧知の仲だって言うのに、随分なご挨拶ね」


 そして、お母さんは歩を進め、私たちから離れてしまいました。


「たわけ。貴様ごときに思い入れなどないわ」


 お母さんは、私の記憶にない人物を呼んで、まるで古い知り合いのように会話を始めました。

 おそらく、私たちの方から、視線を外そうとしてくれているのでしょう。

 お母さんは相手に向かい合いつつも、少しだけ脇に逸れながら歩いていました。


「だが、その潔さは認めてやろう」


 嫌な予感はますます大きくなって、汗が頬を伝ったのがわかりました。

 私はゆっくりと息を吸い、気持ちを落ち着けます。

 大丈夫、きっと、お母さんは大丈夫。大丈夫だから。


 そう思いたいのに、見開いた目に、私の目に。

 あってはならない光景が、はっきりと映ってしまいました。


「その魂、頂くぞ」


 近くへ寄ったお母さんへ向けて、霊王が剣を振りかざしたのです。

 叫び声を上げそうになったところで、後ろから口を押さえられます。

 横目で見ると、ルダンが私を睨んでいました。

 訴えかけるような目を向けながら、私の口を押さえていました。


 それでも、その瞬間がすぐに訪れることはありませんでした。


「ここから東の、山の頂」


 お母さんの言葉で悪霊の動きが、剣が、傍でピタリと止まりました。

 言葉一つでどうして?

 そう思い、悪霊の方を見ると、彼は眉をひそめていました。

 今のが、彼にとって、何か都合の悪い言葉だったのでしょうか?


「何のつもりか知らんが」

「王城から続く橋を渡った塔の上に、あなたの身体が残っている」


 瞬間、巨大な悪霊は明らかに目を見開きます。

 その巨体が、剣を握る手が、わなわなと震え始めています。

 私には何のことなのか見当もつきませんが、彼は確かに動揺しています。


「それに、聖なる水を打ち込めば、この悲劇は終わる」


 その言葉を聞いて、ようやく私は思い当たります。

 首元の小瓶を手に握り、その中身を覗いてみれば、確かに中には液体が込められていました。

 うすぼんやりと光を放つ、小瓶の中にある液体。

 これが、聖なる水なのでしょうか?


 だとすれば、この言葉は、彼に向けたものではないのかもしれません。

 お母さんは、悪霊にばれないよう、私たちに情報を伝えようとしてくれているのかもしれません。


「この町の人間にいる人間は、これですべてのはずだ」

「馬鹿ね。すでにあの子に託したわ」


 もし、だとすれば、信じたくはないけれど。

 お母さんは既に諦めているのかもしれません。

 あるいは、言葉通り託そうとしているのかもしれません。


 あとは私たちに任せると、そういうことだとすれば、お母さんの言葉に、行動に、辻褄があってしまいます。


「あとは、東へ向かうだけよ」


 今すぐにでも叫びたい。

 走って行って、お母さんと一緒に逃げたい。


 でも、そうしたらお母さんの覚悟が、私たちに託した何かが、無駄になってしまうんだと思います。


 飛び出すことはできません。

 駆けつけてはいけません。

 目の前で、覚悟を決めたお母さんには、なにもしてはいけません。


 今の私には、なにも、できない。


「反逆者が!」


 お母さんの傍にあった直剣が、直上へと素早く持ち上げられます。

 次に映る光景を察するより早く、その勢いが反転します。

 止めさせたくて、飛び出したくて、それでも何もできなくて。

 目を見開くことしかできない私の目の前に――その瞬間は訪れました。


 お母さんの体が、直剣の先に、触れました。


 膝をついてのけぞり、後ろ向きに倒れていくお母さんと、目が合いました。

 その目は、その口元は、いつものように、変わらない、優し気で、儚げで、少しの喜色を含んだ、笑みを浮かべていました。


 そして、どさりと音を立てて。

 崩れ落ちたお母さんの目は、完全に閉じられてしまいました。


          ◆◇◆◇◆


「お母さん、起きて……お母さん……!」


 肩をゆすり、首を起こし、胸に額を擦り付けても、帰ってくるのは微かな呼吸と、微かに響く心拍だけ。

 たしかに生きてはいるはずなのに、全く生気の感じられない顔。

 私の声が届いていないことを嫌でも思い知らされる感覚。


「私、一人でなんて生きられないよ……」


 あの悪霊が姿を消すまで、私たちは息をひそめ続けました。

 頬を湿らせるほどに視界を滲ませても、浅い呼吸で喉の奥を詰まらせても、大きな声だけは漏らさないように、奴に気づかれないように。

 そうして、奴が空の彼方、東の山頂まで飛んでいくの見送るまでは、その場から動かないように努めたけれど。


「こんな首飾り託されたって……!」


 こんなことになるなら、あの時ルダンの腕を振り切ってでも、お母さんを助けに行けばよかったのです。

 きっと、その後すぐあの剣に襲われたとしても、お母さんと一緒なら怖くなかったはずです。

 一度約束を破ったのなら、何回でも破ればよかったのです。


「ああぁ……」


 お母さんを抱いて空を見上げ、こらえていた声を吐き出します。

 いつまでも止まらない涙を、恨めしいほどに明るい月明かりが照らして、目の前が瞬いて、何も見えません。


「あぁああぁ……!」


 視界はまるで私の心のようにぐちゃぐちゃで、満足に声も発せなくなって。

 喉を詰まらせるその苦しさを、取り除こうにも息が詰まって、言葉にならない声が途切れては、そのそばから吐き出されていきます。


「アニー」

「何も……言わないで」

「そうも、いかないだろ」


 滲んだ視界の向こう側に、ケトルハットの輪郭が写って、言葉で突き放そうにも思いつかなくって、私は近づくその肩を跳ね除けることができませんでした。


「ここで泣いていくのはいい。今は好きなだけ泣けばいい」


 彼は、私を抱きしめたわけではありませんでした。それをするには、動かせる腕の数が足りなかったから。

 だだ、彼は私と向かい合ってまだ動く左手を、私の肩に載せました。革のグローブの親指のフチが、私の頬を少しだけ擦ります。


「涙が止まったら教えてくれ、そのあとやるべきことは、わかってるだろ」


 ルダンは一度だけ、掌を私の頬に沿わせて、通り過ぎる親指で、涙を拭ってくれました。

 それは片目だけ、一瞬だけのことでしたが、やけに視界が澄み切って、月明かりに照らされたルダンの顔が見えました。


「……そうだね」


 久しぶりに、彼の顔をしっかり見たような気がします。

 私やお母さんとは、明らかに違う目元や鼻筋から違う顔。ですが、その口元に浮かんだ笑みは、どことなくお母さんに似ている気がしました。

 彼は眉毛を困ったように垂れ下げながらも、お母さんが、いつも私を見てくれる時のような、慈しみに満ちた表情をしていました。


「分かった」


 別に、彼に励まされたわけではありませんが。


「アイツに合って、こんなこと、やめさせればいいんでしょ?」


 お母さんが、私に託したのですから。


「だったら、私、行くよ。あなたや、街の人のためじゃない」


 今私がやるべきは、それだけなのですから。


「お母さんと、ほかでもない、私のために……東へ!」


          ◆◇◆◇◆


 月が空の頂点に差し掛かった頃、私たちは草原を越えた先、王都の周りを囲うように生い茂る木立の中を進んでいます。


 草を剥いで慣らされた街道とは言え、月明りを遮る木の葉は不気味で。

 私は相変わらず動かないルダンの片手を握りつつ、私は左手に松明を握って、着実なペースで歩き続けています。


「足、痛くないか」

「大丈夫です」


 我ながら不愛想なことだと思います。

 しかしながら、私にも羞恥心というものはあるのです。

 好き勝手に泣きじゃくって、嘆く様を見られた相手に、自分から話しかける気にはなれません。


 ましてや、そのことを察して気前よく話しかけられてしまっては、身に迫る危険に気づくことができないかもしれません。


「まあ、そんな顔するな。この辺りの森は安全だ」

「……そうなんですか」

「ああ、仮にも王都を守る森だからな」


 そういえば、と思い当たります。

 誰からだったか忘れましたが、私が昔、馬車で王都を訪れた時、向かいの席から発されたちょっとしたおとぎ話の中で、その言い回しを聞いたような気がします。


「たしかこの森があったから、私たちの国は、王国になれたんですよね」

「おう、ちゃんと覚えてたか」

「……? どういうことですか」

「ほら昔話してやっただろ、王都を守る森の精霊の話」

「え?」


 言われて、向かいの席に座っていたのは、私と同じぐらい背丈の、男の子だったのだと気づきます。

 顔はハッキリ見ていませんでしたが、確かその子は知り合いで、ちょうど年齢も同じぐらいだったような気がしています。


「お前が髪色のことと、父親いじりのことで拗ねて、母親にべったりになる前の話だ。妙に不安そうな顔してたから、俺が即興で作り話をしてやった」

「……は?」


 思わず歩を止めて、ルダンの方を向いてしまいます。

 作り話? 言われてみれば、あれ以来、同じような話を街で聞いたことはなかったような気がします。

 記憶がかすかだったのは、その影響もあるのでしょうか。

 もちろん、彼の話を信じるなら、ではあるのですが。


「随分、趣味の悪いことをしますね」

「そんな言い方ないだろ。もちろん、俺の自己満足には変わりないけど」


 ……確かに、私は少々彼を突き放しすぎなのかもしれません。

 仮にも、事情を知っている唯一の知り合いなのですから、もう少しこちらから歩み寄るべきでしょうか。


「ねえ、ルダン」

「なんだ、敬語はいいのか?」


 もう、それはいいです。

 相手が普通の口調なのに、わざわざあれこれ理由をつけて、貫き通すほどのこだわりではないので。

 だから私は無言で頷いて、次の言葉を紡ぎます。


「……子供の頃の私って、どんな感じだったの」


 それで、ルダンが目を見開いたのが分かりました。

 まあ、変な質問ですからね。

 別に私は記憶喪失でもなんでもないですし、覚えていることもありますから。

 でも……ただ一つだけ、聞きたいことがあるのです。


「閉じこもるより前のこと、よく覚えてない。きっと、まとめて全部に蓋をして、友達とか、私に仲良くしてくれた人とか、そういう人達にさえ、目を向けないようにしてたからかな」

「というと、六歳くらいからか?」

「……うん」


 六歳。そうでしたね。

 私が町の人々から浮き始めたのは、ちょうどそれくらいの時でした。

 ちょうどさっきルダンが口にしたような、両親に関することで、我慢ならなくなったのが、そのくらいの時でした。


「ルダンは、知ってるんでしょ?」

「まあ、ずっと見てきたからな」

「……そんな、家族みたいなこと言わないで」


 お母さんのことを思い出して、苦しくなってしまうから。

 お父さんのこと思い出して、惨めになってしまうから。

 私に兄弟姉妹がいないことを思い出して、悲しくなってしまうから。

 そんな言葉は、聞きたくないです。


「……家族のつもりだ」

「え?」

「お前のことは……妹みたいに思ってる」

「……そう」


 あなたは……そうですか。

 そんな風に思ってくれていたんですね。

 どうりで、何度突き放しても、しつこく話しにきてくれたわけですか。

 どうりで口うるさい身内みたいに、心配してくれていたわけですか。


「王都までは、まだもう少しあるからさ」


 そういうと、ルダンは少し立ち止まり。私の方を向きました。


「俺が、全部思い出させてやる。なんて、言い方したら嫌か?」


 きりりとした顔、少しキザな言い回し。


「……ちょっと気持ち悪いね」

「な!?」


 私が誘導したようなものですが、彼にそういうのは似合いません。


「どうせなら……楽しく話して」

「……ああ。わかった」


 木立に挟まれた街道の上、月灯りの冷たさを跳ね除けるように温かい、松明の炎を頼りに。


 談笑という言葉がふさわしい、少し緊張感のないやり取りをしながら、私たちは進み続けます。


 今だけは時間も、悲しいことも、怖いことも忘れていられるような気がしたから。


 やがて見覚えのある岩山が、見上げられるようになるまで、私たちは話し続けることにしました。


          ◆◇◆◇◆


 森を抜け、斜面に築かれた街並みを見届けた後。

 王都の城壁で、それらが隠れはじめたところで、私たちはふと、立ち止まることになりました。


「ここが、正門だが……」

「開けっ放しになってる……どうして」


 街を守る外壁をくりぬくように造られた門は、その姿を跳ね橋に変えたまま横たわっています。門を立てるべき鎖は伸びきって、横切ろうとするものもいないのに、不用心に開け放たれていました。


「少し用心した方が良さそうだ」

「悪霊がいるから?」

「それもあるけど、中に何がいるかわからない。混乱に乗じて乗り込んだ、火事場泥棒すらいるかもしれない」


 言われて背筋がぞくりとしました。この国は平和ですが、野盗の類が全くいないと言い切れる程ではありません。

 ましてやこの時間です、もし、今回の事態が王都にまで波及しているのなら、私たちにとっての脅威が、悪霊だけである保証なんてない。

 松明だけでなんとかなるとは、思わない方が良いのかもしれません。


「安心しろ。片手でも剣ぐらい握れるさ」

「無理はしないでね」

「善処する」


 もうすっかり夜も更けてきて、月の輝きも弱まってきています。

 辺りは真っ暗とは言えないまでも、松明がなければよく見えません。

 肉眼で見えるのはせいぜい、物の輪郭くらいでしょうか。

 悪霊なら青白い光が見えるかもしれませんが、そのほかの脅威は、きっとそうもいかないでしょう。


「行くぞ、アニー」

「うん」


 悪霊がいるかもしれない以上、松明は消せません。

 ひとまずはここで覚悟を決めて、一歩踏み出すしかないのです。

 だから私たちは一呼吸おいてから、跳ね橋へ足を踏み出しました。


 少しだけミシリと音がしたかと思うと、それが全体に伝わって、鎖が揺れます。シャラシャラと鳴る金属音。あまり、音は立てたくなかったのにと、ルダンが少しだけ歯噛みして、門の先を睨みつけたのがわかりました。


「止まれ」

「っ!」


 そして、声が聞こえた瞬間、ルダンは肩で私を抱き寄せました。

 私の方も松明を構え、声の主を探ろうとします。


「生き残りの兵士だな、こちらへ来い」

「お前は何者だ」


 ルダンは神妙な面持ちで、しかし大声は上げず、冷静に相手へ向け問います。

 相手の口ぶりは、まるで盗賊の一派か、敵国の兵士のようにも聞こえます。

 ですが……少し楽観的すぎるかもしれませんが、もしかしたら、他の可能性もあり得るかもしれない。


「王宮の近衛兵だ。ここにいては悪霊に襲われるぞ」

「っ……わかった」


 ああ、よかった。声の主は、私たちの味方であるようです。


          ◆◇◆◇◆


 外壁の中から続く地下通路に踏み入り、狭い道を松明で照らしながら進むと、突然周囲の光景が豪華絢爛なものに変わりました。

明かりはついていませんが、天井にはシャンデリアがあり、足元には赤い色のカーペット、窓のない壁にはいくつかの肖像画が飾られています。


「鎧も剣の一つも無いが、許せよ。あれらは儀礼用だから、こういう時役に立たんのだ」


 黒く染まったコートを身につけたその人は、近衛兵らしくは見えません。

 剣も身につけていなければ、兜もかぶっていないからでしょうか。

 ですがそれは、この状況では合理的に思えました。

 つまり替えの装備を身に着けていないのは、悪霊には剣や鎧など意味がないと、そういうことなのでしょう。


「どこに向かっているんだ?」


 ルダンは声を抑えながら、近衛兵に尋ねます。

 そういえば、私たちはまだ目的地を知らされていません。

 彼が悪者である可能性など微塵も考えず、ただ不用心について行っているだけです。


「王様のところだ」


 でも、その言葉が本当なら、これほど心強いことはありません。

 上に立つ人間が無事ということは、ただ単純に喜ばしいことです。

 不安があるとするならば……


「こんな格好で大丈夫でしょうか」

「生存者は多い方がいい」


 私の不安は、極めて合理的な意見に拭われて霧散します。

 もしお母さんの知っている情報を王様に伝えられれば、状況は好転するでしょう。


「ここだ」

「ここって……」

「使用人用の食堂だ。さすがに謁見の間は目立つのでな」


 たどり着いたのは、薄暗いろうそくで照らされた、質素な広間。

 いくつかの長机とそれを囲むスツールで満たされた広場には、数人の人影がありました。

 そう、数人。両手で数えられるほどの人数しかこの場には居ないのです。


「戻ったか」

「はっ」


 近衛兵がその場で膝立ちになり、前方へ向けて頭を垂れます。ろうそくの火を反射するのは、銀に輝く貴金属の王冠。

 中心に赤い宝石細工があしらわれたそれは、明らかにあの悪霊のものとは異なりますが、その髪色や髭の色は、老齢のものとはまた違った、雪のように自然な白色をしていました。


「おい、アニー」

「あっ、ご、ごめんなさい」


 一瞬無礼に眺めまわしそうになって、ルダンの声で正気に戻ります。

 すぐさま私も膝立ちになって、下を向いて目を伏せます。

 先ほどまで感じていた緊張とは、また毛色の変わった緊張。

 ただの町娘が王族の前で、無礼を働くわけにはいきません。


「よい。この状況で、礼を気にすることはない」


 寛大な方で助かりました。

 私は思わず胸に手を当て、ゆっくりと撫で下ろします。


「おや、そなた……その首飾りは」


 言われて、私は首飾りに目をやります。

 その中は相変わらず、ほのかな光を放つ液体で満たされています。

 よく見ればそれは、あの悪霊たちの輝きにも似ているような気もしました。

 事情を知らない方々に、むやみに見せるべきでなかったでしょうか。


「申し遅れました。私たちは」

「そうか……聖水の調合は間に合ったのか」

「……事情をご存知なのですね」


 会話はルダンに任せきりですが、私にだってその意味ぐらいわかります。

 王様はおそらく、私たちの目的を知っているのです。

 もしかしたらお母さんとは、すでに知り合いだったのかもしれません。

 とすれば、お母さんは王様から直々に、聖なる水の調合を任されていたということなのでしょうか。


「ここまで、ご苦労だった。しかし、我らに残された時間は、残り少ない」


 そして王様は、腰掛けていた椅子から腰を上げ、私たち全員に向けて、厳かな声で告げました。


「夜明けまでだ。夜明けを過ぎれば、刈り取られた人々の魂は、永遠に霊王のものとなってしまう」


 霊王という呼び方が、誰のことを指しているのかなんて、深く考えなくてもわかりました。

 それでも、そんな時間はないはずなのに、思わず説明を求めてしまいそうになります。

 ですが、私が問い詰める必要もなく、王様は語り始めてくれました。


「旧代の愚王が残した禁術は、日の出ともに完成するのだ」

「禁術?」

「生ける魂を不死身の兵と成し、己が思いのままに操る、操霊の魔術よ」


 魔術。言葉の響きも、その意味も知っているものではあります。

 でも本当にそんなものが、現実に存在するのでしょうか。

 そう考えてしまいそうになりますが、現実に、悪霊がはびこっていたことを考えると、今更疑う意味もないように思えました。


「すでに王都の人間のほとんどは、やつに魂を握られている」


 確かに隠し通路を進む前から、王都は静まりかえっていたように思います。

 いくら夜中であるとは言え、繁華街や酒場はいつもそれなりに賑やかであるはずなのに。


「だが、その聖水があれば、あの愚王を滅することができる」


 私はこの方の思いを汲み取れるほど、この国の事情を知りません。この方がお母さんに何を託したのか、知る由はありません。しかし、それが、私の勘違いでなければですが。震える声でそう言う王様は眼筋に涙を浮かべているように見えました。


「二人とも、よくぞここまでたどり着いてくれた」


 いえ、きっと勘違いなのでしょう。そうでなければこんなにも凛々しく、私たちを、鼓舞してくれることはなかったでしょうから。こんなにも心を温かく、気持ちを高めてくれる事などなかったでしょうから。


「それはどうかな。今代の愚王よ」


 ですが、高鳴った心は、その声で跳ね上がってしまいました。


 背後を見やると、青白い光が見えました。


 数にして五体ほどの悪霊が出入口を塞ぎ、その中心には巨大な人影が陣取っています。

 それは、既に抜刀を済ませている、あの時と変わらない、巨大な悪霊の姿でした。狼の、ガルルという唸り声が、屋内に何十にも響きました。


「根気よく待った甲斐があったというものだろう? 泳がせた釣り餌のどれかが、この目から消えうせる瞬間を」

「霊王……!」


 その場の誰もが、片手に炎を構えました。ある者はテーブル上の燭台を、あるものはたった今着火したろうそくを、そしてあるものは左手に握った松明を。緊張感とともに歯を食いしばった者たちの中で、唯一、王様だけがなにも構えていませんでした。


「確かに、私は愚かかもしれぬ。だが」


 いえ、何も構えていないように見えたのは、思い違いでした。

 彼は胸元のマントに、腕を隠していただけでした。

 どことなく霊王に似た、豪華絢爛なマントが勢いよく翻されて、中身が明らかになりました。


「それ故、自分の役割は、わきまえているつもりだ」

「何?」


 霊王の疑問に答えるように、王様が眼前に構えたのは、一本の長得物でした。それは炎のように波打つ刀身を持ち、ほのかに暖かい光を放つ、橙色の両手剣でした。


「ここは私が、時間を稼いでみせよう」

「っ! 王よ、一体何を考えて」


 隣にいた近衛兵さんが、声をあげそうになったところで、王様がキッとこちらを睨みつけました。

 その目には、常人とは思えない迫力と、確かな覚悟が宿っています。

 次の言葉を待たずとも私たちが何をするべきかは、理解できました。


「ゆけ! 従者たちよ! なんとしても、その子を守りぬけ!」


 一瞬の静寂、そこに、皆々が息を呑んだ音が響きました。


「「「「はっ!」」」」


 命令とあらば、彼らは迷うことはないのでしょう。声を挙げた近衛兵さんを始めとして、全員が私たちの傍についてくれました。


「こっちだ!」

「アニー、行くぞ!」

「わかった!」


 のこっていたメイドさんの一人が、裏側の扉をあけ放ち、もう一人が、燭台を持って先行します。

 近衛兵さんが私の手を引き、私はルダンの手を引きます。そのさらに後ろに、二人の兵士たちが続いて、殿を引き受けてくれました。


「この剣、容易く崩せると思わぬことだ!」

「小癪な……!」


 王様の啖呵と、唇を噛むような霊王の声を最後に、私たちは広場を後にします。

 目的地はもう決まっています、近衛兵さんたちが、導いてくれる通りの場所。


「塔へ向かう! 全員、全速前進だ!」


          ◆◇◆◇◆


 物置を気にすることもなく、私たちは走り続けます。

 ただひたすらに廊下を駆け、たまに曲がって、上へ上へと登っていきます。

 私にだってそれが何を意味しているのか、理解できていました。

 私たちはあの、王城のそびえる岩山を上っているのです。


「きゃあ!」


 先行して燭台で前を照らしていた二人のメイドさんが、突然悲鳴を挙げました。

 見ると、前方の曲がり角から飛び出した悪霊が、彼女らの首筋に噛みつこうとしていました。

 どうにかして、助けないと。

 私はそう思って、となりの近衛兵さんを見やります。


「足を止めるな!」


 その声で私は正気に戻ります。

 いえもしかするとそれは、すでに狂気の一端なのかもしれませんが。

 なんにせよ彼女らを助け起こさなかったおかげで、我々は、廊下の奥から迫る悪霊の大群を間一髪で躱すことができました。


「うわああ!」


 いえ、完璧に躱しきることなどできなかったようです。

 後方から新たな悲鳴が上がり、我々の足音は四つに減ってしまいます。

 振り返っている暇はありませんが、何が起こったのかくらいわかります。

 私のすぐ後ろの足音が、一人分減っていますから。


「隊長! 自分が足止めします!」

「頼んだ!」


 そして、背後の気配に悪霊のものが混じり始めたころ、そんなやり取りを最後に、後ろから足音は聞こえなくなりました。

 少しして、悪霊の気配が遠ざかっていきます。


「ごめんなさい……!」


 彼らの犠牲によって、私たちは進み続けられていました。

 窓の無い廊下から、月明かりが差し込む回廊に踏み込み、しばらく先に、両開きの扉が見えました。

 扉の微かな間からは、窓と同じような、微かな光が漏れ出ていました。


「お前たち、名前は何と言ったか」


 隊長と呼ばれた近衛兵は、門まであと少しの距離で、私たちに一つ訪ねてくれました。こんな状況でも、一言だけであれば答えられます。


「私はアニー」

「俺はルダン」


 門まであとほんの数歩。

 私たちが簡潔に自己紹介を終えると、近衛兵さんは、足元に笑みを浮かべました。


「そうか。覚えておく」


 近衛兵さんが私の手を離し、両開きの扉へ飛び込みます。

 体当たりとともに、木材の軋むおとが響き、扉が勢いよく開け放たれます。

 その裏側月明かりと共に姿を現した風景は、まだしばらく続く、たった一本の石橋でした。


「この橋を渡った塔の先、最上階だ」

「あなたは」

「俺はここで食い止める。ヤツはまだ未熟だからな」


 その、ヤツという言葉が指す人の名前を、私たちは知りません。

 だけど、それが誰のことを指しているかということくらいは、理解できました。そして、振り返った廊下の先に、不規則な足音が響いていることも。


「行け、二人とも! お前たちが終わらせろ!」


 その声を合図に、私は石橋の向こうへ駆けました。

 背後から狼の唸り声が響いて、私に並ぶ足音は、ルダンのものだけになりました。


          ◆◇◆◇◆


 城下を見下ろす岩山の上。その頂上付近にかかった橋の上。

 肌に吹き付ける夜風が強く、冷たくなってきたころ。

 私たちは石造りで巨大な塔の根本にたどり着きました。


「準備はいいな?」


 一度立ち止まった私たちは、最後の会話を終えて。

 扉のない入り口を抜け、塔の中へと踏み入ります。


 もしかすると、既に内装を飾る家具などはが朽ち果ててしまっただけなのかもしれませんが、それにしたって、塔の中は、あまりにも殺風景でした。

 床も壁も石造りで、高所に備え付けられた小窓以外に、光を伝えるものはないようです。


 ただ、数人が走り回れるくらいにだだっ広い広間の奥には、暖炉のようなものも見えました。

 そこには少しの木片と、いくらかの装飾品、宝飾品、燭台やインク壺、そして数冊の書物も残されています。


 かつては執務室か何かだったのでしょうか。

 あるいは封じられた霊王を監視する場所だったのでしょうか。

 今の私たちは、知り得ないことです。


「階段はあそこだ」


 物が散乱する場所の奥、倒れた扉の向こう側に螺旋階段のようなものが見えました。上にいくには、あそこを通るしかなさそうですね。


「急ごう。足元に気をつけろ」

「わかった」


 この塔が何階建てなのか、最上階までどのくらいなのかはわかりませんが、私たちの目的は一つです。

 迷うことはありません。私たちは途中階を詳しく調べることなく手をつなぎながら、ただひたすらに螺旋階段を駆け上がります。


「ここだな」

「ええ」


 登り切ったところに現れたのは、少しの霜を纏う、薄汚れた扉でした。

 両開きで、取手は2つ。

 かなり大きいですから、一人で開けのは難しそうです。


「ルダン。手、離さないで。一緒に開けよう」

「ああ。行くぞ!」


 私たちは息を合わせ、勢いよく扉を開け放ちます。

 中の光景を確認するため、松明を前方に向けて、光を通そうとします。


 しかし、その必要は無かったようです。

 最上階の部屋の中は、青白い光で満ちており、天井と、向かいに見えたバルコニーから差し込んだ光が、部屋の中を、やけに明るく照らしていました。


「あれが……!」


 そして、バルコニーの手前。逆光の中に佇むシルエットは、椅子のような形をしていました。

 それは、青い宝石に銀細工など、見覚えのある装飾があしらわれた玉座。


 そして、その上にもたれかかっているのは、上裸で、肋骨の浮き出したみすぼらしい格好で、棒のように細い腕を肘掛けから垂れ下げた、白いひげの老人でした。


「来たか」


 死人のようにかすれた声、しかしながら、その奥に確かな威厳を秘めた声。

 小汚い体毛のせいで表情は見えませんが、彼が何者かということくらい、私にだってわかりました。


「あなたが、本物の霊王」

「いかにも」


 顎を上に向けつつ、声を発するその人物の肌は、月明かりの補正を除いたとしても、明らかに青ざめてしまっていました。

 まるで、肉体はもう朽ち果てているのに、死ぬことを許されていないかのように。その老人は、とても、苦しそうにしていました。


「少し、話を聞いて行かんか」


 弱弱しい、哀れささえ抱かせるような声色。命乞いのような語り口。

 一瞬、彼には何か役目があって、それを私たちに伝えようとしているのではないかという錯覚さえ覚えてしまいます。

 ですが、私たちはもう、心に決めてしまっています。


「あなたの話は聞きません、時間を稼ごうとしても無駄です」


 私たちは歩みを進め、霊王の元へ近づいていきます。

 部屋の中は、ルダンが警戒してくれています。

 だったら、私がやるべきことは、一つでしょう。


 私は松明をその場に置いて、霊王の襟首を掴もうとしました。


「だからお前らは愚かなのだ」


 瞬間、横方向からの衝撃。身体が押し倒されて、私は体勢を崩します。

 振り向いて、何が起こったのか理解しました。

 ルダンが、私を押し倒したのです。

 彼の手は私から離れて、腰の鞘に添えられていました。


「アニー! 離れてろ!」


 その言葉で、彼が私を守ってくれたのだと理解しました。

 彼の身体のさらに先、玉座の隣には、別の人影がありました。

 いったいどこから? などと考える必要はありません。


 この薄暗い広間には、いくらでも死角がありました。

 その人影は、目を青白く光らせて、こちらを見ていました。

 右手には、実体の剣が携えられていました。


「うっ!」


 引き付けた霊王の身体と共に、私は床に倒れ伏します。

 すぐさま振り返り、襲撃者の姿を見やります。

 目の光は明らかに人間のそれと異なりますが、それは明らかに生身の人間のはずでした。


 表情はよく見えませんが、ちょうど私の横には松明があります。

 先ほど霊王の首をつかむ前に、取り落としたその松明が。

 私はそれを、襲撃者の方へ向けました。


「っ!?」


 襲撃者のその顔は、決して見慣れたものではありませんでした。

 しかしながらそれは、記憶の彼方に残っていた顔でした。

 その姿は、あの日の記憶に焼き付いていました。


 温かい光に包まれた王都を一緒に見ていた鎧姿。

 お母さんが伝えてくれていた、黒い髪。

 何よりもその、優し気な面影の残る、どことなく私に似た顔は。

 そうだ、あのとき一緒に私と一緒に、光に包まれた王都を見ていたのは。


「お父さん……?」


 その声で、ルダンが目を見開いたのがわかりました。次の瞬間、彼は構えた長剣越しに、お父さんの振りぬいた剣を受けてしまいました。

 人間とは思えないほどの怪力で、ルダンの身体が転がります。


「ルダン!」

「よそ見はよくないぞ」


 直後、腹部に衝撃。少しだけ遅れて、鈍痛。


「かはっ……!」


 私はうずくまってお腹を押さえ、何が起こったのか理解しようとします。

 見上げようとした頭が、後頭部の髪が、何かに掴まれたのがわかります。


「霊体の身では見えなくとも、生身があればこの通りよ」


 私の頭を持ち上げたのは、小汚いひげを蓄えた老人の腕でした。

 霊王はその瞳を青白く光らせ、軽々と私を持ち上げていました。

 なるほど、先ほどまでの苦しそうな姿は、演技だったわけですね。


「今すぐ聖水をこちらへ渡せば、命だけは助けてやろう」

「魂を抜いて……ですか?」

「無駄口を叩くな」


 顔面に迫る拳骨。

 岩のように固い骨の衝撃が、私の頬骨にめり込みます。

 そのまま髪を放されて、私は殴り飛ばされます。

 チカリと明転する視界。気が付くと、私は床に転がっていました。


「我は不死身なのでな、勝てるとは思わんほうが良いぞ?」

「随分、死にかけの演技がお上手で」

「ふむ、まだ足りないらしい」


 老人のつま先が、私の眼前に迫って、私はとっさに顔をそむけます。

 完全には間に合わず、側頭部を蹴られたのがわかりました。

 私の身体は回転しつつ、遅れて激痛を伝えます。


「アニー! ……くそっ!」


 耳に響く剣閃の音。金属のぶつかり合う甲高い音。

 ルダンは、お父さんの相手をさせられているのか、駆け寄ってきてはくれませんでした。

 霊王は再び私の髪をつかみ、無理やり私を立たせます。


「貴様のその白い髪、我の血であろう。どこの阿婆擦れが外に漏らした?」

「お母さんは……そんなのじゃない」

「ああ、そういえばお前、反逆者の娘だったな」

 

 鈍い音。暗転。

 明転。鈍い音。

 勢いよくおさえ込まれて、ゆかにたたき付けられたのでしょうか。ひどく、あたまがいたみます。鼻も、めも。


「後代の子孫はどいつも愚かだったが、やつは格別だったなあ。一人の近衛兵にたぶらかされよって、己の使命を捨てて、我の封印を弱めた」

「おかあさんは……」

「お前の親さえいなければ、お前も苦しまずに済んだのになあ。慌てて後始末をしようとした父親も一度魂さえ握ってしまえば、敵を切り伏せろと命じるだけで、このざまだ」


 きしょくの、悪い。

 わたしの……私のお父さんを悪く言わないで。

 お母さんを、悪く言わないで。

 あの人たちを、そんな言い方させられない。

 私の大切な人たちを、馬鹿にしないで。


「もう一度言う。聖水を渡せ」

「…………」


 心の中に燃えるのは、こいつに対する反抗心。

 言う通りにはしたくない、そうすればどうなるかぐらいわかってる。

 隠してくれたみんなの努力がどうなるかぐらいわかってる。


 ……でも、もう、これ以上は、体がもたないから。


「わかりました」


 わたしは胸元に手を入れて、首飾りの紐を握ります。

 握ったまま手を差し出して、霊王の手へ、重ね合わせます。

 手のひらを開いて、首飾りの紐を手放して、相手の元へ落とします。


「……ふざけているのか?」


 先に小瓶の付いていない、首飾りの紐だけを手放して。

 そう、聖水はもう私の手の元にはありません。

 私が身に着けていたのは、大した装飾もない、何の変哲もない紐一つだけ。

 これで、私の役割はもう終わっているのです。


「ふざけるな! 貴様らはどこまで愚かなのだ!」


 霊王は私に詰め寄り、襟首を掴んで激高します。


「はて、なんのことでしょう」

「お前の母も! お前の父も! どこまで我の邪魔をする!」


 そういえば、お母さんはいつか、お父さんとの馴れ初めについて、見つけてもらったと言っていました。

 お父さんはいつか、この塔について尋ねる私に、決意に満ちた返答をしてくれていました。


 もしかすると、私たちがここを訪れるよりずっと前に、お母さんとお父さんは、何かを成し遂げていたのかもしれません。

 おそらくは、この老人のたくらみを、致命的にくじいてしまえるような、何かを。


「だが、忌々しいあの反逆者の努力も、思いも、全てはここで無駄になる!」

「うぐ……」


 霊王は私の首を鷲掴みにして、身体を持ち上げてきます。

 踏ん張る力も入らなくなって……つまさきが、床から、浮いていきます。

 苦しくて、凍えるような寒気が、全身へと伝わっていきます。


「人の身は軟弱! 圧倒的な不死の力の前には、全くもって無力なのだ!」


 私は、もう、すべてをやり遂げました。

 あとは……もう、待つだけでいい。

 私は……を待つだけでいい。

 私は……ここにいて……ひきつけていればいい。

 私は……もうやり遂げたから……あとは……

 私は……ここに立っていて……。


 霊王の気を引き付けて、信じて待つだけでいい。

 さっき、塔に立ち入る直前に、ルダンがそう言ってくれたのですから。


「離れろよ。変態」


 声が聞こえたその直後、視界の端に、光る何かが映りました。


「ぐおおおおっ!?」


 霊王の苦しげな声。同時に、床を踏みしめる感覚。

 全身の寒気が引いて、ぼやけていた意識が元通りになります。

 頼もしい肌の暖かさで、消えてしまいそうだった意識が、元通りになります。


「母親の思いなど無駄だと? 人間の身など軟弱だと? 確かにそうかもしれないな。それだけで、お前みたいに人知を超えた卑怯者に対抗するのは無理かもしれない」


 耳元から聞きなれた声。この夜だけで随分頼れるようになった声。

 見ると、私はいつの間にか肩で抱き寄せられてルダンの胸の中に居ました。


「でもな。少なくとも、この子の母親の託した想いは本物だ、父親が、この子のためを思って積み重ねてきた行為は本物だ。お前を打ち破るために、それぞれが取ってきた対策は、お前を打ち破るだけの力を持った」


 胸の鼓動が伝わってくるほど近くで、ルダンは、その右手に持った長剣で、霊王の胸を貫いていました。


「そして、そんな力を俺に託した、この子の勇気は本物だ」


 その刀身はいつか、王様が携えていた両手剣のように、しかし比べものならないほど眩く、オレンジ色に輝いていました。

 カツンと音を立てながら、床に何かが落ちました。

 それは、オレンジに光るガラス片。

 首飾りの先に付いていた小瓶のかけらが床に落ちて、その光を失いました。


 ルダンは、剣で小瓶を貫き、その中身を剣にまぶしたのです。


「ぐぐぐ……何故……!?」


 答えは簡単。私が、ルダンに小瓶を託していただけ。

 どうせ、手をつないてさえいれば、悪霊を退ける効果はあるのですから。

 いざとなれば、私の身の安全を後回しにして、一人でも霊王を仕留められるよう、信じて託していただけなのです。


「聖水は、いい。こいつの父は……国王付きの近衛兵だぞ……!?」

「ああ、正真正銘本物の、儀礼用の装備(・・・・・・)を身につけた、な」


 その言葉で私は、玉座の傍を眺めます。

 そこには、ヒビの入った鎧と、折れた剣を身に着けて膝をつく、お父さんの姿がありました。

 握られた刀身は、中が空洞になっていました。

 お父さんは傷だらけでしたが、致命傷は無いように見えました。


「強かったさ。さすがはアニーのお父さんだが……お前はまるでダメみたいだ」

「が、がが、が」


 ええ、その通り。

 限られた時間の中で最適に動いたルダンと違ってあなたは、首飾りの持ち主がルダンだと気付かず、私にだけ気を取られ、私をいたぶって時間を浪費した。

 あなたは、浅はかだったのです。


「お前みたいな卑怯者が」

「が、がが……が」


 ルダンの突き出した左腕が、どんどんと霊王にめりこんでいきます。

 めり込むたびに、霊王から光が吹きだして、ピシピシという音とともに、光が散っていきます。


「お前みたいに、往生際の悪すぎる軟弱者が」

「が……やめ……ろ」


 ルダンの、私の肩を抱く力が強くなります。

 痛くはありません。ただ、頼もしく、安心感を増しただけです。

 より強く抱きしめられて、私は暖かさに包まれます。

 私たちを照らす光は、徐々に大きくなっていきます。


「俺を信じた。俺の信じた……」

「やめろ……やめろ!」


 次の瞬間、何かが砕けたような音。

 見れば、霊王の肌が砕けていました。

 皮膚が砕けて、肉が砕けて、額の王冠の、宝石が砕けました。


 お母さんが、長い年月をかけて作り上げた、霊王を打ち破る聖なる水。

 その飛沫を纏った直剣が、霊王の身体を貫いて……


「俺の愛した、その子に触るな!!」


 私たちの居た広間は、眩い光に包まれました。


          ◆◇◆◇◆


 もうすっかりと明るくなってしまった、塔の最上階の一室で。


「私たち、間に合ったのかな」


 いつの間にか、月明かりの筋は見えなくなって。

 変わりに窓から、温かい光が差し込んでいました。

 日の出が来れば、魂は霊王のものになる。


 その言葉が本当だとすれば、私たちは一歩、遅かったのかもしれません。


「さあな。俺にはわからない」

「……そっか」


 私の隣に立つルダンはどことなく無愛想に、顔も合わせずにそう言います。

 すっかり馴染んでしまったせいか、私たちは今も手をつないで、横に並んで立っています。

 見下ろした場所は砕けた王冠だけが残っていました。

 ルダンのあの一撃をうけて、霊王の亡骸は跡形もなく消えうせてしまいました。


「……ルダンは、ホントに嘘つきだね」

「えっ、なにがだよ」

「妹みたいに思ってるって、嘘だったんでしょ」

「なっ、な……」


 ルダンは何か言おうとしたようですが、結局、何も言えずに黙り込んでしまいました。

 図星だったようです。私も、鈍感ではありませんから、あの言葉の裏に秘められた意味くらいわかっています。


「今はまだ、早いだろ」

「うん、私まだ、十四歳だからね」

「そうだ……うん?」


 おや、ルダンの方も察しがいいようですね。

 その様子だと、ちゃんと気付いているんですよね?

 私が、どんな思いであなたを見るようになったのか。

 私が、これから普通の日常に戻った後、どうしたいのかも。


 ですが、説明してはあげません。

 私は彼の右手を引いて、西側の窓へ歩み寄ります。

 歩み寄って、自分の勘が間違っていないことを確かめてから、彼の方を向いてあげました。


「私、七日後まで忘れておくから」

「…………」


 窓の方から振り向いて、口元に笑みを浮かべながら、一言だけ。

 それだけで彼もわかってくれたのか、少し間を置いた後。

 彼は、私の左手を握り返して(・・・・・)くれました。


「ああ、それなら誕生日と一緒に」


 眼下に見下広がる王城が放つ、底なしに温かい光と、一本橋の向こう側で松明を振る、数人の人影を見下ろした後。

 後ろから、今更になって登った朝日が手を握る私たちを照らし始めました。


「あとで全部、思い出させてやるよ」


 彼は、随分キザなセリフを吐いて、私に笑顔をくれました。


 あとで、家族全員に……

 特に、正気を取り戻し、こっそり後ろでこちらを見ていたお父さんには、何度も何度もいじられるくらいにかっこをつけた、満面の笑みを。



――おしまい――

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